夢と現実と真実 花岡修平 「真我が目覚める時」
*ある方から送っていただいた花岡さんの記事をこれから掲載していきます。どれもすばらしく重要なものばかりです。Nさん、ありがとうございました。
(各記事のタイトルはオリジナルのものではなく、送ってくださった方が記事の内容に基づいてご自分でつけられたものと推測する。)
夢と現実と真実
さて、何か考えなければならないテーマがあって、それについて考えると言う意識的な思考があります。
しかし、別に考えなければならない事がある訳でも無いのに、我々は思考してしまいます。絶え間なく、それをしているのです。
ふと気が付けば、あ!今、そのつもりもなく考え事をしていた・・・と思うのです。
ところが、全く気が付かない思考もしているのです。
今現れる世界が、瞬時に過去に消えていきます。
その一連の現れ消える世界のいちいちを、思考が意味づけして記憶に仕舞い込みます。
記憶というのは、全く気づく事無く蓄えられていく、思考の連鎖です。
実際に過去というものが存在する訳ではありません。
過去を呼び起こすのも思考であって、キーワードや情景や形、音、味、触感、臭い、感応などのデータが「今」現れる時、記憶をさかのぼって照合し、古い意味づけを見つけて、定義しています。
細い緑色の野菜、鉄さび色の肉片、他のいくつかの野菜の中華風炒め物を見るとします。
ニラとレバーとキャベツ、もやし、それらの中華炒め、その情報や過去の味わいの記憶から、ニラレバ炒めという断定的名称を呼び起こし、更に、まつわる店ごとの味や、誰と食べたか、季節や、あの日の仕事の事まで、勝手に思考させられていきます。
ニラレバ炒めと言う定義は、わたしの場合であって、そういう過去、そういう記憶があるからです。他の多くの方は、レバニラ炒めという記憶、過去なのでしょう。
そのように、人にとって過去というのは、それぞれ違うのです。
記憶的過去も時間的過去も、個人の経験的記憶から作り出され行くリフレッシュ(再定義化)された思考に他なりません。
タイムマシンを楽しみにしている人には残念な事だけど、光速ロケットに乗って
地球を回っても過去には辿り着けないのです。
過去も未来も、それは記憶を基に思考される観念でしかありません。
そしてまた記憶にある様々な場面や感情や思い、感動や無念、悲しみや喜び、そのような仕舞い込まれた記憶の断片を、いつも無意識に思考のテーブルに広げ、あれやこれや
組み立て上げているのです。
テーマに基づいた思考ではなく、勝手に、オートマチックに、ランダムに寄せ集められる記憶の断片たち。
色の記憶、音の記憶、知らぬ間に頭の中をメロディーが流れ、あるいは妄想を楽しんだりしているのです。
そうしようとしている訳でもないのにです。
それを思考のノイズと表現しています。
心が安定している時は流行のメロディーが思考されているかも知れません。
心が沈んでいる時は過去の出来事や苦悩から発展する、心配する未来が、次から次と、
現れ過ぎて行きます。
仕事をしていようが、勉強していようが、意識的にではなく、自動的に思考しています。そして、布団に入っても、ずーっと思考し続けています。
思考しながらも、ウトウトと、やがて眠りに入って行き、目覚めている意識レベルが、
脳の活動の休息と共に落ちて行きます。
思考はそれでも離れません。
やがて完全な睡眠に落ちてしまいます。
それでも脈絡のない微弱な思考が続きます。
それだから、寝返りもするし、痒いところをボリボリ掻いたりします。
数時間後、続く思考の中で意識レベルが活性化されて行き、脳の活動がゆっくり
立ち上がって行きます。
その薄い意識レベルの中の思考に「わたし」というエゴが気づきます。
まどろみの状態で、思考は好き勝手な想像、妄想、物語となっています。
夢を見ながら、夢だと気づかず、そのような思考の作り出す物語の中にいるのです。
意識の中に、夢を展開しているのは、自身です。
思考によって記憶の断片をかき集め、組み立て直して夢を見ているのです。
目覚めて起き上がり、「あ、夢だったのか」と思います。
心の中の葛藤や、拘りや、受けた苦痛などにちなんだ物語を思考が創作しているのです。
そこでもまた、過去の記憶によって未来を心配する思考が出てきたりします。
そのような未来の夢を見ます。
そのような時、予知夢とか、正夢とか、ありもしない思考を作ってしまいます。
なにかにつけて、どんな場合でも、都合に合わせた判断、断定をしたがるのです。
脳の活動が普段のレベルまで上がり、意識が現実を捉えると、それを我々は目覚めたと言います。
そこで、「夢をみていた」と判断します。
しかし、脳はその状態で、20%も活動していれば、とても活動力のある脳だと言えます。
わたしなどは、8%にも満たないかも知れません。
そのような意識レベルで、「現実」というのは、はたして「真実」なのでしょうか。
睡眠と同じように、その意識レベルで思考が作り出している「よくできた夢」を見ているのではないでしょうか。
そうではないと、断言できる証拠などありません。
我々はこれを、意識で捉えるしかないのです。
もしも、この意識とはちがう、とてつもなく大きな意識、でかい真実があったとしたら、どうでしょうか。
わたしはどうしても、この「現実」が、「世界」が現れて、それを見ている事が、
不思議でしょうがないのです。
これこそが「ミラクル」だとしか思えないのです。
そして、身体も含めて、それに繋がる一切が、意識の中に現れているのを、ありありと
見ているのです。
宇宙全部が、その中にあるのだと、そのように見えているのです。
この意識とは別の、言い表せない次元の意識に立場を移せば、そこはあまりにも無限で、形など適用できません。
方位も、名称も適用できる場所もありません。
相対という捉え方ができないからです。
しかし、愛は満ち溢れています。
それを、輝きともとれるし、希望ともとれるし、安らぎとも、満ち足りた至福ともとれるのです。
意識をエゴの側に戻せば、身体の胸の位置、ハートにそれを感じ取ります。
しかし、一旦その次元の異なった意識に目覚めたら、エゴを持ちながらも、そこと
繋がっているのがわかります。
そうして、このエゴの世界も、やっぱり愛によって創造されているのを、思い知らされるのです。
何か、位相がひっくり返っているような現実の世界。
全く次元レベルの異なるあの世界。
どちらも、同じ中にありながら、この世界は意識がみている夢のように思えるのです。
わたしが神と言っているものは、あの本質である、愛そのものの事です。
宗教者のそれとは違うかも知れません。
しかし、全ての創造の根源を、それに見ているのです。
まったく不可分の、創造根源。
彼だけが真実だとしか、思えないのです。
それがあって、はじめて、この非真実である現実も、真実なのだと思え、不思議でミラクルで、しかも無駄な存在などではないと今更ながら思えるのです。
エゴの思考によって、しっかりと現実を生きている人には、むしろ「夢物語」のように聞こえるのでしょう。
それは、そのように出来ているのだから、すばらしく間違いではありません。
結局、神を悟る事など、できなくてもいいのです。
あ、でも。
神はこんなに素晴らしいのだから、みんなに味わって欲しい。
神に酔うこの満ち足りた感覚を、どうしたら、分け与えられるのでしょうか。
未熟なわたしにはできません。
でも、それができる人がいるのでしょう。
かつてわたしは、まだ死ねない、逢わなければならない人がいる。
そのように、意味も無く、内側から湧き起る思いがありました。
結局、誰にも逢えず、今、確信しております。
逢わなければならない人は、この胸の中。
ハートを超えたあの存在だったのだと。
みなさんが、内なる師に、出逢えますように。
今日も全ての命たちが、幸せでありますように。