わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】プライドというマーヤ

人が他の人より優れているとか、劣っているという事はありません。
ですが、世間はそのように見てしまいます。

人の質とは根本からそうなのではなく、ただ役柄です。
幼稚園の発表会で、園児全員が桃太郎を演じていては演技になりません。
誰もが桃太郎をやりたくても、誰かが赤鬼を、青鬼を、あるいはサルやキジ、犬をやらないといけないわけです。

しかし、赤鬼にとっては、あるいは他の役柄にとっては、それが主人公の物語なのです。
鬼物語であり、青鬼物語、サル物語・・・なのです。

そうして人は、これが赤鬼というものである、青鬼というものであると学ぶのです。
それが彼の役目、つまり役柄の目的です。

今、他から虐げ(しいたげ)られている人は、辛い毎日を暮らしているかも知れません。
しかし、かつての遍歴に於いては彼も、虐げる側に立っていたかも知れないのです。
そのようにして人は、両方の立場を学び知り、「虐げる」と「虐げられる」の二者を捨て、中道に立つのでしょう。

生とは、生れ落ちる事とは、つまりこのような学び知る事のために起こっている、彼のための現象です。

そのように人は、自己と他との関わりを持つ事で、知るべきを知って行くのです。

修行に走る人は、それで学ぶかも知れません。
しかし、世俗に暮らしていてもそれと同等以上の修行に繋がっていると知るべきです。

霊性の修行というものは、どうであれ、今置かれた立場に於いて、成されていくとわたしは考えます。
誰もが導かれ、その役目を担っているのだと考えます。

それだから、辛い立場にある人は、自ら死を選択するような事をせずに、耐えてください。
ほんとうは、その辛さは、抱えている、掴んでいる、執着している対象の故に辛いのだと、もうすぐ知る事になるからです。

ここを誤解してはいけません。
対象そのものではなく、対象への拘り、執着、価値判断の事を言っているのです。

人が大事だ、大切だと思う対象は、そのへんに転がって落ちてる石のかけらと同じ位つまらない事の方が多いのです。
そのような、つまらないものにしがみ付いていた事に気づき、捨て去ってしまえばいいのです。

そうは言っても人は、なかなか捨て去るのは難しい。
後の事を思えば恐れが生じる。
苦を体験した者は、更なる苦という幻を恐れる。

しがらみ、世間からの非難、ひょっとしたら捨て去ることは逃げや、自分勝手な事なのではと思い為す。

とんでもない思い違いです。
人は本来、自由なのです。
人のエゴが作り出した社会の常識が、あなたの心を金縛りにさせています。

掴んでいるものから自由になる事がまず必要です。
まず、自由になった喜びを味わう事が、前進の第一歩なのです。

あるいは、プライド、意地、がそうさせない人もいます。
負け犬になるのが嫌なのです。それを恥だと思い込むのです。
蔑すまれる(さげすまれる)より蔑む側に居たいのです。

誤った価値判断というマーヤに覆われているのです。
そのような人は、まだまだ辛さを学ぶ必要があるのでしょう。

プライドは、本来の自分を覆い隠すエゴの魔法です。
自分は他より優れていると思い為すのは、欠如した能力を知っているからその反動として、それを否定するために思うのでしょう。

つまりプライドとは、コンプレックスの否定型を言っているのです。
真実優れた人は、優れている事などひけらかさず、優れているとも思っていません。
また劣等感なども無く、あるがままの自分を受け入れています。

それはまあ、プライドを原動力に戦うのは、ある程度成功を手にするかも知れません。
でも、それがどれほどの価値をもつのでしょうか。
それは、つまり、執着を極めたという結果でしかないのです。

プライドを持って、意地で、負けてたまるかという一心で、金メダルを取ったとしても、一時もてはやされるだけで、すぐ人々の記憶から消えていきます。

賞賛を得られていない自分、褒められもしない自分を否定したいための、意地、プライド、それは全く、賞賛を得たい、褒められたいという欲の現れでしかありません。

優れている、劣っているという二極の見方をしているうちは捨てられません。
ひとつの極と、相対する極との両方を学び知った者は、二極を捨て、中道に生きるのです。

プライドと、自分を誇りに思う事とを混同してはいけません。
プライドという武装を捨てた自分こそ、誇りに思うべきです。

しかし、プライドや恐れによって手放す事ができない人も、間違っているわけではありません。
役柄の目的、役目です。
それを学ぶのです。
知らない事は学ばねばなりません。

体験により知った事は、記憶から消えてしまっても、人の本質の中で脈々と息づいています。
そのようにして人は、新しい人としての質を得ていくのです。
体験から知り得たことは、単なる知識とは違い、魂の血肉となり、霊性向上の懸け橋となって行きます。

なんと神の完璧な事か。

全ては、人を愛するが故の彼の意図なのです。
リーラー(神の戯れ)とは、単なるお遊びではなく、尊い主題をもった神の活動です。

いずれ、順次人は完全な資質を備え、知るべきを知り尽くし、この世もあの世も自己をも放棄し、真実の自分に溶け込むのでしょう。
唯一の、絶対者に溶け込むのです。

そうなっても人は死にません。
今、そのままそうなっても、身体は滅びません。
死ぬのはエゴだけです。

また、たとえ身体がその役目を終えて、それぞれの分子が地球の組成に帰ったとしても、本質意識に死はあり得ないのです。

真実の自分を知り得た者は、それが絶対者の世界に、いつだって在った事を知る事になります。

永劫に。
始めも、終わりも、ありません。

 

 

2013-02-01

 

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