わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

「在る」だけがある 花岡修平 「真我が目覚める時」

「在る」だけがある

 

わたしがこれまで綴ってきた事を、信じてしまってはいけません。

ただ、真実かどうかを検証して見る事です。


例えばスピリチュアルな世界、霊界や霊の存在、占い、予知、過去、未来、

そのようなものがあると信じるように、信じてはいけません。


それらは「宇宙と言う小さな世界」の中で、

「わたし」によって創られる妄想に過ぎません。


我々が「わたし」というものを持っているうちは、

どのような有りえない事象も創造してしまうのです。


そうして、そのような牢獄(世界)の壁を強固にし、

存続させるためにエネルギーのほとんどを費やしているのです。


「わたし」は無い。


その確信に届いた時、真実に触れるのです。


その真実を言葉で表現しようとしても、それは出来ません。

ただ、それは「在る」そのものだとしか言えないのです。


そこには宇宙の属性など、全く適用できません。

つまり、方向も距離も強弱も明暗も何も無いのです。

大きさ、重さ、始まりも終わりも、永遠さえもありません。

そうかと言って、暗黒でもありません。


「わたし」は、そのような真実には恐れを感覚するのです。

それがマインドの仕事です。

マインドは、破壊されることの無い「わたし」を保持するのが、仕事です。


しかし、不思議ではありませんか?

世界が有る事がです。


なぜ誰も疑ってみる事をしないのでしょう。

なぜその真偽を疑ってみる事をしないのでしょう。

現れているこれらが、現れているという事に、疑問を抱かないのは何故でしょう。


それほどにこの世界のリアリティは、よく出来ています。

すべて、「わたし」に由来する現れであるのに、全く気づきません。


「わたし」が体験する事柄に、距離を置いて見る事です。

「わたし」が行為している、その思いから距離を置く事です。


それは辛い実験ではありません。

努力という程の努力は必要ありません。

「わたし」が見ているというリアリティを捨てて、

ただ「見る者」でいればいいのです。


そのただ「見る者」の立場で、「わたし」は誰か?と問うて見てください。


そう、あなたはただ、「見る者」です。


その立場で、全てを検証するのです。

あの聖者、この賢者が、言った事を鵜呑みにせずに、

その立場で真偽を検証するのです。

世界がほんとうに有るのかどうか、検証するのです。

「わたし」がほんとうに有るのかどうか、検証するのです。

その立場では、言葉を使う必要はありません。

あるただ、「見ている」だけでいいのです。


どうでしょうか?


「見ている者」は「わたし」を見ています。

その立場に立つのです。

そうしたら、その立場を楽しみなさい。


「わたし」は消えているでしょう。

「わたし」という思いが、消え去るのです。

ただ「在る」の立場で、宇宙は小さな渦巻になってしまうのです。

もしも、このただ「見る者」の立場を、日常に適用しようと試みるなら、

苦悩などないのだとわかるかも知れません。


つまり。
一切、「わたし」という主語を置かない事です。


わたしがやる。
わたしが語る。
わたしが食べる。


ではなく。


やる。
語る。
食べる。


を。


ただ「見る者」の立場で、そうすればいいのです。


これは「わたし」が消える実験です。

怖くはありません。

ゲームのように楽しめばいいのです。


しかし、覚えておかなければいけません。

このような実験でさえ、思考であり、自我です。

ですから、このような実験をする必要もありません。

ほんとうは、ただ「見る者」の立場でいればいいだけです。

 

*これで、Nさんから送っていただいた記事の掲載を終わります。

Nさん、ほんとにありがとうございました。

 

 

 

*コメント欄での長い読者とのやりとりを付け加えておく。(2020-02-16記)

 

【読者M】昨日は、コメントの質問にお言葉を下さりありがとうございました。 

花岡さんは、なぜいつも(ずっと)真理から離れることはないのですか? 

目覚め(体験)があったからですか? 

勿論、花岡さんはそれ(真理)に執着している訳でもありません。 

もう忘れることは、ないのですか? 

ふと、忘れたときにはすぐ思い出せると思いますが 

その心地よさがいつのまにか当たり前になり、また自我の私を体験しようと思って体験してみたら 
いつのまにか、自我にどっぷり浸かりまた振り出しに戻ってしまった。というような感覚になったことがありました。 

どれもこれも、全て私に必要で 
起こるべくして起こった 
体験ですね。 

 

 

 

【読者GB】創造者として

こんにちは、ダグラスさんで検索していたら、こちらのサイトが目に止まりました。人生の真の転機が訪れ、外と内、顕在と潜在、自分の思考を見つめ、感情を味わい手離す日々です。 
ブログを一読していたら、何か光がさしてきた兆しがあります。 
これからブログの過去の記事を拝見していこうと思います。 
もちろん鵜呑みにはしませんが、似通った感覚の方がこうしてブログで発信されていると、何か安心感があります。有難いです。

 

 
 
【花岡】Re: 創造者として

GB さん、はじめまして。 

人に転機が訪れ、真実への強い憧れが湧き起るのは、それは神の愛による導きなのでしょう。 

自我が好ましい成熟を迎え、手放す準備が整っていくほどに、それは強くなるのでしょう。 

これからも導かれますように。

 

 

 

読者GB】導きにゆだねて

お返事ありがとうございます。 
最近『導き』ずっとそれに委ねてきたのだと実感しています。 
病を経験する前は、大いなるに委ねなさいという概念としてサレンダはわかったつもりで、実際は自我ちゃんが、人生全部自分でやっているんだ的な錯覚で生きてきて、やろうとしていたことが一見うまくいかない状況が続いたのち、病を経験し、奇跡的に帰還しました。その時、何か果たすお役目があるのかなと思い、リハビリの日々が続きました。ほとんど良くなってきたのですが、あとひとつが抜けきれないというところに執着して、悶々とした日々がここ一ヶ月続きました。 
たまたま散歩で、先週水曜日目に入った治療院が十年以上前その当時の仕事仲間から聞いていた治療院でした。驚き、早速受療したところ、あと一つが抜け始めています。 
そして、会社経営をやってきて、自ら創業した会社でしたが、病を経て後継者に支えきれないので譲ってほしい、といわれていたので明日その手続きを完了(手放し)する流れです。 
47にして基盤にしてきたことを手放し、0からのスタート、自我ちゃんは、大丈夫か?とか、何か求職活動をしなくていいのか?とかの焦り、でもハートは、まず身体の完治が先あとは全て大丈夫!という感じで、今朝はそのハートは澄み切った高原の朝のような感覚を感じています。 

 

 

 

【読者HR】

花岡さんへ 

湧き上がる恐れや不安は幻想だと感じ 

自分が真実だと感じられた場所へと、手放しで飛び込んでみました。 

そこはとても自由で恐れも不安もなく 
心が安らぐ空間でした。 

必要なものは全て与えれ心は満ちたり、足りないものは何も無い。 

とても幸せだと感じました。 


今まで現実だと思っていた恐れや不安は幻想だと感じて気がついたら 

自然に剥がれ落ちていきました。 

私の意思とは関係なく剥がれ落ちて身軽になったものの・・・ 

いざそうなってみると何か物足りない感覚だけが 

残像のように残っています。 

今まで楽しいと感じてきた事の殆どは 

恐れや不安から逃げ出す為の娯楽だったと気づき、 

気づいたとたんに、 

その楽しさも剥がれ落ちていきました。 

自分が心から楽しいと感じられる事でなければ今は楽しいとは感じられず・・・ 

以前はあれだけ楽しめていた事が楽しめなくなっている自分との間にギャップを感じています。 

剥がれ落ちた後の残像もいつかは剥がれ落ちていく事でしょう。 

残像もまた幻想なのですから・・・などなど(笑 

花岡さんも同じように感じた時はあるのでしょうか? 

人はそれぞれ自分自身に帰り着く道のりは違っても、たどり着く場所は1つですから・・・ 

感覚的には共通する部分もあるのかどうか? 

こんな感覚は私だけ? 

このような話を出来る人は側にいるのですが・・ 

それが今のあなたなんだからそのままでいればいいんだよ!簡単でしょ! 

結局なんだかんだ言った所で自分でしかいられないんだからいるしかないでしょ! 

時間のムダムダ!ハイお終い!とバッサリでした。(笑 

ここにいるんだよね~と感じつつ 

これって残像だよね~と感じつつ 

まだたどり着いて間もないから自分の居場所が自分の思い描いていた場所なのかが疑問です。 












>>ただ「見る者」の立場で、そうすればいいのです。 


それが現実に起こったときは楽しいと感じました。 

 

 

 

【花岡】 Re: タイトルなし

HRさん。 

わたしもそのような事は感じたかも知れません。 

かつての馴染みをもった楽しさ、苦しさ、そういうものに後ろ髪を引かれるまでは行かないまでも、やはりいきなりここからは別世界とは行かない、言ったら不慣れな感覚はありました。 

しかし、わたしの場合、極限の絶望の中から導かれたので、何よりも、「救われた」という思い、有難さ、感謝によって、「導く者」を強く感じたため、「拠るべき真実」として今でも、それを感覚できるし、これからも絶対忘れる事はないだろうと思っています。 

「拠るべき彼」それを、仮に神と呼び、わたしは再び現象世界を生きるため戻って来ています。 
つまりエゴを許し認め、しかしながら、本質の自分はその「拠るべき彼」なのだとしっかり確信しています。 

エゴの世界、現象世界にこのエゴを許してそこに暮らしている以上、彼がほんとうの行為者、エゴのわたしはその召使いという立場を取るわけです。 

しかし、実質のわたしは、彼そのものです。 
それだから、わたしはすぐ彼に逢いに行けるし、そうでなくても、頻繁に彼に呼ばれます。 

かつての現象世界の楽しみよりも、はるかにその行き来、交際が、この上なく楽しいのです。 

そうすると、現象世界のこのエゴまで、この現象世界は愛に満たされていると実感でき、とても幸せでいられます。 

残像も楽しめばいいのではないでしょうか。 
それらも、なにもかも、愛で満ちています。 

どのような事も、許しきる、この満たされた喜びを、楽しみ味わえれば、それでいいのだと思います。 

 

 

 

【読者HR】

花岡さんへ 

返信有難うございます。 

新しい自分に慣れてないだけの事! 

吹っ切れました(笑 

今の自分のままそのままで楽しみます! 

私も極限の絶望知っています。 

絶望の中にでも光があり 

そのことに気づけた自分に感謝すると共に 

今の自分を導くためにいろいろな現象を与えてくれた全てに 

感謝と有り難さを感じています。 

救われたものは幸いです。 

絶望の中の光を見出せず 

自ら死を選び死ぬ必要などどこにも無いのに 

自ら死ぬことを選んで逝ってしまった私の主人。 

私は生きて今ここにいて 

主人は死んで今ここにはいない。 

それもあれもこれも全てあるがまま。 

純粋な気づきこそが本来自分であった者へと 

還っていける道しるべ。 

足りないものは何も無く全て与えられている。 

今の自分のままそのままで 

今の自分を楽しむ! 

なんて自由で幸せなのだと・・・ 

与えられている全てに感謝です! 

有難うございました。

 

 

 

【花岡】 HRさん。

なんと稀有な事でしょう。 
そこまで到達できたとは。 

もう、HRさんは、誰にも学ぶ事など必要ないようです。 

その気があるなら、教える立場にも立てるでしょう。 

そしてあらためて、神のみこころ、みわざの完璧な事を思い知らされます。 
さらに。 
他の人に気づきがあり、そして高みに昇る事が、自分がそうなる以上に嬉しく思える事にも、驚いています。 

他人事ではなく、みなさんもそのように導かれていきます。 

これは人を優劣に分けるものではありません。 

すばらしいコメントを公開して頂き、ほんとうに感謝申し上げます。 

ありがとうございました。 

 

 

 

【読者HR】

花岡さんへ 

以前は学んでいるという感覚がありました。 

今は学ぶとか学ばないとかはどうでも良くて 

ただ自分が感じたままに表現する事しかできません。 

>>他の人に気づきがあり、そして高みに昇る事が、 

自分がそうなる以上に嬉しく思える事にも、驚いています。 

私も私ではない誰かがそうなればとても幸せな気持ちになります。 

花岡さんの記事を読んで絶望の中から光を見出せた事・ 
現象を通じて感じてきた事など共感する所も多く(殆どかも笑) 
喜びを感じました。 

ここにも感じ取れた人がいて同じ思いを共感していると・・ 

同じ思いをシェアできて嬉しく感じています。 

私だけではないんだという安心感(笑 

自分の感覚だけが全てですから 

目で見えるものでもなく確かめようも無い。 

人は自分の中に無い物は表現できないし 

人は自分の中に在るものしか表現できない。 

花岡さんの表現している全てに愛を感じます。 

私のハートを感じると・・・ 

もう自分を探さなくてもいいよと 

ちゃんといまここにいるから大丈夫 

多少の出入りはあるけれど 

ちゃんと自分はここにいる 

今の自分のまま感じるままに全てを感じて楽しんでいいよと聴こえてきたので・・・ 
今の自分を許しちゃいました(笑 

>>現象世界のこのエゴまで、この現象世界は愛に満たされていると実感でき・・・ 

特別な事などなくてもいい。 

普通の生活に戻ってその中で普通に生きる。 

それでいいのだと感じる事が出来ました。 

私もいつかは花岡さんのように 
実感として感じられる日が訪れるのだと感じます。 

私が心からそうなる事を望んでいるから・・・ 

必要なものは全て与えられると知っているから 

今ここにいる自分がどんどん幸せで満たされていくのを感じています。 

教える立場より 

上手く伝えられないですが・・ 

ただそこにいて 

その場のエネルギーを調和する。 

そのほうがしっくりいく感じがします。 

教える立場というのは自分の中には見当たりません(笑 

自分の中に無い物は表現出来ないから(笑 

ただ感じたままに表現するだけ・・・ 

教えたいとか教えようとか以前は自分の中にありましたが・・・ 

その根本には何でこんな事にも気づけないのか 
というエゴを自分の中に見出したので・・・ 

人がどのような今ここにいても、乱暴な言い方ですが、 
自分が選んだ今ここにいる以上私はそれに対して 
何もすることが出来ないのだと感じました。 

私に出来る事は私が在るがままで表現しているのと同じように、 
どのような状況の今ここに在る人でも在るがままの表現を認めて許す事。 

自分と同じように認めて許す。 

自分でそう感じられた事にも感謝ですが・・ 

私の在るがままを認めてそのままを感じてくれる相手と 
出会えたことで私は他者からそのままでいさせてくれる喜びを知りました。 

それがとても嬉しくて心が温かくなりました。 

お互いの在るがままをどう感じるのも個人の自由。 

お互いの在るがままを調和・共有できる人もいれば出来ない人もいる。 

出来ないけどそれもこれも在りのまま・・・ 

他人の荷物の肩代わりは出来ませんから 

降ろすも降ろさないも個人の自由 

どうぞご勝手に~としか表現できません。 

花岡さんも私もただ自分の感じるままに表現している。 

それしか出来ないから・・・ 

全ての人も今ここの自分を表現している。 

優劣などなくそれが人それぞれの在りのまま。 

全てに平等に与えられている。 

現象として与えられている。 

気づくか気づかないか? 

自分の魂には嘘をつけない。 

自分の魂を裏切る事はできない。 

できないのにそれをするから・・・ 

苦しい・辛い・悲しい 

何で私だけがという思いに囚われる。 

なんでわたしだけがと孤独感に包まれる。 

起きた現象ばかりを嘆いて我が身を振り返ろうともしない。 

魂はいつもいつも待っている。 

本当の自分に気がついてと願っている。 

自分の魂に誠実に向き合おうとさえすれば・・・ 

けれどそれにはとてつもない勇気がいる。 

気づいてしまったとたん何が起こるかわからない 

怖い怖い怖い・・・ 

今の自分でさえ良くわからないのに 

向き合ってしまったらどうなってしまうのか? 

不安不安不安・・・ 

後はもう自分の選択次第だと感じます。 

何をどう選択すれば良いのか・・ 

本当にそれで大丈夫なのか? 

自分の足で歩き出そうとしている人にとって 

不確かな足元を照らしだしてくれる人の存在は心強く 
自分でもどうにか出来そうな勇気を貰えます。 

足元を照らし出してくれる存在。 

あるべき道をすすめるように後押ししてくれる存在。 

花岡さんのように実際に自分で体験したことを言葉で押し付けることなく、 
判断することなく在りのままをそのままに表現出来る人の存在は 
これから歩き出そう歩き出したいと望んでいる人にとってどれだけの救いになるか・・・ 

だからこそいろいろな人がひきつけられて 
花岡さんの所へ立ち寄るのだろうなと感じます。 

愛から発せられる表現は心に魂に心地よく響きます。 
これでいいんだという安心感を感じる事が出来ます。 
踏み出す一歩に勇気が出ます。 

かつて師と私が選んだ人もそういう人で在りました。 
多くを学び救われました。 

私は花岡さんの表現を通じて自分を感じて表現してみました。 

心に響く表現頂きましてどうもありがとうございました! 














人がそんなに簡単に死んでいくことが出来るなんて思っても見なかったから・・・