わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】気づきの起こるところ

気づきは思考を離れたところで起こります。

思考を離れて研ぎ澄まされた感覚に、送られてくるものです。

思考により推理推察判断をしてみても、体験ではないから、わかるという事は困難です。

思考を離れて世界を見る時、世界がある事のほうが不思議だと理解できます。
そこでは全く「わかる」を体験できるのです。

現れ(世界)はただ現れであり、現す者が、現す力を使って現しているに過ぎません。

ただ一者が、彼の有する力(マーヤ)を作用させて、「現れを見る者」と「現れ」とを現しているのです。

現れ(世界)は彼そのものではないのだけれど、しかし、現れを見る我々は、そのただ一者を、一度でも認識し受け入れる事が出来たなら、この現れの中にさえ彼を見るのです。

世界はただ一者、神の意図による表現です。

そうであるなら、日常を暮らしながらも、そこに神の意図、すなわち臨在をくみ取る事が可能です。
世界は神から離れていません。
マーヤは、彼の意図に拠らなければ、作用を及ぼす事などあり得ません。

あの並木を見るとき、あのビルを見るとき、あの家も、あの電線も、それを見る我々は太陽の光が当たり反射してくるその光を見ています。

光がない事には世界を見ることはできません。

しかし光は太陽ではありません。
また、太陽は光ではありません。

しかし光を見るとき、我々は太陽を抜きにしては光を考えられません。
また、太陽を思うとき、同時に光も思うのです。

光と太陽は離れてはいません。
そのように、これら現れ(世界)は神と離れてはいないのです。

日常に神を思っているならば、神の中に居るのです。

神なくしては日常さえないのです。
また日常がなければ神さえありません。
神の意図に拠って、マーヤが作用し、日常が現れているのです。

同様に、神なくしてあなたはありません。
あなたなくして、あなたにとっての神がどうしてあり得ましょう。

神を、つまりあなたの源泉を思う事がなくても、あなたにとっての「わたし」が世俗を生きることは出来ます。
しかし、神を知らないでいるならば、次々に苦悩に翻弄され、満ち足りた安らぎなど得られない事でしょう。
神を知らないうちは、「わたし」の意味づけによって現れを捉えているからです。

「わたし」の都合で、身勝手な意味づけをしているから、都合に合わない事態に、怒りや悲しみで自我が反応するのでしょう。

神を知るなら、翻弄される苦悩など、取り沙汰されるべき程の事ではないのだとわかるでしょう。
そこここに、神の意図、臨在である愛を見るようになるからです。

そのようになれば、もう怒りも悲しみも超えて、許しと愛に満ちて日常を生きていけるようになります。

さて、これは宗教ではありません。
便宜上、神という名称を使っているだけです。
わたしには、それがしっくり来るから使っているだけです。

呼び方は何でもいいのです。
一番の最初でもいいし、源泉でもいいし、サチダーナンダでもいいし、唯一でもいいのです。

ただ、世界があるほうが不思議なのだと思える場所まで、感覚(わかるちから)を移動してみてください。

わたしは、神秘主義者でもないし、宗教者でもないから、このようにしか言えません。

このちからは誰の中にもあるし、きっとほとんどの方がそれに気づいていると思うのです。
思考を止めて、ただ、そのセンサーに集中してください。

思考するから自我の思うツボです。
理論も知識も定義も邪魔になるだけです。

静かに座り、思考を止め、静寂の中に入り、ただ、わかるセンサーに集中し、送られてくる気づきを受け取るのです。

日常においても、その場所を心に留めておくならば、独りで居る時にはすぐにそこに入る事が可能となります。
近頃わたしは、眠りの中の夢にさえ、神を求めています。
あ、また神の夢を見てた・・・と思いながら目覚めるのです。

ひとたびこの絶対者を知ってしまえば、彼の方を向いていないと違和感があります。

この至福より他に求める幸せなど、最早考えられません。
もう得る為に戦う事は無い。
それでもなお、再び世俗に帰ってきて、そこに生きるのです。

そこでの学びが終わるまでは。

 

 

2013-01-06

 

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