お答えします「真我はハートの向こう」 花岡修平「真我が目覚める時」
◎Wさんという方が花岡さんの記事を送ってくださいました。Wさん、ありがとうございました。
この記事は読者の質問に答えるものですが、質問者の名前は私の判断でイニシャルにしておきました。
◎また、本ブログの過去記事をチェックしてみたところ、この記事は、
「わたし」ではなく「わかる」として
というタイトルの記事の完全版であることがわかりました。
*Hさんからいただいた同記事のコメント欄には、質問者TSのお礼の言葉が残っていました。最後に付け加えておきました。(2019-05-01記)
お答えします「真我はハートの向こう」
> はじめまして、TSと言います。
昔から、真理に興味を持っています。
このところ人生、精神的に追い詰められていて、もう明け渡ししかないなと思いました。
すると世界が、まあ宇宙でもいいのですが、隻眼の中に、心の目の中にあったのです。
映像(認識する世界)が、心の丸鏡に反映されて、あります。
コレは凄い!と思いました。
僕は真っ暗な所から、覗き穴を通して世界を観ているようです。
一眼レフカメラのレンズ蓋を、閉めたり、開けたりすると寝たり起きたりしているのかなと思います。
では、なぜ個人が継続するのでしょう??
世界の中の人も、世界の中の僕も、遠くの方へ言ってしまって、僕は何もないところにいる。
安心はするのですが、何もない。あえて認識しようとすれば『真っ暗』な空間を感じます。
ここでラマナ・マハルシの『真我はハートにある』という言葉が出てきました。
でもこの状態の時、ハートには何もないのです。
なぜだ!!
「なぜ、ハートなんだ」と心中叫びました。
僕は覚醒は特別なことではなく、たくさん体験者がいると思っているので、ネットで『真我』について検索してみると、心眼についての、花岡さんの秀逸な記事に出くわしました。
これには、感動しました。
僕は体験的に理解したいのですが、ハートの奥にあるというのは、どのような状態なのでしょう。
また、沈黙してハートの感覚を意識するという瞑想法は、この場合、有効なのでしょうか?
あなたはわたしである。
もしくはわたしはあなたである。
という体験が、どうしても理解できないのです。
わたしはわたししかいない。
これを脱皮しないと、成長できません。どうか、アドバイスをお願いします!
TSさん、はじめまして。よろしくお願いします。
追い詰められて、退避したところは暗い場所。
安心するけど何も無い。
世界の人は遠くに消えて、わたしだけがいる。
なぜ、このわたしという個人は消えずにここにあるのだろう。
詰まるところ、わたししかいないのではないのか?
ということでしょうか?
そこでの安心感は充分楽しめたでしょうか?
そのような場所は、確かにあります。
落ち着いた、いい場所です。
でも、何か限定的に感じませんか?
つまり、それだけの場所、そのような感覚がしませんか?
わたしは伝授する事ができないけれど、質問者の内なる師が活躍してくれるのを期待しております。
わたしは質問者の隻眼を、その師に向ける事ができるでしょうか。
質問にお答えする前に、実験をしてみましょう。
この実験を観念的に過ぎると捉えると、実験は成り立ちません。
澄み渡るような素直さが、天真である事が必要です。
心眼とは、「わかる眼」です。
イメージとして見る目ではありません。
心眼という眼は、見るというより「解く」あるいは「わかる」そのもの。
「わたし」と言う者を泳がせている実体の、その属性として存在しているという事。
「わかる」がわかる事で、それによって、わたしがわかると思い為す事ができるそれの事です。
言い換えたら、強力な察知能力の事です。
それを踏まえて、その落ち着いた暗い場所から、現実の「今」に戻ってみてください。
この瞬間の「今」だけが現実としてある世界を見てください。それ以外は記憶です。
この「今」にある時、何が世界を見ているでしょうか。
「わたし」が見ていると認識しているとして、その「わたし」が、かの暗い場所に行ったとき、やはり暗い場所を見ているのは、「わたし」なのではないでしょうか。
それだから「わたし」はそこでも継続しているのではないでしょうか。
もう一度、現実のこの瞬間の「今」一瞬の世界を見てください。
「わたし」ではなく、「わかる」で見る事ができるでしょうか。
これは重要な取り組みです。
「わかる」にフォーカスして、その「わかる」に世界を見てもらってください。
その時、世界を見ていながら、「わたし」はいません。どこかにすっ飛んでいます。
見ているのは「わかる」であり、「わかる」によって、世界がわかるのです。
その時、世界と「わかる」の双方を気づいているでしょうか。
そうであるならば、世界も「わかる」も、双方気づいている者から離れてはいません。
そしてまた、「わかる」によって世界を見ているなら、「わたし」はいません。
つまり、気づいている者は、「わたし」ではないという事です。
「わかる」が世界を見るのを、辛抱して続けてください。
その時、「わかる」の在り処を(ありかを)、認識できますでしょうか。
そこがハートです。
「ここ」「これ」と言われる場所です。まあ、それ以外に言いようがないのですが。
「わかる」が世界を見ている時、つまり世界をわかっているとき、はじめて気づいている者がわかっている者であると認識できます。
しかしそれは「わたし」ではなく、「わたし」をはるかに超えて大きい存在だと気づけるでしょうか。
それが、わかっている全てに意識を波及しているから、それはとてつもなく大きいのです。
大きさなどという限定の無い、大きさと言う観念を飛び越えて在るのです。
その「わかる」は、先ほどの暗い場所へ行けるでしょうか。
暗い場所は既に、「わかる」によって占有され、暗い場所から、輝ける場所に変わっていないでしょうか?
わかるの大きさの中に、取り込まれてしまってはいないでしょうか。
たぶん、暗い場所は、「わたし」が意味づけてしまった限定された場所なのかも知れません。
そのような事が、全て、見ていた世界も含めて、あなたの中で起きていたのだと知れるでしょうか。
さて、「わかる」そのものに、意識の全てを突入できるでしょうか。
つまり、「わたし」に関わる一切を、預け任せ切る事ができるでしょうか。
そのように見る時、世界のどこにも分離の無いのを、知る事ができるでしょうか。
また、世界の全てが、「わかる」の中に、あるいは「わかる者」「気づく者」の中に在るのを感覚できるでしょうか。
「わたし」というのは、その中の、小さな思考、点でしかありません。
さて、「わかる」が世界を見るように、その見方で世界の限定された部分を見る実験をしてみましょう。
例えば、お子さん。
自分の子でないほうがわかりやすいかも知れません。
その意識がわかりますか?
姿ではなく、意識がありありと、存在感をもって認識できるでしょうか。
彼の、あるいは彼女の意識が、「わかる」に流れ込むと言うか、ジョイントするのを感じられますか?
その時、彼、あるいは彼女も、意識を捉えているのを気づけますか?
誤解されますので、食い入るように見ないでください。
電車に乗って、いろんな世代のいろんな人の意識を感覚してみるのは、とても感覚的に新鮮です。
これは生き物たちが普通にやっている相手への値踏みだったり、意思疎通だったりします。
人との交流の場で、「わたし」ではなく、この「わかる」これで、付き合ってみてください。
人というものが、別の意味で、よ~く見えてきます。
実験はここまでです。
さて質問はこうです。
ハートには何も無いのに、なぜ真我がそこに在るとラマナは言うのか。
ハートの奥とは。
ハートの感覚を意識する瞑想は有効か。
わたしはあなた、あなたはわたし、「わたしにはわたししか居ない」のに、それはどういう事か。
質問者は、「わたし」の立場を崩してはいないのではないでしょうか。
「わたし」をすっ飛ばす事を、していないのです。
「わたし」があるとき、ハートは胸の位置の小さなマーカーです。
しかし、「わたし」を忘れてそれに漂い遊び、浸りきって世界を見る時、世界は世界を超えてしまうのです。
つまり、「わたし」のほうが、小さな点に逆転するのです。
ハートに任せて世界を見るなら、まるで見え方が違ってきます。
愛溢れる世界を見る事ができます。
愛は、あそこからやってきます。
そこに在るそれ、根源がそこに在ります。
それが、わたしに関わってくれているだけです。
世界が有るのは、それが在るからです。
それは形ではなく、言葉でもなく、思考でもなく、時間でもなく、空間でもありません。
表現しようもなく、在るです。
世界として現れるものは、「わたし」「あなた」「彼等」、全部意味づけが「わたし」に許された世界です。
世界は現すものが現すにしても、意味づけて分離したのは「わたし」です。
ほんとうは、「わたし」も「あなた」も「彼等」もなく、全部現れそのものに過ぎません。
それはただ、模様なのです。
それだから、意味づけ、あなたはわたしのイメージ、同じようにあなたもわたしをイメージしています。
結局は同じものであって、ただ現れです。
「わたし」がハートを意識的に瞑想するなら、それはエゴです。
そうではなく、ただ受け入れて感覚する、感受する、それにくつろぐ、漂い遊ぶ、そのようにしてみてください。
ハートを理解してあげるのは、大切です。
困った事に、ラマナはある意味、「ちから技」的な表現をしています。
ぐいぐいっとそこに行け、みたいな手法です。
そうではなく、楽に、ハートを知る、わかるを知覚する、ハートからの愛を味わう、もっともっと楽な姿勢で、享受していいのです。
ちからでどうにかしようというのは、エゴの手法です。
ただ、あるがまま、受け入れ、感受するように、リラックスして入って行くのです。
そうすれば、「わたししかいない」、と言う理解が、「わたしが全てだった」という理解に変わっていませんか?
つまり、わたししかいないのではなく、すべてが在ってそれら全部はわたしなのだという気づきが起こりませんか?
境界などほんとうは無かったのです。
全てあるがまま在って、「わたし」がそうではなく見ていたのだと、気づきませんか?
このような説明では、おわかり頂けないかも知れません。
しかし、そのようにしか言えません。
言葉どころか、思考を超えた、かの世界です。
「わたし」に関わる一切を、それに明け渡して「わたし」がすっ飛ぶのを許可してください。
まず、そこからの言いようの無い、至福に満ちた愛を、味わってほしく思います。
さてそして、日常で胸のハートがうずくような喜びに満たされる事ができるでしょうか。
それさえできれば、いつでもそこへ行けるでしょう。
体験して知るには、まったくそれに、無条件に自分の全てを明け渡して、(もともと無いのに与えられた自分ですから)、自由にわたしを使ってくださいと、それの中に死ぬ「覚悟」を持つ事だと思うのです。
それがつまり、目覚めて悟る、「覚悟」そのものではないかと思うのです。
2014-04-20
[質問者TS] 他者の問題
誠実な回答をありがとうございます。正直に僕の話に真摯に回答していただけたのは初めてです。何度か読み返して、体験しようと試みていましたので、返答が遅くなりました。疑いと恐れを取り除くことなのかなと今思っています。
>>TSさん、はじめまして。よろしくお願いします。追い詰められて、退避したところは暗い場所。安心するけど何も無い。世界の人は遠くに消えて、わたしだけがいる。なぜ、このわたしという個人は消えずにここにあるのだろう。詰まるところ、わたししかいないのではないのか? ということでしょうか? そこでの安心感は充分楽しめたでしょうか? そのような場所は、確かにあります。落ち着いた、いい場所です。でも、何か限定的に感じませんか? つまり、それだけの場所、そのような感覚がしませんか? わたしは伝授する事ができないけれど、質問者の内なる師が活躍してくれるのを期待しております。わたしは質問者の隻眼を、その師に向ける事ができるでしょうか。質問にお答えする前に、実験をしてみましょう。この実験を観念的に過ぎると捉えると、実験は成り立ちません。
そうです。
正に、わたししかいないのではないかと感じました。映像と私、しかし映像は諸行無常で穴蔵は、世界から離れているから大丈夫だと思ったのです。落ち着いた場所は限定的でした。穴蔵のような感じです。安心感は充分ありましたが、楽しむというより、心が休まる感じです。穴蔵は真っ暗で、無理に意識すれば、感じることができました。
>>澄み渡るような素直さが、天真である事が必要です。心眼とは、「わかる眼」です。
イメージとして見る目ではありません。心眼という眼は、見るというより「解く」あるいは「わかる」そのもの。「わたし」と言う者を泳がせている実体の、その属性として存在しているという事。「わかる」がわかる事で、それによって、わたしがわかると思い為す事ができるそれの事です。言い換えたら、強力な察知能力の事です。それを踏まえて、その落ち着いた暗い場所から、現実の「今」に戻ってみてください。この瞬間の「今」だけが現実としてある世界を見てください。それ以外は記憶です。この「今」にある時、何が世界を見ているでしょうか。「わたし」が見ていると認識しているとして、その「わたし」が、かの暗い場所に行ったとき、やはり暗い場所を見ているのは、「わたし」なのではないでしょうか。それだから「わたし」はそこでも継続しているのではないでしょうか。もう一度、現実のこの瞬間の「今」一瞬の世界を見てください。「わたし」ではなく、「わかる」で見る事ができるでしょうか。これは重要な取り組みです。
実験をやってみました。
「わかる眼」を非常に分かりやすく教えていただいて、その意味を理解できました。落ち着いた暗い場所から、現実の「今」に戻ると、なんと、現実の「今」が穴蔵でした(笑い)暗くない穴蔵です。花岡さんの言うとおり、暗い場所を見ていたのも「わたし」だったのですね。そこでは「私」は消えていません。世界は状態を変えたけれど、穴蔵も私も消えていませんでした。なるほど! 私が消えていないのですね。非常に分かりやすいです。「わかる」で見ることはできます。しかし短時間だけです。すぐに理解しようという意識が働いて「わかる」を阻害します。もしくは目の前の対象に自己同一化して「わかる 」が消え去ります。短時間なら「わかる」で見ることができます。
>>「わかる」にフォーカスして、その「わかる」に世界を見てもらってください。その時、世界を見ていながら、「わたし」はいません。どこかにすっ飛んでいます。見ているのは「わかる」であり、「わかる」によって、世界がわかるのです。その時、世界と「わかる」の双方を気づいているでしょうか。そうであるならば、世界も「わかる」も、双方気づいている者から離れてはいません。そしてまた、「わかる」によって世界を見ているなら、「わたし」はいません。つまり、気づいている者は、「わたし」ではないという事です。「わかる」が世界を見るのを、辛抱して続けてください。その時、「わかる」の在り処を(ありかを)認識できますでしょうか。そこがハートです。「ここ」「これ」と言われる場所です。まあ、それ以外に言いようがないのですが。「わかる」が世界を見ている時、つまり世界をわかっているとき、はじめて気づいている者がわかっている者であると認識できます。しかしそれは「わたし」ではなく、「わたし」をはるかに超えて大きい存在だと気づけるでしょうか。それが、わかっている全てに意識を波及しているから、それはとてつもなく大きいのです。大きさなどという限定の無い、大きさと言う観念を飛び越えて在るのです。その「わかる」は、先ほどの暗い場所へ行けるでしょうか。暗い場所は既に、「わかる」によって占有され、暗い場所から、輝ける場所に変わっていないでしょうか?
実験してみましたが、このポイントは核心ですね。「わかる」にフォーカスし続けると、なんと映像が真っ暗になってくるんです。もしくは銀色の点滅になってきます。白かもしれない。テレビのザーザー画面のようなものが見えてきて、怖くなって、自分が消えると本気で思います。恐怖ですぐにやめてしまいます。目を閉じていると眠りに落ちる前のような感覚がします。これも意識したままだと怖いので、すぐに状態から解除しようとしてしまいます。世界と「わかる」を同時に見てみると、対象というか映像が自分に迫ってくるような感覚がします。同時に気づくと確かに対象に親密な感覚、私自身ではないかという感覚が生まれてきて、現実を新鮮にクリアに感じます。微かですがハートの喜びも、親密さに従って沸き起こってきます。「わかる」が全てに意識を波及している状態はわかります。この状態で暗い場所へ行くのが困難ですが、行こうとすると脊柱、首の後ろ辺りに自分がいるのを感じて、暗い場所は消えています。そこに、変わらずに安心感はあります。
輝ける場所には変わっていませんが、穴蔵は完全になくなりました。ただ、そこに自分がいると感じます。「わかる眼」で世界の中の僕の身体を見るような感覚に近いと思います。
>>わかるの大きさの中に、取り込まれてしまってはいないでしょうか。たぶん、暗い場所は、「わたし」が意味づけてしまった限定された場所なのかも知れません。そのような事が、全て、見ていた世界も含めて、あなたの中で起きていたのだと知れるでしょうか。さて、「わかる」そのものに、意識の全てを突入できるでしょうか。つまり、「わたし」に関わる一切を、預け任せ切る事ができるでしょうか。そのように見る時、世界のどこにも分離の無いのを、知る事ができるでしょうか。また、世界の全てが、「わかる」の中に、あるいは「わかる者」「気づく者」の中に在るのを感覚できるでしょうか。「わたし」というのは、その中の、小さな思考、点でしかありません。さて、「わかる」が世界を見るように、その見方で世界の限定された部分を見る実験をしてみましょう。例えば、お子さん。自分の子でないほうがわかりやすいかも知れません。その意識がわかりますか? 姿ではなく、意識がありありと、存在感をもって認識できるでしょうか。彼の、あるいは彼女の意識が、「わかる」に流れ込むと言うか、ジョイントするのを感じられますか? その時、彼、あるいは彼女も、意識を捉えているのを気づけますか? 誤解されますので、食い入るように見ないでください。電車に乗って、いろんな世代のいろんな人の意識を感覚してみるのは、とても感覚的に新鮮です。
暗い場所は「わかる」の大きさに取り込まれて消えました。確認してみましたら、自分の中で起こっていたことだと認識できます。「わかる」に突入するというのは、質問者が消え去ることでしょうか。「わかる」が気づいている状態には、短時間しかいることができませんが、体験できます。この状態で、僕は、他者だけが内包されないと思っていたのですが、これは、他者の意識が内包されていないことだったのでしょうか。意識がまだ僕に残っているので、他者が入り込む場所が、ない。家族で実験してみましたら、何か他事をしている場合は「わかる」にジョイントしている意識を感じることができている気がします。確信ではないですが、感覚的に理解します。これも短時間です。しかし他者が僕自身に意識を向けたときはこうなりません。「わかる」に視点を会わせると他者の意識が僕に躍り込んでくるので拒絶してしまうのかと、考えています。これは花岡さんの指摘から理解が進んで考察しているところです。恥ずかしい、なにかこう、入ってこられると「焦って」いるのだろうと思います。人間以外は、つまり他者の意識以外は、新鮮でクリアに感じることが、短時間ながらできるのですが、この部分に問題があるようです。
>>これは生き物たちが普通にやっている相手への値踏みだったり、意思疎通だったりします。人との交流の場で、「わたし」ではなく、この「わかる」これで、付き合ってみてください。人というものが、別の意味で、よ~く見えてきます。実験はここまでです。さて質問はこうです。ハートには何も無いのに、なぜ真我がそこに在るとラマナは言うのか。
ハートの奥とは。ハートの感覚を意識する瞑想は有効か。わたしはあなた、あなたはわたし、「わたしにはわたししか居ない」のに、それはどういう事か。質問者は、「わたし」の立場を崩してはいないのではないでしょうか。「わたし」をすっ飛ばす事を、していないのです。「わたし」があるとき、ハートは胸の位置の小さなマーカーです。しかし、「わたし」を忘れてそれに漂い遊び、浸りきって世界を見る時、世界は世界を超えてしまうのです。つまり、「わたし」のほうが、小さな点に逆転するのです。ハートに任せて世界を見るなら、まるで見え方が違ってきます。愛溢れる世界を見る事ができます。愛は、あそこからやってきます。そこに在るそれ、根源がそこに在ります。それが、わたしに関わってくれているだけです。
この在りようは僕が求めている理想です。またあらゆる聖者が到達した境地に違いありません。花岡さんが指摘される『至福』は「わかる」が世界を親密な場所にするとき、微かですが、ほんとに微かですが胸の辺りに感じます。かなり努力しないと、つまり長時間クリアに維持しないと発生しません。このポイントが『やさしさ』とか『親密さ』という言葉で表される状態であると僕は今、想像しています。理解しようとしている僕自身と「わかる」が入れ替わらなくてはならないのですね。なんと、僕は、今、道を示していただいている!
>>世界が有るのは、それが在るからです。それは形ではなく、言葉でもなく、思考でもなく、時間でもなく、空間でもありません。表現しようもなく、在るです。世界として現れるものは、「わたし」「あなた」「彼等」、全部意味づけが「わたし」に許された世界です。
世界は現すものが現すにしても、意味づけて分離したのは「わたし」です。ほんとうは、「わたし」も「あなた」も「彼等」もなく、全部現れそのものに過ぎません。それはただ、模様なのです。それだから、意味づけ、あなたはわたしのイメージ、同じようにあなたもわたしをイメージしています。結局は同じものであって、ただ現れです。「わたし」がハートを意識的に瞑想するなら、それはエゴです。そうではなく、ただ受け入れて感覚する、感受する、それにくつろぐ、漂い遊ぶ、そのようにしてみてください。ハートを理解してあげるのは、大切です。困った事に、ラマナはある意味、「ちから技」的な表現をしています。ぐいぐいっとそこに行け、みたいな手法です。そうではなく、楽に、ハートを知る、わかるを知覚する、ハートからの愛を味わう、もっともっと楽な姿勢で、享受していいのです。ちからでどうにかしようというのは、エゴの手法です。ただ、あるがまま、受け入れ、感受するように、リラックスして入って行くのです。そうすれば、「わたししかいない」、と言う理解が、「わたしが全てだった」という理解に変わっていませんか?
僕はエゴが瞑想をしていたのだということに、やっと気が付きました。僕が座ってやっていたのは、自分探しだったので、今までの瞑想時間はエゴの混乱観察だったのかもしれません(笑い)「わかる」の親密さにくつろぐとハートを感じられます。楽にしようとすると、自分探しをやめて(苦笑)、ただ現実に親密な状態に留まると、ハートが微かに反応します。しかし、これはドラマがない時だけです。人間が関わると、こうはいきません。ここに自分の限界を感じます。大いなる全て! ”他者以外”になっている・・・・・・。この与えていただいた理解に寄れば、つまり、自然に捧げるだけじゃなく、僕自身を他者に捧げなくてはならないのだろうかと考えます。これは恐怖です。大いなる「わかる」に同一化しようとして感じる恐怖とはまた違いますが、難しい。自分に向けられた意識が、ネックになってしまいます。
>>つまり、わたししかいないのではなく、すべてが在ってそれら全部はわたしなのだという気づきが起こりませんか? 境界などほんとうは無かったのです。全てあるがまま在って、「わたし」がそうではなく見ていたのだと、気づきませんか? このような説明では、おわかり頂けないかも知れません。しかし、そのようにしか言えません。言葉どころか、思考を超えた、かの世界です。「わたし」に関わる一切を、それに明け渡して「わたし」がすっ飛ぶのを許可してください。まず、そこからの言いようの無い、至福に満ちた愛を、味わってほしく思います。さてそして、日常で胸のハートがうずくような喜びに満たされる事ができるでしょうか。それさえできれば、いつでもそこへ行けるでしょう。体験して知るには、まったくそれに、無条件に自分の全てを明け渡して(もともと無いのに与えられた自分ですから)自由にわたしを使ってくださいと、それの中に死ぬ「覚悟」を持つ事だと思うのです。それがつまり、目覚めて悟る、「覚悟」そのものではないかと思うのです。
ありがとうございます。
無条件に自分の全てを明け渡すということ、これの拠り所を思考を超えた、かの世界におくことが、いや、こう考えている自分自身が捨てられないといけないのですね。
損得勘定で、明け渡すわけにはいかない。
トータルに明け渡すことができれば、おそらく至福を体験できるのだろうと推測しています。恐怖と疑いが先に取り除かれなければ、恐怖と疑いが消えないのか・・・・・・。でも、これは覚悟の問題ということですね。決意か。僕を他者にも明け渡すのはたいへんなる恐怖で、これを乗り切るには、どうしたらいいのか。とりあえず、頻繁に「わかる」に帰り、探求者を静かにさせる練習に全力を挙げようと考えています。
ほんとうに丁寧な回答、ありがとうございました! 勇気もらいました。
また、「ハート」に関する類似した説明が下記の記事で為されている。
*気になる点をいくつか述べておきたい。
1)花岡さんのいわゆる「スピリチュアル・エゴ」について。
花岡さんは、自分の覚醒、あるいは悟りのレベルの高さについては非常に大きな自負心を持っていると思われる。明言はしないが、あちらこちらでそれを暗示している表現が見受けられる。たとえば、この記事の中では、
困った事に、ラマナはある意味、「ちから技」的な表現をしています。
ぐいぐいっとそこに行け、みたいな手法です。
そうではなく、楽に、ハートを知る、わかるを知覚する、ハートからの愛を味わう、もっともっと楽な姿勢で、享受していいのです。
ちからでどうにかしようというのは、エゴの手法です。
ただ、あるがまま、受け入れ、感受するように、リラックスして入って行くのです。
という部分がそれにあたる。あのラーマナに対して、上から目線で「エゴの手法だ。」と批判しているのだ。
2)しかも、そのラーマナの「ちから技」と同じあやまち(?)を花岡さん自身が直後におかしている。
体験して知るには、まったくそれに、無条件に自分の全てを明け渡して、(もともと無いのに与えられた自分ですから)、自由にわたしを使ってくださいと、それの中に死ぬ「覚悟」を持つ事だと思うのです。
それがつまり、目覚めて悟る、「覚悟」そのものではないかと思うのです。
というこの記事の最後の部分がそれだ。
「覚悟」はエゴの意志による「ちから技」である。必ずや大きな「抵抗」を呼び起こすだろう。
この点に関して、フーマン・エマミは次のように言っている。
まず静かに坐り、内側に入りなさい。
ハートを通して、存在の深みを通して、神に明け渡しなさい。
あなたの内側のリアリティを通して、あなたの存在を神に明け渡す。
神の存在は、あなたの内側にある。
それに明け渡し、それに溶け去り死んで行く。
それがあなたの修業だ。
いつでもハートの祈りから始めなさい。
ハートから、あなたの内側にある神聖なるものへ祈りなさい。
「どうか私をあなたへ明け渡し、死なせて下さい。」
「どうか、あなたの中へ溶けさせて下さい。」
そうする事で、あなたは祝福を感じるだろう。
「意志」を使って、それをしてはいけない。
やさしく、ハートフルに、透明な在り方で、明け渡す。
信頼しなさい。
このフーマンの意志を使わない「祈り」による方法のほうが、花岡さん自身がハートの中に入っていくやり方を述べた次の部分の態度と整合している。
「わたし」がハートを意識的に瞑想するなら、それはエゴです。
そうではなく、ただ受け入れて感覚する、感受する、それにくつろぐ、漂い遊ぶ、そのようにしてみてください。
ハートを理解してあげるのは、大切です。
困った事に、ラマナはある意味、「ちから技」的な表現をしています。
ぐいぐいっとそこに行け、みたいな手法です。
そうではなく、楽に、ハートを知る、わかるを知覚する、ハートからの愛を味わう、もっともっと楽な姿勢で、享受していいのです。
ちからでどうにかしようというのは、エゴの手法です。
ただ、あるがまま、受け入れ、感受するように、リラックスして入って行くのです。
花岡さんの記事に頻繁に現れる「矛盾」がここにも出現しているわけだ。
覚醒・悟りは、「恩寵」によってしかもたらされないのだから、「明け渡し」も「覚悟」ではなく、「祈り」によってなされるのがより相応しいと思う。
(ブログ管理人より:2020-04-12記)