わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】オオカミ少年

カミサンが突然言いました。

オオカミ少年ってほんとうにいたの?

オオカミ少年と言えば、「オオカミが来たぞぉー」と村人を騙し喜んでいた少年が、実際にオオカミが来たときには誰にも信じてもらえなかったというお話。

いや、そっちじゃなく。

森の中で行方知れずになった赤ん坊が、オオカミに育てられ、全くオオカミとして育った少年の事です。
四足で歩き、オオカミのような唸り声をあげ、生肉を食べるという報告例がいくつかの地域であったという事です。
しかし、成長速度の違いで、実際オオカミは人の子がそこそこ成長するまで親として生きてはいられるでしょうか。
事実かどうかは知りませんが、仮定として考えたら、ないとも言えません。

例えば生まれて間もない子犬を家族同然に一緒に暮らしていると、犬は自分が人間であると信じているかも知れません。

そうであるなら、人間は人間と一緒に暮らしているから、自分を人間であると信じ疑う事をしないのでしょう。
これはまた、オオカミと一緒に暮らしていれば、少年は自分をオオカミだと思っていると言う証しにもなる訳です。

またそうであるなら、自分が人間だとかオオカミだとか、言い切れる根拠など、どこにあるのでしょうか。
全ては思い込みによって信じ込んでいるだけです。

生き物の類を区別して、人間だと言い張っているのです。
区別は序列を生み出します。
序列は差別を生み出します。
差別は蔑みを生み出します。

また、蔑みの根底には、蔑まれているという意識が存在します。
その打消しがプライドや増上慢を生み出します。
それでいて、ちからに媚びる事も、へつらう事もしたりします。

みんな、全てはエゴのせいだとわかっています。
そしてみんな、そのような自分であっては惨めだと思いながらも、保身の故にエゴの言いなりになってしまいます。

人には、そのような性質が存在します。

人だけではなく、犬でもオオカミでもそうなのです。
それだから人であれ自然界の生き物たちであれ、従わせる者と従う者、また従うしかない関係が現れます。

そのような性質の故に、みんな平等ではありません。
また、そのような性質は、みんな平等に持っています。
チャンスがあれば、とって変わろうとするのです。

そのようにみんな平等に不平等なのです。

つまり、「あいつはそんなやつだ」と言い切れるだけの理由が、だれにも無いのです。
そう言う人も「そういうやつ」なのかも知れません。

全てはエゴである「わたし」が意味づけているだけです。

多くのマスターたちは一様にジャッジするな!と言います。

わたしもそう言います。

ジャッジは単に良い悪いの判定という事ではなく、対象に対して断定的な判断を持ち込むなという事です。
決めつけ、意味づけ、条件づけ、それらによる断定は「わたし」というエゴの仕事であって、それによって物事はたちどころに苦(摩擦)を生み出します。

つまりそのような断定から区別、差別が現れ、自分にも他にも適用するから「変えよう」「変わろう」「どうにかしよう」と戦うのでしょう。

そのために他を傷つけたり、自分もその思いに縛られながらも変わらないから、身動きの取れない精神疾病に陥るのです。

「そのまま」でいいじゃないですか?

そのままを受け入れるなら、どこにも断定も区別も差別もありません。

自分を認め、他も認めてやればいいのです。

あるがままを、あるがまま認め、受け入れるなら、どこにも思い悩む対象などありません。


オオカミ少年は、不慣れな人間社会のルールを押し付けられ数年で亡くなったそうです。
ジャングルの中でオオカミのままであったなら、彼にとってのあるがままの生き方を全うしたかも知れないのです。

全ては神の仕組んだ起こる事が起こっているだけです。

それを受け入れられないから変えようとするのでしょう。
「みこころを拒否」している訳です。
それが摩擦(苦)を生み出す訳です。

「ありのまま」でいけない理由などある訳がありません。

いけない理由は、エゴが、つまり「わたし」が作り出しているのです。

身体が男性で中身が女性でも、ぜんぜんいいのです。
隣の人がお金持ちで、自分は貧乏でも、ぜんぜんいいのです。

どんな事もあるがままでいいのだと、真実悟られるなら、「わたし」はどこにもいません。

「わたし」という主体を持ち出さなければ、「あるがまま」を、あるがまま受け入れられます。

そのとき、あらゆる苦悩は、ありもしない思い込みであったと知れるのです。

 

 

2013-02-24

 

 

*過去記事もまったく同じなので、リンクは省略する。