わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

行きつ戻りつ 花岡修平 「真我が目覚める時」

*読者からの質問に答えたもの。読者の名前は伏せ、OOさんとする。

理解しにくいと思われる部分には、赤字のカッコで補足語を挿入した。

誤表記、不適切と思われたカッコ記号等は、私の判断で訂正した。

 

行きつ戻りつ

 

OOさんから、質問を頂きました。

行きつ戻りつの人は、参考になるでしょうか。

 

 

花岡さん、はじめまして。

いつもwebをみさせていただいています。

ただ、ここに行き着けたことを、出会えたことを感謝しています。

現在、日々、観照意識を育てています。無意識に気づいて再び自己を思い出し

ノーマインドへ…これを繰り返しています。

しかし、なかなか観照意識は定着しません。無思考の練習をしても仕事で

トラブがあったりすると、すぐに観照意識はどこかに行ってしまいます。

そして思考が芽生えてきます。そしてまた気づく、の繰り返しです。

 

目 覚め(観照意識の発見)の前後は、人生観が変わってしまうような喜びや

インパクがあると悟った方々は表現されますが、私にはそのようなことが

ありませ ん。

 

観照意識の定着の練習をしながら[*その観照意識に]浸す悟りは至って

シンプルだと言いますので、「実は自分はもう悟っっているのでは?」

などと思ってしまったりします。

観照意識の定着が悟りとすれば、悟りが訪れたときにわかるものでしょうか?

このように悟りにこだわることが問題なのでしょうか?

もし、現状でヒントが頂ければ幸いです。

恩寵を期待せずに待てば、起こる時にそれは起こるのでしょうか?

 

正直、この忘れっぽい自分に、焦る気持ちが芽生えます。

はやく、目覚めた方々のように本当の意味で生きていきたいのに

人生は短いような気がするからです。

 

長々とすみません。

何卒よろしくお願いします。

 

 

たいていこのような感じで、悟りというものを「考えている」と思われます。

 

悟りを欲っしているのは、誰でしょう。

恩寵を頂きたいと思っているのは、誰でしょう。

 

それはやっぱりエゴですよね。

あまりにも無駄な知識が記憶に溜め込まれ、

そうでなければならないのだと、思い込んでいます。

そして、周囲で目覚めた人という話を聞けば、焦ってしまいます。

 

エゴ主体で考えているから、わかりません。

恩寵は、エゴにとっては未知なるものに違いありません。

エゴがそのように、あれやこれや思考させるのです。

 

既に恩寵は与えられています。

ただ、受け取るだけです。

 

でも、受け取ろうとしても、それは出来ません。

受け取ろうとするのがエゴだからです。

 

まず、悟りとか恩寵とか、そんなものはどうでもいいという立場に立つ事です。

 

大丈夫です。

 

いりません!と宣言しても、そのときが来れば拒否しようがありません。

まず、楽にして、落ち着いてください。

 

間違いはどこにあるのでしょう。

間違いというか、心得違いというか。

 

エゴは消滅しません。

それなくしてこの世界で活動は出来ないからです。

しかし、エゴは有っても、そのままで、それ自体を眺めてみる事が出来ます。

 

OOさんは、ここまでは来ましたね?

 

観照意識、それは悟りではありません。

それは瞑想の入り口を通ったに過ぎません。

 

エゴ、思考を、あまり悪者に仕立ててはいけません。

 

エゴも思考も消滅して二度と生起しないというのは、不可能なのです。

生きて、日常を生活する必要があるからです。

つまり、真実ではないにしろ現実には生まれてきたからです。

そして、まだ生きていますし、これからも生きていくでしょう。

 

生きていながら、エゴも思考も完全に消滅し、二度と生起しない状態とは、

どういうものでしょうか。

それは、身体を保持しているだけの、生きた屍と同じではないでしょうか。

 

そんなものに、我々は成る必要がありません。

人生は、味わってしかるべきです。

苦しさも、楽しさも、共に味わうべきなのです。

 

恩寵を頂くための、最も不可欠な事柄があります。

みんな、これを無意識のうちに避けて通っています。

 

それは、絶対的に利己的でない事。

 

つまり、美しく清らかな者である事。

 

都合よく、そのような者である事も時にはある、

というような虚偽的な事であってはいけません。

ほんとうに、それは完全に、欲得を主張しない者である事が必要です。

 不可欠であり、これ以外、何も知識はいりません。

 

行きつ戻りつの人は、これをしようとしません。

 

そうであれば、何故いいのかと言えば。

神の意識と同期する、ほんとうの自分、真我と同期するという事です。

同期するから、受け取れるのです。

 

瞑想の技量を手に入れた。

多くの知識を蓄えた。

そのような事で、恩寵はありません。

 

修行の末に悟りを得ることなどありません。

 

出家というのは、家を出るだけの事ではなく、

執着する何もかもをも投げ捨ててしまうという事です。

仏陀の言う出家とは、そういう事なのです。

そうであるから仏陀は弟子となる条件として、独りで山中に入り、

利己的である自己を全て捨て去ってから来るように言われたのです。

そしてそれは、そのまま、彼、すなわち修行者がそうしているうちに

恩寵へと直結したのです。

それ以外に弟子たちが仏陀と同じステージに立つ事はなく、

それを行ったから弟子二百数十名が悟ったのです。

 

ここは避けて通れません。

 

明け渡す、という事です。

 

人生の苦悩、苦痛は、明け渡しやすくするための、大きな大きな慈悲なのです。

決して悪魔や悪霊のせいではありません。

誰が悪いのでもありません。

 

苦しみを味わい、その苦しみの中にある人が易く明け渡せるから、

その人生を与えられたのです。

その苦しみを受け入れる。

受け入れよう。

そう決意して、嫌だ嫌だというエゴを明け渡すのです。

 

これでいい・・・。

何にも要らない。

清らかに、潔く、命を惜しむ事無く、全てを受け入れ、

恨む事無く憎む事無く、全て許す。

 

その時。

 

エゴが、力を失うこの瞬間。

 

恩寵は与えられます。(与えられていたのだと気づきます)

 

では、それを何によって確信できるでしょう。

 

それが、味わった事の無い、至福によって知られます。

救われた・・・その、気づきによって、溢れ出る至福によってです。

 

それは知らなかった本当の愛を伴って、尊い聖なる慈悲をもって、

ハートから溢れてきます。

 

それではじめて、実相が徐々に明らかになって行きます。

 

手法ではないのですよ。

 

そうしようとして、そうするだけでいいのです。

 

捨てるのは惜しい・・・これがあるうちは、無理です。

そういう人が、修行して無駄な月日を過ごすのです。

 

修行は要りません。

あなたが、そうするだけで、それはそうなるのです。

 

こんな簡単な事なのです。

 

また、そうしないと、いつまでもエゴというご主人様にいたぶられる

奴隷でいるしかありません。

 

「わたし」はいない。

そのような事は、それで明らかに理解できます。

 

結局、このひとつの「在る」しかないと、理解できます。

 

心配いりません。

結果的に死ぬかも知れないと思っても、恐怖せず、このひとつの「在る」、

つまり神に、ほんとうの自分、真我に、委ねてそうしていいのです。

人は簡単には死にません。

 

瞑想でエゴ主体の状態とは、違う別の状態があるのだと、知る事は、補助的な事です。

それは、覚醒前も、覚醒後も、役に立つ事なので、やればやったほうがいいというだけの事です。

 

利己的な自己を根絶やしにする。

 

これなくして、目覚めはありえないと、思っております。

 

 

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「わたし」はいない。

 

これを実験的に感覚してみたい人は、次の事をやって、洞察してみてください。

 

それは、会話や思考で、主語をはずしてみる、という事。

 

① わたしは大福を食べたい。

 

② 大福を食べたい。

 

同じ事を言っているだけですが、このふたつの違いを、洞察してみてください。

 

主語のわたしを、はずしてみる。

この違い。

 

 

*この記事を読んだ人は、かなり混乱すると思う。

なぜならば、「エゴを悪者にしてはいけない。エゴはなくすことができず、この世を生きるのに必要なものだ。」と言いながら、その直後に、「エゴを明け渡す。」とか、「利己的な自己を根絶やしにする。」とか言っているからだ。

この場合、「エゴ」の定義を明確にしておく必要があるが、花岡さんは、それをしていない。彼にとって、「自己」と「エゴ」は同じものなのか、違うものなのかよくわからない。

そもそも論を言えば、エゴ=egoは、ラテン語で「自己、自分」を意味し、現在、我々が思う「利己的主体」という意味合いはない。フロイトの心理学によって、このエゴという語は一般に使用されるようになり、やがて、利己的主体を想起させるものとなってしまった。

率直に私の感想を述べれば、花岡さんは、もっと自分の考えを整理してからこの記事を書くべきだったと思う。書いた後、自分で読み直して見れば、読者を混乱させる書き方になっているのがわかったはずだ。「よくわからない」責任は、読者にはなく、書き手の花岡さんにあると私は思う。

(ブログ管理人より。2020-03-26記)