わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】思考の止め方(ひとつの提案)

思考ってやつは、知らないうちに忍び寄ってきて、ふと我に帰れば思考にどっぷり浸かっていたとわかります。

くだらない過去の出来事や、気にかかる事や、心配事、あるいは、世俗の欲望によるものや、耳についたメロディや、そんなものが引っ切り無しに来ては去り、去ってはまた来ています。

自我はそのようにして、思考のノイズで「わたし」を迷宮に誘い込みます。

そのように無意識に思考している事にすら気づかないで一日を過ごしている人がほとんどです。

ぼんやりしている時も、記憶の中をまさぐり、あれやこれや拾い上げては意味づけの材料にしてしまいます。
お金、憎んでいる人、支払いの督促、新しいスマホ、合コンで会った人、サーチしては捉えてしまいます。

ぼんやりしていない時も、目が捉えるいちいちに、関連する記憶を引っ張り出しに過去に戻ります。

この瞬間の初めて見る「今」を見ていながら、見ていないのです。
今見ているものに関連した過去の意味づけを拾い集めているのです。

そうであるなら、内なるわたし、真我など、どうでもいい状態なのでしょう。
仏陀が言う「気を付けておれ」とは、それを叱った言葉です。

真我の至福を味わった事が無い人は、この事がわからないでしょう。
しかし、それに強い憧れをもち、安らいだ満ち足りた状態に入りたいと願うならば、思考を止め、内なる静寂に浸らなければなりません。

一度でもこの世界の現れの源泉を見出したなら、再び「わたし」を世俗に置こうとも、自我の召使となる事はありません。

日常を生きていようとも、片方の手はこの真我に触れているのです。

そう言われて思考を止めようとしても、1秒たりとも止められない人も多い事でしょう。
そもそも思考を止めようとする事も思考なのです。

しかしそれは、ある程度訓練する事で可能となります。

まずは思考している事に気づいている事が必要です。
この思考を止めようと思考してみましょう。
一見論理が破綻しているようにも見えますが、これは呼び水の思考です。

井戸から手押しポンプで水を汲む時、ポンプに予め呼び水を入れて、その水を汲む事で井戸の水が吸い上げられてくる。

慣れないうちは、思考の手助けが役に立つ事もあるのです。
それで思考を止める、思考する、この事を自在にコントロールする事ができるようになるでしょう。

思考が思考を止めるには、やる気、本気、力技でやってもいいのですが、それはとても疲れる作業です。

もっと気楽に出来る方法があるかも知れません。

ひとつの方法として、思考が思考を打ち消すという思考はどうでしょうか。

思考している事に気づいている時、その思考とは別の意識的な思考をしてみるのです。

なるべく単純な音、1KHzほどの正弦波を思考で聴くのです。
まあ、いわゆる耳鳴りのような、ピー音です。
思考が出てきたら、意識的にピー音を思考し、それを聴いてノイズ思考を打ち消すのです。

できますよね?

意識的に聴く音ですので、意識的に止められます。

思考が止まった状態に入ります。

ちょっと気を許せば、再びノイズ思考が現れそうになります。
間髪入れずに、ピー音を聴きます。
ノイズ思考が打ち消されたら、ピー音を止めます。

それでまたしばらく、無思考の状態に入れます。

無思考の状態に入ったら、静寂を見てください。

ただ静寂の中にいて、そこに漂い、くつろいでいてください。

思考のノイズが現れそうになったら、ピー音の助けを得てください。

コントロールできるようになれば、長い間無思考でいられるでしょう。

そして、その静寂に留まり、その世界に浸ってください。

眼を開けたまま行ってください。
世俗と、そことは違う静寂の世界との違いを、くっきりと感じてください。

静寂の中にあるとき、「今、わたしが居るところ」を、しっかりと体験してください。
これは薄っぺらにも体験でき、深く深く体験する事も可能です。

眼を必ず開けていてください。
さもなくば、あなたは眠ってしまうでしょう。

現象世界を肉の眼で見ながら、それが幻である事をやがて知るでしょう。

深く深く、その静寂の中に寛ぐなら、日を追う毎に、あなたは変わっていきます。

あなたのコアに近づいているのです。

落ち着いた、冷静な眼で世俗を見る事が出来るようになって行きます。
思考も別の場所から離れて見る事が出来るようになるでしょう。

そうなったら、気づいてください。

思考を見ているのは誰でしょう。

見られているのは思考です。
見る者は誰でしょう。

その見る者はどこに居るでしょう。

その見る者も誰かに見られているでしょうか。
そうであるなら、更にその見る者に近づいて行ってください。

さて、自分を明け渡すべき相手、それがそこに居るのです。

静寂にあっても、世俗にあっても、自分に関わるあらゆる全てを、それに明け渡してしまいなさい。

そのようにするなら、彼は自らを明かすでしょう。
静寂にあろうが世俗にあろうが、彼の方から、あなたを呼ぶようになるでしょう。

あなたは今まで、光が照らすものを見ていました。

しかし、静寂にあるあなたは、光そのものを見ているのです。

更に奥深く、あなたの真に頼るべき彼に、自らを完全に明け渡すなら。
心から彼の召使いとなるなら。

あなたは光を放射する実体に触れるのです。

そのとき、ハートは味わった事の無い至福に満たされ、智慧が湧き出し、真実の愛に気づくのです。

そうであるなら、世界の成り立ちや、宇宙の運行など、現れては消え去る幻である事を悟るのです。
表面の波を見て海だと思い込んでいた事に気づきます。
今や、深い深い深海の奥底を見たのです。

全ては彼の、「在る」である彼の、みわざである事を、知ってしまうのです。

彼は愛によってそれぞれに応じた世界を見せている事を知るのです。
今まで、その表面の一部しか見えなかった為に、こだわり、掴み、勝手な意味づけをしていたのだと知るのです。

もう一度、更に言います。

静寂に入る事ができても、完全に彼に明け渡しきる事がないのであれば、なにかを得られたとしても、それはとても浅いのです。

 

2013-01-10

 

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