わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

変容のビフォー・アフター 花岡修平「真我が目覚める時」

◎これもWさんが送ってくださった記事です。

*Hさんからいただいた同記事の中にコメント欄があったので、最後に付け加えておきました。(2019-05-01記)

 

変容のビフォー・アフター

 

さて、ビフォー・アフター、その違いについての質問ですが、問われましたので感じているままを申し上げます。

質問はこちらです。


> 私は、妻や母、友人など大切な人と思える方々がいます。 
「ワンネス」という意識になれば、誰もが自分とおなじと思えるようになるのであれば、現在大切に思っている人たちが、「one of them」になってしまうのではないかという「恐れ」が、私の中にあります。 
今の私が私でないものに変わるのではないか(大切に思っていることがそうではないと思うようになる)という怖さです。 

最初に言ってしまえば、大切に思っていなかった存在達でさえ、平等に大切に思えるようになる・・・という事です。

人は未知なる変化、変容を恐れるものです。
クンダリーニ覚醒は、身体的に変化が感覚される表層的な覚醒ですので、どうしても恐怖が伴うのでしょうね。
言わば、修行によって勝ち取るタイプのもので、自我のレベルからのアプローチです。

一方、明け渡しによる真我への気づきは身体的変化を伴わないので、身体感覚から来る恐怖はありませんが、自分が無くなってしまうのではないかという「無」の恐怖が襲ってきます。

まあ、どちらにしても恐怖なのでしょうが、その恐怖がマインドの自我に固執する必死の抵抗なのでしょう。

わたしには、わたしの経験による理解しかなく、これが誰か他の人のそれと同じであるかどうかは、全くわかりません。
ですから、この理解が他の人の参考になるかどうかも不明です。

また、これが覚醒だとか、悟りだとか、断言できる比較基準も無く、それだからこのブログの中で「覚醒しました」とか「悟りました」とか、一度も言及していません。
ただ、明らかな変容が起こり、全く価値基準がひっくり返ってしまったのは事実です。

アフターに於いても、ビフォーと同じように自我を持っています。
相変わらずその自我に「わたし」を持っていますが、とても希薄です。。
同時に、内側にも「わたし」を持っているのです。

自我の「わたし」と内側の「わたし」は違うものかと言えばそうでは無く、「わたし」のほとんどが内側に在るという感覚です。
外側も内側も同時に「わたし」が占めていて、しかしながら、外側のそれはとても希薄な感じです。

そのために外側に執着することが、ほとんどありません。
ほとんどと言うのは、例えば卵焼きを作るならバターベースもいいけれど、お砂糖とお醤油味の方がいいね・・・ぐらいの執着です。

こんなに貧乏なのに、お金が欲しいなんて思えないけれど、健康保険料払えるぐらいのお金あってもいいね・・・ぐらいの執着です。

あってもいいし、なくてもいい。必要なら与えられるだろうぐらいにしか考えていません。

家族、友人、ペットや、かき集めていた物や、美しい自然、そのような、かつて愛し好んだ存在に、執着する事がありません。
だったら、もうそれら対象を愛していないのか?といえば、そうではなく、愛し方が全く別次元なのです。

かつての家族は、「わたしのもの」であって、執着の対象でした。
今はそのような「所有」の対象として、考えられなくなっています。

外の世界の何もかもが「わたしのものではない」と明らかに思えるから、執着がありません。
同時に、外の世界の何もかもが「わたしのものだ」と明らかに思えるから、全てを愛しています。

あえてかき集めたり、所有しないでも、いいのです。
そんな事にエネルギーを使ったりしません。

「わたし」が内側に在って内側の立場で見ているから分離して見る見方がしにくいだけでなく、真実の愛を知ってしまったからには、もはや執着に基づく愛は完全に色あせてしまったのです。

家族も他人も、犬や猫、樹木や、そこに這う虫達や、それらに異なった愛を思う事がなく、等しく愛や慈しみを感じるのです。

家族にそんな事言ったら、うちら犬猫と同じかい!って怒られるでしょうね。
そう言うのを、薄情者と言うんだよと非難されるでしょうね。
でもそんな自分に満足しています。

このワンネスの全ては、愛そのものだと感じられるからです。
真実の愛の立場では、それひとつしか無いからです。

だから外側を手放せるのです。
だから内側に委ねきれるのです。

わたしが、わたしでなくなる恐怖、そのような事をかつては考えていました。
わかってしまうと、わたしが無くなるのではなく、わたしが有るのでもありません。
「わたし」が有りながら、「わたし」が無いのです。
この感覚は言語化できません。

「わたし」でいる事もできれば、「わたし」を消す事もできます。
なぜそうできるのかと言えば。
全部「わたし」だからです。

この事が、わかるでしょうか?

わからなくても、これ以上言語化できません。
これで理解してください。

「この中」にいると言う状態は、なんとも安らいだ感覚です。
委ね切っているという安心感と、「これ」とひとつだという満ち足りた感覚と、かといって「わたし」では無いとも思う事がなく。

神の中にわたしが在って、わたしの中に神が在る、あらゆるものは「これ」であって、隅々まで「これ」です。

これらを言葉で表現しようと思えばできるかも知れませんが、そうしようと言う意欲が湧いてきません。
ただ味わい、ただ楽しみ、ただ、在るだけです。

家族、友人、地域、地球、宇宙、法則、全てを愛しています。
マクロからミクロまで、同じ愛です。

神から頂きました。
そして、それは元々わたしに在りました。

なにも離れていません。

全部わたしです。

そして、わたしはありません。

ただ、在るだけです。

この完璧、パーフェクトは実に不思議ですけど、ほんとうはミラクルというのは、奇跡というのは、みなさんが見ている現実世界の事です。
この完璧なる「ひとつ」から、夢のような現実が立ち現われている。
これこそ、奇跡なのです。

その夢である現実に深刻になる必要もありませんが、深刻に楽しむ事も、また、素晴らしいのです。

 

2012-10-05

 

 

[質問者] ありがとうございます

花岡さん、ご丁寧な解説、ありがとうございました。 
執着しない「愛」ですか。それは理想的な愛ですね。 
ほっと安心いたしました。 

>「わたし」でいる事もできれば、「わたし」を消す事もできます。 

顕微鏡でフォーカスしたり、全体を見たり・・・というような感覚で、私というものを全体にしたり個別化したりできるような感じかと推察いたしました。 
自由な感じなのでしょうね。 

今回、自分がいかに自分という存在(価値観)に執着しているかがよくわかりました(思っていた以上に)。自分という枠が、少し見えたように思います。いい勉強になりました。 

ご丁寧なお返事、ありがとうございました。
 
 

【読者T】お久しぶりです

花岡さんお帰りなさい。 
みなさんこんばんは。 

花岡さん、更新ありがとうございます。 

本当に今特定の人たちを愛し、大切にしている世界に慣れ親しんでいると、それが実は幻想だと言う事も忘れて、リアルな現実だと思いこまされますね。 
その後ろに横たわってる真実を知ったら、実は全部ひとつで、それもたった今起こってて、時間と空間もなく、ただ愛があるだけで、特定の人たちを愛する思いよりもっと愛に溢れ、幸せなんだと気付くのですね。 
私は生まれた事も、死んだ事も一度もなく、ただ在るだけだと知るんですね。 
花岡さん、みなさん、今日もありがとうございました。

 

 

【花岡】Tさん、おひさしぶりです

みなさまこんにちは。 

Tさん、お元気でいらっしゃいましたか? 

介護は肉体労働で、わたしは腰痛気味ですが、おかげさまで満ち足りた毎日を過ごしております。 

暑さもおさまり、更新頻度を上げようと思いますが、たぶん不定期は続くと思います。 
よろしくご勘弁願います。 

これからも、よろしくお願いしますね。 

 

 

【読者IK】できるなら教えていただきたい。

花岡さん,はじめまして 
不躾ですがお尋ねしたい事があります。ご容赦ください。 
私は55歳になる男性です。以前「今ここ」の阿部さんのブログのコメントを拝見しネットで調べこのブログを知りました。理屈よりご自身の体験をご自身の事実を述べていられる事にわかりやすさを思います。 
実は私は以前40歳代にとてつもない「愛」を感じたことがあります。ほんの一瞬,何分か時間はあったように思いますが胸の奥から湧き出る「愛」無償の「愛」全てがなくても有る「愛」 
しかし,その一瞬だけで私はその後10年以上,暗い怒りの中で人生を過ごしています。私が感じた「愛」は意味のないもの偽物だったのでしょうか? 
私にとってその意味はなんだったのでしょうか?あの時のあの感覚を感じたくて,そのまま生きたくて 
人生に切羽詰まっています。 
よろしければ お教えください。

 

 

【花岡】はじめまして

IKさん、こんにちは。 
みなさん、こんにちは。 

答えを書いていますと、これは言いたいなあ、ここははずせないなと、 
結局長文になってしまいます。 

そういうわけで、答えは本記事に掲載します。 

たまに、「はずしてしまう」事もあるかも知れませんが、どうか汲み取って頂けますようお願いします。 

これからも、よろしくお願いします。 

 

 

【読者AD】花岡さん

花岡さん 
はじめまして。 
いつもwebをみさせていただいています。 
ただ、ここにいきつけたことを出会えたことを感謝しています。 
現在、日々、観照意識をそだてています。無意識に気づいて再び自己を思い出しノーマインドへ…これを繰り返しています。 
しかし、なかなか観賞意識は定着しません。無思考の練習をしても仕事でトラブルがあったりすると、すぐに観賞意識はどこかにいってしまいます。そして思考が生えてきます。そしてまた気づく。の繰り返しです。 
目覚め(観賞意識の発見)の前後は、人生観が変わってしまうような喜びやインパクトがあると悟った方々は表現されますが、私にはそのようなことがありません。観賞意識の定着の練習をしながらひたす悟りは至ってシンプルだといいますので(実は自分はもう悟っっているのでは。)などとおもってしまったりします。観照意識の定着が悟りとすれば、悟りが訪れたときにわかるものでしょうか? 
このように悟りにこだわることが問題なのでしょうか? 
もし、現状でヒントが頂ければ幸いです。 
(恩寵を、期待せずにまてばおこるときにそれはおこるのでしょうか?)正直、この忘れっぽい自分に、焦る気持ちが芽生えます。 
はやく、目覚めた方々のように本当の意味で往きていきたいのに人生は短いような気がするからです。 
長々とすみません。 
何卒よろしくお願いします。