わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】出家

出家というのは、世俗のあれやこれや、一切を捨てて家無きに至るという事。

一切を捨てる。

つまり放棄をして、真実を知るために探求の生活に入るという事ですが、日本に於いては単に仏道の修行のために寺に入るという使われ方をしているように思います。

本来、出家者は山中や洞窟などに暮らし、乞食(こつじき)をしてその日を生き、ウパニシャドウ、ヴェーダの教えを頼りに真実を知るために、ひたすら修行に励んでいる姿を言ったのだと思うのです。

そういう意味では、日本の感覚で言うところの出家は、家を出て、新しい別の家(寺)に住むという事です。
食事もシステムに組まれたとおり、毎日頂けて、決められた作務をこなし、数えきれないほどの戒律と、作法と、そして仏教とは全く関係のないお葬式や法事などの、お仕事をこなし、年数と、なになにの行を成就させ、序列的に偉いお坊さんになっていく。

ちょっときつい言い方ですが、(たいへん申し訳ございません)、これは就職とも言えなくもない訳です。

実際、寺持ちの住職ともなれば、生業です。

間違っているとかいないとか言いたい訳ではなく、そういう職業があってもいいのです。
仏典の中から有難いお話など、人々に聞かせ、苦悩をやわらげてあげられたら、それだけでもいいのです。

しかしここに、真に「悟りたい」という渇望を起こし、日本的な出家を決意した人がいたとして、それは成就されるでしょうか。

戒律や作法や、先輩後輩の序列関係や、人間関係に煩わされ、不自由に身を置いてはたして悟りの道に没頭できる時間などあるでしょうか。

出家とは、そのような自我を刺激し、世俗の汚れを生み出す世界を捨て去る生活をするという事です。

何年か前、ホームレスが街にあふれていました。

リストラなどで否応なくそうせざるを得なかった人たちもいましたし、自らそのように身を置いた人もいます。

あるホームレスが、人の好意で住み込みで職人の見習いとして雇われました。
三度の美味しい食事も頂け、何年ぶりかの風呂にも入り、給料もそこそこもらい、着実に職人としての腕をあげていきました。
最初は働く喜びを味わい、事もなく勤めていたのですが、数か月後、自ら再びホームレスの生活に戻ったのです。

社会の不自由さ、使う者と使われる者、比較による優劣、戦わなければ生き残れない人間世界に、どうしても馴染めなくなっていたのでしょう。
そこには身勝手とは違う、自分の理想とはかけ離れた意識のギャップがあったのです。

人と関わらなくても生きてこられた。
お金が無くても生きてこられた。
気持ちに、心に、かせを掛けなくても生きてこられた。
そのような自由を手放して、今更社会のルールに縛られて生きる事の無意味さを思い知ったのでしょう。

川で体を洗い、魚を釣り、コンビニやレストランのごみ箱をあさり、リサイクルできる廃品を回収して暮らす自由な日々。
彼にとっては虚栄も欲も執着も、もはや無いのです。

ただ、あるがまま生きる。

その喜びがあるだけです。

それは寺に生活する雲水より、はるかに出家に近い生きざまだと思うのです。

出来る事なら、わたしも彼の住む100mほど隣で、毎日神を想い暮らしたいとさえ思います。
そのような隠遁の生活をしたいと、心から思うのです。

どうせ出家と言えども、寺に住むのであれば、家に住むのも同じです。
そうであるなら、悟りを渇望する人たちに言いたい。

今、その場所で、その生活で、充分悟りに導かれるのです。

ただ、この今、一切を放棄し、一切を受け入れ、あるがまま生きて行くなら、出家などしなくてもいいのです。

世界という現象は、現れているのであるから現している本質が存在しているのだと気付けばいいのです。
全てはそのみこころ、思し召しによるのであって、自分のこの「わたし」意識もそれに依るのだと気付けばいいのです。

「わたし」というのは創られた仮の主体であって、その根源に歩み寄る事で「わたし」は消え、その時感覚する言葉に現せない満ち足りた世界、位置も大きさも方角も無い、時空を超えた意識の世界、喜びの世界、条件のいらない愛の世界、そこを目指せばいいだけです。

それを知らせるために、人に苦が現れるのです。

苦は自ら意味づけている断定です。
よくよく観るならば、苦ではなく、ただ、そういう現れの状態が現れているだけであり、あるがまま受け入れたら苦が消え去るのです。
そこに悟りの入り口があるのです。

全ては「わたし」というエゴが、意味づけていただけです。

また、その苦が無ければ、その意味さえ学ぶことが出来ない、それだから、それが現れているのです。

出家して寺に入り、ルールに縛られ、人の作り出した作法をこなす生活が、果たして悟りをもたらすでしょうか。

みこころが、あなたを導いている結果が今です。
それを受け入れなければ、どこに悟りがあるでしょうか。

遠回りだと思う、この道が、真っ直ぐな道なのです。

それを、わかってください。

しかしながら、それでも出家して寺に入ったとしても、それもみこころの故であり、間違いなどではありません。

あらゆることから断定をはずさないと、真実はわかりません。
善悪という分別をしているうちは、相対の偏りから逃れられません。
二元に迷っているうちは、あの素晴らしい一者には気付けないのです。

エゴの拘り、執着、価値観、全てを放棄して、みこころが起こす一切を受け入れる事です。

それさえできれば、悟りに両足を入れたのと同じです。

 

2013-02-28

 

 

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