わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】インドラの網

この世界に流れて行く物語は、偶然などでは決してない。
誰もがその中の主人公であって、その人のための物語が、他の全ての人のための物語と完全にマッチングして現れて来る。
そのような縁の糸で織りなされた見事な緻密な計らいによって運ばれて行きます。

多次元に及ぶ見事な組み立てを、「偶然」、「たまたま」、そのような言葉で片付けてしまえるのでしょうか。

そのような秩序も統率もない出来事ならば、とっくに世界など崩壊し尽くしているに違いないのです。

インドラの網。

因縁因果の法則。

一本の糸の振動が、即、他の糸に伝わり、それに応じた反応が全てに結果として現れて行く。

しかし、それはただ、現象でしかない。

これがこうなれば、あれがああなる。
こうなるためには、あれがああなる事があったからだ。
と言ってみても、それはただ、現象のトレースにしか過ぎない。

そのような事を分析して何がどうなると言うのでしょう。

それはただ、起こる事が起こったと言う、その事を言っているだけなのです。
また、これからも起こる事が起こって行くという、あたりまえの事を言っているだけではないでしょうか。

大切なのは、なぜ起こるのか、なぜ起こったのか・・・ではなく。
それが物語の主人公に、何を教えているかという事なのです。
主人公が何をそこから学ぶか、という事なのです。

つまり、神はその物語によって、人をどのように、どこに導こうとしているか・・・なのではないでしょうか。

ある国で戦争が起こる。

それはその国が抱えた、切羽詰まった事情によるのか、あるいは国の主導陣のエゴによるものなのか。
いずれにしても、戦争は奪い取るためか、報復か、そのような事で起こって行く。
そうして戦争だからしょうがないと言いながら、人の命を人が奪って行く。
それは戦争という一括りの呼び名で置き換えた、人殺しでしかない。
どのような理由を付けようが、戦争は集団による人殺しでしかない。

そのような苦痛、悲惨を味わいそして、平和の尊さを思い起こし噛みしめる。
戦争はあってはいけない・・・と思い起こすのです。

しかしながら、それも外の世界、つまり現象世界での学びでしかない。

そのような事を学んでも、人々は神を知る事はないでしょう。

「あなたは道の長いのに疲れても、なお『平和のうちに休もう』とは言わなかった」(イザヤ書五七章一〇節)

ここで言う『平和のうち』とは、神の世界、神の真実の愛に他ならない。

人がエゴによる思考で「わたし」に主導権を置いているうちは、苦痛より平和、そして平和に居れば苦痛を忘れ、苦痛を忘れるから平和を求めなければならない事態に陥って行く。

そのような現象の世界で現象が起こる理由など、何度も学んで来ているのに、真に学ぶべきその絶対的真実を学ぼうとはしない。

神のみこころに学ぼうとはしないのです。

そうであるから、起こる事に、起こってはならない事だと怒鳴りつけながら、神さえ非難してしまう。
このような事を起こす神は、呪われるがいいとさえ言い出す。

現象だけを見て、自分の都合で思考し、断定してしまうからです。

神を知る事がないからです。

すべての出来事が、物語の主人公であるあなたを神の世界に導くための、愛によるものだと気づかないからです。

起こる事を、起こるのは間違いだと言ってもがくのではなく、みこころのままに起こされて行く事を受け入れて、静かに神の真意を読み取らなければいけません。

神はなぜ、あなたにそのような現象という幻を見せているのかを、思い起こしてください。
神を忘れた人々に、神を、つまり人の本質を、人の根源を、真実の自己に目覚めさせるために現象物語は用意されたのです。

それなのに、誰も平和のうちに休もうとは言わない。

「わたし」という我を張り、エゴの呪縛を解き放そうとはしない。

もう、充分に自我を楽しんだのだから、手放しなさい。
みこころを受け入れなさい。
神に全てをまかせ、神の世界でくつろぎなさい。

起こる事は、起こって行っていいのです。
あるがまま運ばれて行っていいのです。

戦う事を放棄して、平和のうちに、神のうちに休みなさい。

欲による、執着による、所有による愛ではなく、条件も理由も見返りも要らない真実の愛に包まれなさい。

あなたの中に、それを見るのです。
全ての人々の内側は、それなのです。

全て起こる事は、それを知る、そのために起こっているのです。

神の、あなたを心からいたわる、本当の愛を享受しなさい。

彼は、ほんとうの、あなたです。
神は、あなたに他ならないのです。

人々の内側というものは、そこで一つになっているのです。

 

 

2013-03-09

 

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