わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】何も心配する事などない

人は神に近づき、彼を知った後でも、この世に生活する。
その時には全く無執着の生活をすることが出来るのです。
そのような人は、意識の大部分を神に注ぎながら、残りの意識で世俗に生き、務めを果たすのです。

自我を手放した自由を味わうなら、つまり、行為者としての自分を明け渡し、一切を神に代行してもらうなら、心配するべき事など何もありません。

神はそれを引き受けてくれます。

自我を手放したとしても、それは自我が完全崩壊して消滅する事ではありません。
我々が身体を持っている限り、それはあるのです。
しかし、それに執着する事も、惑わされる事もなくなります。

「身体がわたし」という認識は、もはや起こる事がないでしょう。

そのように意識の置き所をシフトするなら、全く今までの外側に対する見方が変わっています。

多くの賢者たちが内側と言うのは、外側に住む人から見た意識の置き所です。
つまり外側から外側を見ている人に対しての言い方です。

内側に住んで外側を見ているなら、内側という感覚はありません。
そこが普通に、居心地の良い住処です。

内側に住んでるという事が、即、神に触れるという事ではありません。
しかし、もしも望むなら、あるいは神が呼んでくれるなら、速やかに彼に触れる事ができるのです。

その時には、外側の事は極めて意識から遠のいています。
全く神の愛に包まれて、その中にくつろぎ、至福と喜びの中にあるだけです。

またその時には、「わたし」という想いは、ありません。
神と自己との距離感さえ想う事無く、ただその状態にあります。
わたしが忘我の状態と言うのは、そのような事です。

そのような状態は、ほんの一瞬の時もあり、状態が許すなら長く留まっている事もあります。
長ければ長い程、深ければ深い程、普通の状態に戻るのにしばらくかかります。
歓喜の尾を引きながら戻るからです。

しかし、このような状態が起こったとしても、わたしは聖者ではありません。
わたしは実際、聖者という者を知りません。
これは、普通の人間の普通の現象であって、外側に住むから忘れているだけです。

人々は自我に縛り付けられ、身体が欲する欲望の暗示にかかっているのです。
内側から外側の人々を見るなら、それがありありと見えるのです。

そうだからと言って、わたしに何ができましょうか。
それが彼らの学びであり、神のみこころなのですから。

聖者はそのような人々を、どうされるのでしょうか。
どのように導き、救い上げるのでしょうか。

わたしにはできません。
神だけがそれをできるのだとしか、思えないからです。
つまり、人々、それぞれの内側に通じる神が、そうするのであって、彼らは自らそれを悟るしかないと知っているからです。

人はそのように、いつだって導かれているのです。

そのようにして、わたしはどのような人にも、その内側に神を見ています。

それだから、世界に何が起こるとも、わたしは心配などしていません。

誰も死んだりしません。
誰も産まれてなどいないからです。

この事が悟られるなら、もはや誰も保身による争いなどしないだろうに。
そうはならないところが、また、神のリーラ。
それは単なる戯れなどではなく、愛ある幻です。

今日も全ての人、全ての生き物、全ての存在、あらゆるものたちが幸せでありますように。

これは神への願いではなく、そのあらゆるものたちに向けての祈りです。

わたしは神のなさる事に、あれやこれや口出しはできません。
完璧だからです。

そのまま。

受け入れるだけです。

 

 2013-03-06

 

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