わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】人生を受け入れてみる

いつだって何もかもが自分の思い通りには運ばない。
苦難の連続です。

起こる事に対して、これは自分にとって苦難だと見るうちは、それは事実苦難です。
財布を落とした等の小さな事から、絶望の淵に立たされるような出来事まで、毎日が苦難の連続です。
起こらないでほしいと思っても起こってしまいます。

それは事実苦難であるとしても、なぜそのような事が起こるのでしょうか。

もちろん神のみこころではあるのですが、なぜ神はそのような苦難を与えるのでしょうか。

あなたは試されているのです。

神に試されているのではありません。
全てであり、完璧である神は、あなたを試す必要など無く、全てを知っています。

あなたが、あなた自身を試す必要があって、それが成就しているだけなのです。
思い違いを払拭するためには、そのチャンスが必要ではないでしょうか。

我々は事あるごとに、思い通りに行かない事に出くわし、その度ごとに苦悩します。

そうです。思い通りに行かない。
それがまさに苦難と位置付ける理由です。

しかし、思い通りと言うその「思い」とは何でしょう。

おおかたそれは、願望に根差しているのではないでしょうか。
金が欲しい、いい暮らしがしたい、楽をしたい、賞賛されたい、征服したい、・・・どれもこれもが「こうしたい」「ああしたい」です。

だから何をやっても「思い通りには行かない」のです。
その願望を目指しているうちは、それが身勝手な自分の都合である事にさえ気づく事がありません。

次々と起こって行くその出来事は、あなたにとってどのような意味があるのか検証して見る必要があります。
案外それは、なんてことの無い普通の出来事かも知れません。
あるいは、あなたを導くための方向性を示しているのかも知れません。
ひょっとすると、あなたにとって重大なチャンスであるかも知れないのです。

ところが、いつものように自分の都合で考え、つまり願望達成のためには起こってはいけない事だと考え、戦うのです。

全ては自我によって立ち上る欲のために出来事と戦うのです。

起こる事は起こるべくして起こり、それらには全て意味がある。
それは戦う対象ではありません。
知るために、学ぶために起こって行きます。

思い違いに気づくチャンスなのです。
あなた自身のための、あなたによる試しとして、あなたの物語に記述された出来事です。

戦う必要はありません。
勝利する必要もないのです。

ただ、負けないでいる事が大切です。

勝つか負けるか、ではなく、負けずにいて耐え、現象の、起こって行く事の、真実を知らなくてはいけません。

神が観ているのは、そこです。

あなたが俗世で、辛さ悲しさに涙を流すとき、神も共に泣いているのです。
あなたを愛するが故に、その出来事を起こしているのです。
その痛みも、苦しみも、知っていながらそれでも、あなたのためにそれを起こしているのです。

あなたが神の愛を悟り、自己の内にそれがあり、神と自分とは全く離れてはいないと気づくまで、あなたに起こる出来事は苦難でしかありません。

苦難のない人は幸せかと言えば、そんなはずは無いのです。
彼等はチャンスを得られないからです。
全く神、真実の自己、理由条件のない純粋な愛、そのようなものを知るチャンスが無く、もがきながら生きる人の痛みも知る事がないから慈悲心にも成長が見られないかも知れないのです。

純粋で真っ直ぐで、真っ正直な人ほど俗世は厳しいのです。
しかし、それだからこそ、気づきのチャンスは多いのです。

白い蓮花は泥水に染まる事無く、いつでも白く美しく咲いている。
そのように、世俗の欲から離れ、執着を解き、それら起こる事を起こるまま受け入れるなら、気づきが起こらないはずがありません。
全く清らかな、純粋な自我の状態になったなら、ほんとうの自己、真我の愛の波動を受けられないはずがありません。

それは愛とともに、偉大なる智慧と至福をもたらします。

起こる事はすべて、神の愛の故です。

それを思い違いしてはいけません。
欲が、執着が思い違いをさせているのです。
自分の欲の都合による誤った価値観は最早捨て去るべきです。

全てが、あなたが愛すべき対象です。
恐れる事無く、受け入れて見るのです。
その真実を知り、安らいの世界に、くつろいでください。

人生を生きるとは、ほんとうにご苦労様な事です。
でも、それは後になって、ほんとうに有難かったという喜びに変わるのです。

 

2013-02-08

 

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