わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

人生を受け入れてみる 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Wさんからいただいた記事です。

*Hさんからいただいた同記事のコメント欄からピックアップしたものを最後に付け加えておきました。(2019-05-01記)

 

人生を受け入れてみる

 

いつだって何もかもが自分の思い通りには運ばない。
苦難の連続です。

起こる事に対して、これは自分にとって苦難だと見るうちは、それは事実苦難です。
財布を落とした等の小さな事から、絶望の淵に立たされるような出来事まで、毎日が苦難の連続です。
起こらないでほしいと思っても起こってしまいます。

それは事実苦難であるとしても、なぜそのような事が起こるのでしょうか。

もちろん神のみこころではあるのですが、なぜ神はそのような苦難を与えるのでしょうか。

あなたは試されているのです。

神に試されているのではありません。
全てであり、完璧である神は、あなたを試す必要など無く、全てを知っています。

あなたが、あなた自身を試す必要があって、それが成就しているだけなのです。
思い違いを払拭するためには、そのチャンスが必要ではないでしょうか。

我々は事あるごとに、思い通りに行かない事に出くわし、その度ごとに苦悩します。

そうです。思い通りに行かない。
それがまさに苦難と位置付ける理由です。

しかし、思い通りと言うその「思い」とは何でしょう。

おおかたそれは、願望に根差しているのではないでしょうか。
金が欲しい、いい暮らしがしたい、楽をしたい、賞賛されたい、征服したい、・・・どれもこれもが「こうしたい」「ああしたい」です。

だから何をやっても「思い通りには行かない」のです。
その願望を目指しているうちは、それが身勝手な自分の都合である事にさえ気づく事がありません。

次々と起こって行くその出来事は、あなたにとってどのような意味があるのか検証して見る必要があります。
案外それは、なんてことの無い普通の出来事かも知れません。
あるいは、あなたを導くための方向性を示しているのかも知れません。
ひょっとすると、あなたにとって重大なチャンスであるかも知れないのです。

ところが、いつものように自分の都合で考え、つまり願望達成のためには起こってはいけない事だと考え、戦うのです。

全ては自我によって立ち上る欲のために出来事と戦うのです。

起こる事は起こるべくして起こり、それらには全て意味がある。
それは戦う対象ではありません。
知るために、学ぶために起こって行きます。

思い違いに気づくチャンスなのです。
あなた自身のための、あなたによる試しとして、あなたの物語に記述された出来事です。

戦う必要はありません。
勝利する必要もないのです。

ただ、負けないでいる事が大切です。

勝つか負けるか、ではなく、負けずにいて耐え、現象の、起こって行く事の、真実を知らなくてはいけません。

神が観ているのは、そこです。

あなたが俗世で、辛さ悲しさに涙を流すとき、神も共に泣いているのです。
あなたを愛するが故に、その出来事を起こしているのです。
その痛みも、苦しみも、知っていながらそれでも、あなたのためにそれを起こしているのです。

あなたが神の愛を悟り、自己の内にそれがあり、神と自分とは全く離れてはいないと気づくまで、あなたに起こる出来事は苦難でしかありません。

苦難のない人は幸せかと言えば、そんなはずは無いのです。
彼等はチャンスを得られないからです。
全く神、真実の自己、理由条件のない純粋な愛、そのようなものを知るチャンスが無く、もがきながら生きる人の痛みも知る事がないから慈悲心にも成長が見られないかも知れないのです。

純粋で真っ直ぐで、真っ正直な人ほど俗世は厳しいのです。
しかし、それだからこそ、気づきのチャンスは多いのです。

白い蓮花は泥水に染まる事無く、いつでも白く美しく咲いている。
そのように、世俗の欲から離れ、執着を解き、それら起こる事を起こるまま受け入れるなら、気づきが起こらないはずがありません。
全く清らかな、純粋な自我の状態になったなら、ほんとうの自己、真我の愛の波動を受けられないはずがありません。

それは愛とともに、偉大なる智慧と至福をもたらします。

起こる事はすべて、神の愛の故です。

それを思い違いしてはいけません。
欲が、執着が思い違いをさせているのです。
自分の欲の都合による誤った価値観は最早捨て去るべきです。

全てが、あなたが愛すべき対象です。
恐れる事無く、受け入れて見るのです。
その真実を知り、安らいの世界に、くつろいでください。

人生を生きるとは、ほんとうにご苦労様な事です。
でも、それは後になって、ほんとうに有難かったという喜びに変わるのです。

2013-02-08

 

 

[読者D]

ありがとうございます。 
まるで自分に向かって言われているような、とてもタイムリーな記事で、驚きました。 

そして、ああ、自分の欲のために苦しいのか、と、心底納得できました。まったくその通りだと思います。
どこをどう見渡してみても、私には欲しかありません。 
そんな欲というか、価値観を持たなければ、苦しいはずがないことも理解できました。 

だからといって、今すぐ簡単に、ずっと握っていた価値観を捨てられそうもありませんし、一番難しいのは、自分がどんな価値観を持っているのかを正確に知ることだと思います。 

けれども、この記事をあなたが書いてくださったことによって私は、間違っているのは自分の方だと本当に思い、価値観について探ってみようという気持ちになりました。 

これは妄想かもしれませんが、自分の真我から私へのメッセージのような気がしてなりません。 

[読者BB] ちょっと書かせて頂きます(1)

私の体験がここを訪れる方の気づきの参考になればと思いまして、ちょっと書かせていただきます。 
私は昨年暮れに気づき(目覚め)が訪れたのですが、その気づきに至る過程で、自分の境遇(人生)を受け入れることと、他の人の存在を受け入れることがが大きなポイントになっていたようです。 
気づきの半年から1年くらい前に、私は、自分の境遇を受け入れる心境になりました。それまでは、目の前にある困難が辛くて辛くて押しつぶされそうなっていました。詳細は書きませんが、家内とは、そのときがきたら二人の息子を連れて人生を終わりにしようと相談していました。でも、そんなどん底の苦しみの中、私の心は、自分の境遇を受け入れる気持ち変わっていきました。そして、不思議なことに、こんな苦しい人生だけれど、この人生を選択して生まれてきたのは自分自身であるような感覚が生まれてきたのです。さらには、この困難は自分の「課題」であり、一つ残さずすべてについて逃げずに取り組みたいと思うようになっていきました。 
この辺りから、不思議なことに、私の周りの状況が少しずつ好転していきました。例えば、思いがけない幸運や、誰かの有り難い支援を戴いたりということが起こり始めました。 
(長くなったので分けます)
 

[読者BB] 続きです(2)

(上のコメントの続きです) 
そして、昨年暮れに、インターネットでブログを書いていたときに、ブログのお友達から不自然にぶっきらぼうなコメントを戴いて、私がイラっとすることがあったのです。でも、そのお友達は普段は優しい方なのに、どうして今日はこんな書き方をするのか変だなぁと思い、そのお友達のコメントがなぜか気になるのです。取りあえずは、当たり障りのない返事コメントを返して、他のことをやっていたのですが、なぜか気になるのです。そのうち、そのコメントに何か「意味」があるのではないか、あるいは、何かを私に教えようとしてくれているのではないかとか、そんな感じがしてきました。 
そう思っていると、ハッと気が付いたのです。自分に対するどんな人のどんな働きかけも、すべて意味があって、すべて大切なのだということが分かったのです。 
それと同時に、私の内面で「気づき」(目覚め)が起きました。 
ただし、このときは、自分に訪れたものが何なのかまだよく分かっていませんでした。私は、「気づき」や、宗教、スピリチュアルの方面についての知識が乏しく、自分に起こったことが何なのか判別できませんでした。 
「気づき」が起こったときは、何かと途方もなく大きな存在と繋がっているような感じがして、ただただ有り難く、ただただ泣いておりました。 

なお、ここに書かせて頂いたのは私の場合の一例に過ぎません。 
「気づき」に至るルートも、「気づき」が訪れた瞬間の体験も、そして、「気づき」後の生活や人生も、人それぞれのようです。 
また、私は「気づき」は特別なものであるとは思っておりません。遅かれ早かれすべての人に平等に訪れるもので、長い魂の歴史の中のほんの一瞬の通過点にすぎません。 
そして、特に申し上げたいのは、道端の石ころも、草木も、あなたも、わたしも、目覚めた人も、目覚めてない人も、そして、神様も(笑)、みな平等でみな尊いのだと思っています。そして、「すべてはひとつ」なのです。「あなた」は「わたし」なのです(笑)。 

花岡さん、すみません。m(_ _)m 
つい調子に乗ってあれこれ書いてしまいました。 
でもお伝えしたいことを書けて、私自身は有り難い気持ちで一杯です。 
こうしてここにコメントを書かせていただけることに、感謝の気持ちをお送りします。
 

[花岡] Re: ちょっと書かせて頂きます(1)

BBさん。 

その境遇を苦しみとして位置づけていたエゴを手放した時、受け入れる立場に変わったのですね。 
明け渡すという事は、すなわち受け入れるという事です。 
その時やっと真実が見えてくる。 

また、受け入れるという事は、「許す」という事でもあります。 
過去の出来事も、それによって負った傷も、遺恨も、また、石が石である事も、彼が彼である事も、全て許すという事です。 
そうであるなら、全部がひとつであるという事が、わからないはずがありませんよね。 

よかったですね。 
心から祝福申し上げます。 

そして、すばらしい体験談をシェアして頂き、読まれる方に代わって(っていうか代表して)御礼申し上げます。 
皆様には、勇気と希望が与えられたと感じております。