わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

「わたし」についての洞察 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Wさんからいただいた記事です。

*Hさんからいただいた同記事のコメント欄での読者とのやりとりを付け加えておきました。(2019-05-01記)

 

「わたし」についての洞察

 

現実世界のあらゆるものが、内なる真我によって現れ来ています。
我々はマーヤ(幻想作用)によって自我意識を展開し、そこに世界を見ています。

見ているから、見ている主体の「わたし」を思うのです。
見ているから、見られている客体の「彼」というものを分離させるのです。

ほんとうは「わたし」などは、マーヤそのものであり、展開される世界全てが「わたし」です。

それだから、「彼はわたしだ」と言うのです。

外に向けてのあらゆるものが、「わたし」です。

しかし、内なる真我を感覚するとき、それも「わたしの起源」です。
全てがそこから現れ来るからです。

しかし、「わたし」が在る以上、自我意識の中に在るのであって、そこから内側には帰れません。
内側には「わたしの起源」は在っても「わたし」というものが無いからです。

「わたし」とは、あくまでもこの世界限定の観念なのです。

そうであるなら、「わたし」がある状態では真我に気づけないと言う事になります。

それだから、「わたし」を放棄しなさいと言うのです。

実験的に、「わたし」という言語を使わない訓練、「わたし」という思いを起こさない訓練をするならば、彼が誰であるか、彼女が誰であるか、あの物体は何であるか、という事が、なんとなく断定がぼやけていく事に気づきませんか?

それはとても気持ち悪い体験かも知れません。
恐れも抱くかも知れません。

なぜなら、「わたし」という思いこそが、この世界に生存するための拠り所、支えだからです。
「わたしは」「わたしが」「わたしに」「わたしを」そういう主語をまず置くから、戦えるのです。

社会という現実と戦うには、「わたし」は無ければなりません。
そして、「わたし」という主語の後に、意思や感情や行動が起こり、「わたし」という主人公が活躍して行きます。

たとえ認知症になったとしても、この「わたし」を手放せる人はいません。
そのようにして「わたし」という自我の中に、いつまでも住む事になります。

それほど幻影に打ち勝つ事は困難なのです。

それだから全てを手放し、全てを任せ、真我に服従するしか幻影を乗り越える事はできないのです。

真我に通じない事には、真なるものに浸れません。

真なるものとは、もちろん言葉には表現できません。
しかし、感覚的に知覚できるのです。

その知覚できるものが、愛であり慈悲であり、至福であるわけですが、定義は人それぞれです。
わたしが言うそれと、みなさんが思うそれは違うかも知れません。
体験するしか、その味わいは判りません。

しかしこれだけは言えます。

それはとても素晴らしい。
今まで知り得たものの中で、最も価値がある。
これを知るなら、この世で享受できる何ものよりも得難い価値がある。

誰でもが今これを知る事はできないでしょう。
それは、この世界がマーヤの世界であるとしても、そのように展開される作用がある以上、意味があっての存在だからです。
意味があるから、それは体験しなければなりません。
体験すべき立場にある人は、必要な輪廻を巡るでしょう。

それだから、数えきれないほどの輪廻を体験し、未だ「わたし」を創り、現実という夢の中を楽しんでいるのです。
間違ってはいません。
悟りはまず置いといて、人生物語を楽しんでいるだけです。

もちろん楽しみとは言えず、苦しんでいる人もいます。

なぜ苦しみの人生にあるのか?

「わたし」を手放し、全てを真我に任せ切るには、苦しみが必要だからです。
最終段階に近づいた人こそ、苦しい今を生きているのかも知れません。

気力や思いや努力で「わたし」を明け渡す事は困難を極めます。

苦しむのは嫌だ!という人は、楽しむ事をまだ期待しているのです。
そういう人はいずれ、再び楽しみを手にするでしょう。
そうやって、次の苦しみのチャンスまで待つのです。

しかし、もう参りました!苦しみであっても受け入れます!という人は、全てを投げ出し真我に服従するのです。
その御業、御心、与えられた全てをあるがまま、そのまま受け入れるという事が、明け渡し、任せ、服従する事です。

そうなってしまえば、どこに苦しみなど有りましょうか。
受け入れた以上、すべて真我がやってくれるのですから。

そうなってしまえば、どうにかしようという「わたし」など、どこにもありません。
全くお任せして、楽な生き方にシフトするのです。

全く「他力」は正しかったのです。

覚醒とは、真我と自我の境界が開き、「ただ在る」が交流する事です。
通じる事です。
導通するのです。

そうして、自我意識には、今生を最後に、もはや世界を創り出す事が無くなります。

安らぎの世界、満たされた世界、真我の世界、在るの世界に、ただ在り、そして、在るそのものになるのです。

そうであっても、自我が体験し、得たものは消える事がありません。
なぜって、そのために自我意識を創り、体験してきたのですから。
それはとても尊いのです。
意味があっての生まれ、生きる体験です。
消え去らねばならない理由などありません。
それは真我にとっての糧であり、真我は豊かに成長し続けるのです。
生まれ生きるのは、真我の活動なのです。

それだから、恐れなど何ひとつ思う必要がありません。
大丈夫です。
無にはなりません。
在るです。
無に帰るのではありません。

ゼロ? ではありません!

大いなる1です!唯一です!

無というのは、この世界を基準にした錯覚であり、思い込みです。

在る!なんです。

神はそのように、自らの名をヤハウエと告げられました。

2012-11-21

 

◎この記事の最後の部分、「神はそのように、自らの名をヤハウェと告げられました。」に関連して。

ヤハウェの意味ですが、wikipediaには次のように載っています。

古くからヤハウェの名は、「存在」を意味する語根(√היה [√hyh])と関連づけて解釈されてきた。これは『出エジプト記』第3章第14節で、ヤハウェモーセに応えて「私は在りて在るものである」 (אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה [’ehyeh ’ăšer ’ehyeh])と名乗った事に由来する。

 

 

 

 

[読者A] 夢とは何か

花岡さん、みなさん、おはようございます。 

今朝、夢を見ました。 

その夢の中では、 
ある起こってほしくないことが起こり、 
私は怒って、その原因となった人物を殴りました。 

そこで目が覚めました。 
枕を殴っていました。 

「夢だったのか」 
と思い、一安心しましたが、 
その夢と関連した心の動きによって、 
起きた後も、何というか、心身の不快感が残っていました(今も少しあります)。 

花岡さんが、 
この世界では、イヤなことも、苦しいことも、 
すべて体験しなくてはいけない、 
というようなことを言われていたので、 
「夢の中でそういう体験をするだけならいいのに」 
と、ふと思いました。 

それにしても、夢って何なのでしょうか? 

夢の中の出来事は、実際のことではありませんが、 
(特に今朝の夢のように)この現実世界の出来事と関連していることが多いです。 

今朝の夢は、 
私がこれまでしてきた嫌な体験、 
その人物から受けた嫌な仕打ち、 
これから起こりうるであろう嫌な出来事(不安)、 
そういったことが、 
その夢となって現れたような感じがします。 


睡眠中の夢の中の体験と、 
この現実世界での体験と、 
その違いは何でしょうか? 

どうして、 
睡眠中の夢の中の(苦しみの)体験だけではなく、 
この現実世界での(苦しみの)体験が必要なのでしょうか? 

[読者MMM] 2つのルート

花岡さん、皆様、こんばんわ。 

真我に目覚めるルートについて、ちょっとつらつらと思っていることを書いてみます。 

アドバイスを頂けたらありがたいです。 

どうも、真我に目覚める方法に、私から見て、2つのルートがあるように思うのです。 

1つは、花岡さん、いまここのAさん、あの世のKさん、エックハルトトールさん、神との対話のニールさん、そして、禅の公案で悟りを開く方々のケース。 
私のイメージとしては、苦しんだ末に、瞬間的に「明け渡す」ことにより、目覚めた方たち。(一直線に飛び越えるワープ航法ルート) 

もう一つのルートは、ブッダの八正道、パンチャ・シーラ(5戒)、イエスの教えなどを守ることにより、だんだんと自我が薄くなっていくルート。これは、ワクワクすること、自分の本質(魂)の喜ぶことをすることで、薄い自我から忘我の状態になり、恩寵が来るかもしれないルート。(ある意味、段階を踏む修行ルート) 

いままで、たぶんこの2つのルートをごっちゃにしていて、混乱していたかも・・・と思いまして。 

あっているかどうかはわかりませんが。

[花岡] Re: 夢とは何か

Aさん、コメントありがとうございます。 

ユングなど、いろんな方が夢について語っております。 
しかし、わたしは夢を見た直後に夢がどのように展開されているかを見ました。 
それはまったく自分で創っていたのです。 
いちいちのキャラクターから、情景や、ストーリー展開まで、自分で創っていたのです。 
創り出す瞬間さえ、目撃しました。 
記憶や体験や、拘り、価値観などを駆使して、レンガの色、模様、アルミサッシの汚れ具合、あらゆるものを自分で投映していました。 

普段我々は、頭の中で想像したり、妄想したり、物思いにふけったりします。 
夢と言うのは、その状態と何ら変わらないことを見ました。 
そういう意味では、不安に思う事、嫌だった事、そのようなものが夢になって現れるというのは正しい見解だと思います。 

夢の中での苦しみの体験は、恐れから出るものであって、ある意味現実に備えるシミュレーションとも言えます。 
それはあくまでも、想像体験、物思い体験、であって、そこから現れる感情のアクションもその延長に過ぎません。 
現実での体験は奥底に残ります。 
でも夢であっては、いつか日ごとに思い出す事さえ不可能になります。 
あの日考え事している時に、いいアイデア思いついたのに忘れてしまったというように。 

夢の中の物語は、自我の「わたし」が創り出し、現実という夢は、真我のわたしが創り出しているとも思えるのです。 

 

[読者A] Re: 夢とは何か

花岡さん、ありがとうございます。 

>いちいちのキャラクターから、情景や、ストーリー展開まで、自分で創っていたのです。 
>創り出す瞬間さえ、目撃しました。 

>夢の中の物語は、自我の「わたし」が創り出し、現実という夢は、真我のわたしが創り出しているとも思えるのです。 

う~ん。なるほどです。 

[読者A] 自我とは

花岡さん 

>夢の中の物語は、自我の「わたし」が創り出し・・・ 

ということは、花岡さんの言われる「自我」とは、通常意識できる「わたし」よりも深いものだということなのでしょうか。 

そういう夢を見た原因を、自我(恐れや不安)に求めることはできるけれども、少なくとも私には、夢の中のキャラクター、情景、ストーリー展開などを創った自覚はないからです。

[花岡] Re: 自我とは

Aさん、おはようございます。 

そのような創った自覚は、もっと深いところから眺めていないと目撃できません。 

「わたし」というものは、意識の中の、ほんの小さな点に過ぎません。 
「わたし」も自我なら、「彼等」も自我です。 
幻想作用の力が、そのように働き、別々の分離されたものだと思わされているだけです。 
自我の中の「わたし」が自ら自我に縛り付け、自我の中で幻想を見ているだけです。 

そして真我は、次元を超え、大きさが適用できないほど広大で無辺です。 

「わたし」を明け渡し、「わたし」から自由になるなら、それが理解されるでしょう。 

あの人はどうだろう、この人はどうだろうと思い為すのではなく、自らを洞察すべきです。 
あなたの先生は、あなたの中にいるのです。