わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

お答えします 花岡修平 「真我が目覚める時」

*ゆうきさんから送っていただいた花岡さんの記事を掲載します。ゆうきさん、いつもありがとうございます。

2014・4・11という日付が入っている読者の質問に答える記事。読者の質問部分は青字にした。

 

お答えします

前回の記事に質問を頂きました。


>この記事の「わたし」が消える実験(ワンネス感覚)と以前の記事のダグラス・ハーディングの「頭のない方法」の実験は体験としては同じなのでしょうか?


同じではありません。


前者は意図的に思考の減衰を試み、「わたしが消える」事によって認識者を特定する事無く、認識だけがある故に、全ては現れているだけでありそれ以外は無いと観る事。
それは数々の(個々の)模様(形や色)を認識していながら、分離の感覚の無い、ひとつの、また全的な在りように漂い在る事です。
その時、全てが認識であり、あえて認識している者を置くならば、認識対象の全てがその者であるという感覚です。
そこにひとつ以外のふたつめ、みっつめは無く、純粋なる全てを観る感覚、溶け込んだというよりも、それ全部はひとつという感覚を知ると思います。
一度それを発見できれば、次からは比較的楽にそれに入れると思います。


後者は頭という意識からのシフト、つまり観察者としての意識を持ったまま、その意識そのものにシフトし、その立場から世界を認識する時に、結局認識者の認識する全ては、認識者の頭(認識作用)そのものであり、身体としての頭も身体そのものも、それに続く空間も家も森も空も、ただ続く模様(形や色)であり、それらは認識する頭(意識)に現れ展開されている全てと観える事。
この場合、観察者という立場があり、それだから世界という頭がある。
しかし、世界の個々の分離はやはり無いという事に気づくでしょう。
そうであるから、認識者の方に展開が、その変化が現れ来て、認識者が変化の方へ移動しているのではないという観え方となるのです。
ですから、あくまでも認識者を置いた観方、それを中心に現れが現れ来るのだと理解できると思います。


前者は認識そのものの立場にあり、思考が立ち現われにくい状態での気づきであり、後者は認識者としての立場を捨てていませんので、思考による新鮮な驚きとかは後者の方が楽しめると思います。
まあ、両者の同じ部分は、分離境界、つまり境目はどうでもよくなるという事でしょうか。


しかし、何度も言いますが、これが悟りというものではありません。
これらは、その感覚に入れるか入れないか、だけの事です。
大切なのは、現れる全てが何故に現れ来て、何者によって現されてしまうのか、それによってその者のどのような意図が成就されて行くのか、また認識する我々と言う自我たちは、その中を泳ぐ事によって、結果的に何を与えられて行くのかという事。
また、その事を理解出来る事で、世界という表面的なものではなく、言葉にし難い深い深い愛、作り手と読み手の不可分の絆、その喜びを知ってしまえるかどうかと言う事だと思うのです。

この喜びに依って泣き続けられる事、その至福によって、その愛によって酔える事を、この知らなかった事を知るかどうかだと思うのです。
その時、もはや悟りなど手放して、完全に服従してしまう事に驚くでしょう。
全くもう、世界も悟りもどうでもよく、不安のかけらも無く、ただ在るだけで満足してしまうのです。

どうすれば、そうなれるのか?
どうするのでもなく、日常を営んでいく、その事がそれに導いているに違いないのです。


そうであるから、現れる事が現れ来るのだと言えるのです。
修行する事が重要だと思う人はそうすればいい。
しかし、与えられた人生、置かれた場所、そこで生きることは、つまり人生そのものが修行である事は明らかです。

どんな事も無駄には成らず、必ずや意味が含まれていると思うのです。
全ては、与えられているのです。
どんな事も。
決して、自分のお気に入りの事だけを引き寄せる事はできません。
なんであれ、与えられているのです。
それはもちろん、必要だからです。