わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】自殺も決まっている事か?・・・とんでもありません!!

人は人生の中で、実に沢山の事を学べる。

運ばれる中で。
置かれた環境で。
いつだってそれは、学びのチャンスだ。

人は何を、あの世界に持ち帰ろうとしているのでしょう。

出来事というのは、どうしても起こって行くけれど、何も起こらないで過ぎ去る人生に、なんの意味があるのでしょうか。
出来事が起こり、変化が起こり、そうだから我々は学んで行ける。

起こって行く事を受け止め、そこから何であれ知って行く事が結局は人生の目的の成就になる。

知った事しか持って帰れないのです!

お金をいくら溜め込んでも、執着する物をどれだけ集めても、物質世界に置いて行かなければならない。
そのようなものにどれだけの価値があるのでしょうか。
起こる事が教えてくれる事の価値に、どうして気づかないのでしょうか。

物質も空間も、数個の、ただ小さな粒の集まりとその引き合う力と反発する力と、その作用場に過ぎない。

身体など、スカスカの隙間だらけの粒の集まりに過ぎない。
それは他の、どうってことの無い石ころや鉄くずや、そんなものと同じ成り立ちに過ぎない。

それなのに人は、身体として産まれてきたと思い込んでいる。
それなのに人は、身体が死んでいくと恐れている。

エゴが創られ、エゴがそう思い込む事で、そのエゴに我々は学ぶように出来ている。

エゴはあくまでも「仮」の存在でしかない。
それなのにエゴに「主体」という権限を与えてしまうから、全てに分離を見、物質の世界しかなく、それが実在だと捉えてしまう。

分離などない。
ただ、そのように思いこませられているだけなのです。
真の自己は、それらを観察している真我なのだと気づかないでいるだけなのです。

しかし、エゴの世界には、それなりに多くの学びがあって創り出されている。
そのエゴがなければ、人と人との友情も、助け合う事も、慈悲の大切さも、真実の幸せも、愚かな行為も、恨みも憎しみも、苦悩も、喜びも、何一つ学ぶ事ができない。

そうであるなら、全ての現れ、全ての行為、全ての存在が、命たちへ向けられた愛によって成り立っていると知れるでしょう。

我々は、そのような尊い学びの中で、知り得た事しか実在の世界に持って帰れない。
その持って帰れる事が、真我の存在の糧となるのです。

全て現象に関わる存在は、幻であり、学ばせるための一時の成り立ちでしかありません。
全てはエネルギーとしての意識のスクリーンに投影されている幻なのです。

起こることは順を追い、現象世界に現れます。
エゴはそれに執着し、愛着し、所有し、その反作用が他の主体たち(つまり客体)に向けられ、妬みや怒り、憎しみを起こし、戦い奪い取る行為に走らせます。
これら全ては物語の整合性に沿って、偶然ではなく進んで行きます。

その学ばせるための物語で、学ぶか学ばないか、気づくか気づかないか、知るか知り得ないか、それは仮の主体の「わかるちから」にかかっています。

多くを学び知るならば(学識や知識ではなく)、そのちからも育って行きます。
「わかるちから」が、やがてキャパシティを満たせば、自ずと明知を得、悟りに達する事でしょう。
そのために、数えきれない生まれ死にを人は体験するのです。
また、わずかしか学び知ってないのであっても、それは決して無駄に消える事はありません。
それは継続され、次の順次現れる「起こる事」を体験し、学んで行きます。

苦悩に学ぶ時期には、苦悩という課題が現れます。
「わかるちから」が乏しいうちは、苦悩はとてもきつい事として、希望も気力も失せてしまうでしょう。
そのような時、人は自ら死を選び、逃れようとするのでしょう。

放っておいても、当たり前に確実に死ねるのに、自らそれを、知ることを放棄して妄想の楽に逃げ込むのです。
神が運んでくれる、与えてくれるその死を拒否して、妄想のうちに死に逃げるのです。

エゴによって人を殺め、エゴによって命を奪われるのは、それぞれ与えられた知るための神の意向かも知れません。
しかし、神は自らの命を自らが滅するような学びを、決して用意してはいません。
彼は、尊い学びのチャンスを、絶対的に拒否して知る事を拒んだのです。

それだから、自ら死を選ぶ事は、およそ人にとっての最大の罪なのです。

自死を選ばずとも、人はだいじょうぶ、死ねます。

なぜ神に任せないのでしょうか。

死を恐れる余り、死に至ろうとするトンチンカンな思い込みをしてはいけません。

そもそも身体は、人の本質ではありません。
命というのは、別の次元にあります。
身体は、ただ、素粒子のスカスカの集合が、そのように見えている幻想です。

命は決して無くならないのです。
誰も産まれたのではなく、誰も死ぬのではありません。
それを神に委ねる事無く、自ら消滅させようとするから、それを知るためにまた同じ苦悩という課題を背負ってしまいます。
カルマというのは、そのような事です。

知るまで、その課題は与えられます。
知ってしまえば、カルマもアカルマもヴィカルマも、元々存在していないとわかります。

ですから、受け入れなければいけません。

生きる事も、死ぬ事も、みこころに任せて、起こる全てを受け入れて、そこに何を学ぶのか探りなさい。
知るべきを知らなければならないのです。
お金儲けも、それは楽しいかも知れないけれど、なんの価値もありません。
物を集めても、人に自慢できるかも知れないけれど、愚かな行為です。

人生は短い。
終わりに近づけば、あっという間だったとわかる。

知るべき時に、なるべく多くを体験して知って行かなければなりません。
ひょっとすると、あと一つ、尊い学びを知るならば、あなたの内に聖なる真我が目覚めるかも知れないのです。

それは突然やってきます。
まさに恩寵です。

あと一つ。

あと一つだけでいいから、知ってください。

 

 

2013-03-14

 

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