わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

もっと大切な話をします (「明け渡し」のポイント) 花岡修平 「真我が目覚める時」

*タイトルのかっこ内はこの記事のポイント。私(ブログ管理人)が付け加えたもの。

 

もっと大切な話をします

 

明け渡す事、自我を捨てる事がどうしてもわからないという人は多いかと思います。

どうしても、解釈を曲げてしまう何かを掴んだままだからです。
その何かも、また、自我なのではあるのですが。
解釈のズレが発生するのです。
何か、ほんの少しの、しかも重大な事に気づいていないからです。

これまでの我々のなじみ深い観念に、「目的」というものがあります。
何か、価値というものを感じる事で、目的が生まれます。
目的が、やる、やらなければ、やるべきだ、と決定付けるのです。

目的と願望は、別のものではありません。
価値観を持つことで、対象が目的となり、手中におさめたくなります。
価値があると信じるから、その的に当てようという願望が生まれます。

その願望が明確に頭にある場合と、あっても気づかない場合があります。

スーパーに買い物に行く時は、明確な目的と一連の願望に気づいています。
食材を手に入れたい。できれば安く。できれば速やかに。手早く料理したい。
食べて味わいたい。味を楽しみたい。食べた満足感に浸りたい。片付けは旦那にしてもらいたい。

そして、ここでわたしが、明け渡せば満ち足りた至福が訪れるのだよと言えば、
愛が溢れてくるのだよと言えば、
それ、欲しい!欲しい!って思ってしまうでしょう。
だから、懸命に手放そうとするかも知れません。

ところがです。

明け渡すという行為に、何か目的があっては絶対できないのです。
目的を掴んだままで、どうして目的を手放せるでしょうか。
願望を持ったままで、どうして願望を手放せるでしょうか。

明け渡すという事は、あらゆるものを明け渡すという事です。
所有のひとつ、そのかけらの少しでも、隠し持っていては絶対明け渡した事にはならないのです。

完全な明け渡しが行われなければなりません。

そこに、目的があっては、どうしたって無駄な足掻きになっているのです。

願望をもっていながら、願望の中にはまり込んで、願望に気づかないのです。
眼自体が、自らの眼を見ることが不可能であるように。

だからわたしは、毎回、毎回、同じことを言います。
悟りを捨てなさい。
目覚めたいという願望を捨てなさい。
目覚める事に可能性を求めてはいけません。
至福を得たいと思ってはいけません。
愛に満たされたいと思ってはいけません。

それらも、一緒に明け渡しなさい。

こうまで言っても、得たい、欲しい、なりたい、を手放す事をしません。

それらは必要なものだから、与えられるんです!!!!!!!

いらなくても、与えられてしまうんです。

そうであるから、恩寵と言われるのです。

だから、完全に明け渡してしまわなければいけませんよ!・・・と言っても、わかったふりをして、わかっていないのです。

あきらめちゃえばいいじゃないですか。
もう疲れたでしょう?
あきらめて、成るがままにまかせなさい。
全てを受け入れるのです。
その結果が、起こる事全てが最悪の結果であっても、受け入れるという、絶対的な覚悟をするのです。

人生は自分でなんとかするものだとか、切り開くものだとか言っても、それ、辛いでしょう?
そうじゃないですか?
精神病んじゃうかもでしょう?
だって、毎日毎日、戦い続けるわけだから。
切り開くために、得るために、戦い続けるわけだから。

小川に浮かべた笹船が・・・。
どうして、上流に流れて行く事ができましょうか?

流れて行く過程で、その流れが嫌だ嫌だといって、岸にある草に捕まったって、手が疲れて苦しいだけです。

運ばれるという事は、愛が運んでくれているのです。
絶対的に信頼すれば、愛に運ばれていきます。
自分でコントロールできないその流れを、コントロールしようとするのを、あきらめるんです。

神の思い通りにさせるのです。

受け入れるのです。

コントロールしようとする自分を明け渡しなさい。

完全に、神におまかせするのです。

神に向き合い、お願いします。引き受けて下さいって、懇願するのです。
これにはトライアル版はありません。
一気に全部!おまかせするのです。

そうする事で気づいてください。
この「ここ」に!
泣きたくなるほどの、愛が溢れてくるのを。
ハートが開いて、至福に満たされるのを。

捨てる事、明け渡す事に、一切のずるさもあってはいけません。
完全に明け渡すのです。

それができるか、できないかだけです。

恩寵は、今でも、ずっと前からも、それを待っていて、スタンバイしています。

ここまで、言っても、まだ・・・だめ?

2012.05.30

 

【読者A】明け渡すことへの抵抗感

花岡さん、今日もありがとうございます。 

>もう疲れたでしょう? 
もういい加減疲れてきました・・・。 

でも、明け渡そうとしても、明け渡したくない自分がどこか(胸から腹のあたり?)でがんばってる感じがします。 
自分の思い出に対する執着、他人(今は特に家族)にコントロールされたくないという思いでしょうか。 

やはり、「明け渡す」というのが、他人に自分の権利を明け渡して好き勝手されてしまう、という感じがして、どうも抵抗感が生まれてしまうようです。 
実際、以前そのような被害を受けてしまって、そのことでとても苦しんできたので(今もそうですが)。 

でも、神さまに明け渡したら、何も悪いことは起きないんですよね、と思ってしまう。 
「起こる事全てが最悪の結果であっても、受け入れるという、絶対的な覚悟」ができてないようです・・・


【読者A】「すべては幻想である」と理解する

「起こる事全てが最悪の結果であっても、受け入れるという、絶対的な覚悟」がどうやったらできるかと考えたら、昨日の記事のように、「すべては幻想である」ということを心底理解できれば、何でも受け入れられるのだろうと思いました。 

でも、「すべては幻想である」ということを心底理解するためには、明け渡さなくてはいけない・・・ 
ので、結局ぐるぐる回りになってしまいます


【読者A】得たい、欲しい、なりたい

>こうまで言っても、得たい、欲しい、なりたい、を手放す事をしません。 

>それらは必要なものだから、与えられるんです!!!!!!! 

ここで言う「得たい、欲しい、なりたい」は、 
「悟り(目覚め)を得たい、欲しい、悟りたい(目覚めたい)」 
ということですね? 

何かこの世的なもの(お金とか)を「得たい、欲しい・・・」というふうに、 
ちょっと読むと、思えてしまうので。


【読者T】大切な話し再び

花岡さん、みなさんこんにちは。 

明け渡す時の抵抗は、みんなAさんの様ではないかと思います。 

これは私が思ってる事なのですが、明け渡して、たとえそれが最悪の結果だとしても受け入れる。 

最悪も最高も私達が判断してるだけで、どんな事もニュートラルな状態なので、あらゆる側面を持ってると思うんです。 

ある人には最悪な事も、別な人にはそれ程でもないって事ありますよね。 

なので、明け渡して例え最悪な結果だとしても…とここに、この言葉にはまらなくてもいいと思います。 

多分花岡さんは、その結果がどうであれ、そんなことはどうでもよくて、その背後にある真我、内なる私、愛、光そのものである自分にシフトする事が大切だと言ってるのではないでしょうか。 

結果にこだわらず、どんな結果も受け入れる決意が必要で、自分の一切合財を明け渡すのであれば、それ程悪くはありませんよ。 

どんな事が起こっても明け渡したら、自分が愛そのもの、幸せそのものだと気付くので、最悪とは思わないんですよ。 

Aさんの今も神様のシナリオで、思考や、出来事はツールなんだと思います。 

私の明け渡しの魔法の言葉ね。 

「私の一切合財を明け渡します。命さえも明け渡します。どうか私を世界に使って下さい」 

私には、安心し、静粛になる言葉なんです。 

後はもうダイレクトに 
「神様助けて!」です。 
これ以外とききますよ。

 *読者Tのコメントの赤字部分は私(ブログ管理人)がマークした

 

 

*矛盾に満ちた文章だと思う。

前半部分で:

 だからわたしは、毎回、毎回、同じことを言います。
悟りを捨てなさい。
目覚めたいという願望を捨てなさい。
目覚める事に可能性を求めてはいけません。
至福を得たいと思ってはいけません。
愛に満たされたいと思ってはいけません。

 と言いながら、すぐに:

 それらは必要なものだから、与えられるんです!!!!!!!

いらなくても、与えられてしまうんです。

 と「期待」させ、さらに、終わりの部分で:

 そうする事で気づいてください。
この「ここ」に!
泣きたくなるほどの、愛が溢れてくるのを。
ハートが開いて、至福に満たされるのを。

 と、「愛」を保証してしまう。

これを読んだ者が「期待」を手放すことは不可能だろう。

(ブログ管理人より 2019-6-29記)

 

*参考

shikoutoshi.hatenablog.jp

shikoutoshi.hatenablog.jp