わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

 親鸞を想う  花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。

 

親鸞を想う

 

人は生まれて、そして死ぬ。
それだから、人は生まれてなどいない。

これを理屈や論理ではなく、感性の奥底で捉えられるでしょうか。

物質的な現れは、確かに生まれ来て死に行くよう見えるかも知れない。
しかし、そもそも人は、いつから人なのでしょうか。
そして、人とは何を指して言われるのでしょうか。

卵(らん)の時も人であったのでしょうか。
そうでないなら、胎児の中に発生したのでしょうか。

自分の何かが「生まれた」という変化、あるいは「死んだ」という変化を夢見ているだけなのではないでしょうか。
そのように、「わたしという主体」それ自体が思考である事を忘れ、創り出す夢を、楽しんでいるだけなのではないでしょうか。

それだから、人は生まれて、死ぬのではないでしょうか。
彼、真実は人を知っているけれど、人は真実を知らず、知ろうとさえ想い抱かない。

思考から自由になって、内なる本質に留まるとき、本質には生まれるも死ぬも無く、それはただ、当たり前のごとくここに在って、それはまた作り出されたものでも無く、在る事が当たり前で、在るだけであって、そしてここに在って日常を覗き見るとき、現実世界というのは何と騒々しく動きの鈍い思考の作用世界かと驚嘆するのです。

生まれて死ぬという事を、絶対的に人は信じ切っていて、信じ切れるその「人という者」を、この意味不明な何者かを、現実世界を、自らに展開しながら、「わたし」として置いています。

それがエゴ(自我)という「者」なのでしょう。
そのような「人と呼ばれる者」が作られ、それが自らを自己と名乗り、その事に何の疑いも無く生きています。

人は生まれて、そして死ぬ。
それだから、人は生まれてなどいない。

死んで消えるなら、生まれてなどいない。

それは日常が、瞬間に記憶に死に行くのと同じ事です。
あったと思っても、それは無いのです。
ですから、生まれてなどいません。
無いのです。
最初から無いのに、あるが如く、夢を見ているのです。

本来皆が本質は目覚めていて、目覚めていながら夢を見る者を作り出しているのです。

仏陀がアーナンダに言われました。
「目覚めていて夢を見る者となるな」

確かな本質を、「ここ」に置きながらも「人」と呼ばれる自己、つまり自我が思考の世界で思考にかまけ切っている状態を言うのだと思います。

人、つまり思考の営みを統べる自己は、それ自体思考でありながら、思考に翻弄される事で遂に思考を抜け出せず、思考に牛耳られている事にすら気づく事がなくなります。

そこに苦悩(迷妄)が生じますが、人にとっての救済は、苦悩からの解脱ではなく、この夢見からの解放、自由を指すのではないでしょうか。

つまり、そのような「人」としての体験の中で、このここ、つまり「如実」に切り離されたごとく見える「人」そのものの忘却を、この「如実」に立ち返らせる作用、いわゆる気づきが救済かと思われるのです。

それなくして、たとえある日、苦悩が消えたとしても何度でもそれは現れてきて、人を苛むでしょう。

つまり、自ら思考でありながら自己という思考を思考するそのエゴから、この「如実」という主が在るのだと絶大なる存在感を以て思い知らせ、気づくに至る事が救済ではないかと思うのです。

それだから、目覚めた人はもはや人とは呼ばれない、と言われるのでしょう。

もしも人が、その真我に立ち返り、つまり真我が人の内に目覚めるなら、あらゆる苦悩、悲愴、絶望が消え去るでしょう。

そのような「如実」から及ぼすちから(他力)が、思考の自己すなわち自我に及んで来る。
如来」とは人型ではなく、この力、作用、如実なる存在から来るちから、作用、すなわち聖なる慈愛なのではないでしょうか。

ですから阿弥陀様が如来ではなく、アミターバという人に及んだ聖なる慈悲を如来と言うのではないでしょうか。
それは誰の内にも遍満し、辛抱強く、振り向いてくれるのを待っているのでしょう。

法然は確かにその如来に通じるを得たかも知れない。
それだからその感激に、その感謝に、南無阿弥陀仏という言葉を繰り返し、それをはすなわち感謝の余りの自然な行為だったのでしょう。

しかし、至る事のない弟子には、それはメソッドとなってしまったのでしょう。
阿弥陀様(如実とそのちから=他力)に委ね、感謝しなさい」という意味が、唱えるだけで救われる、に変わってしまったのかも知れません。
それはしかたのない事です。
如実がわからない事には、わからない相手に委ねるなど、どうしたらいいのでしょう。

それでもメソッドであり、それはつまり信じるメソッドであるから、そうするしかなくなります。
唱えていれば必ず何とかなる、救われる、という「信念」が作られ、唱える事が目的そのものになってしまいます。

念仏は、呼びかける声であり、委ね切る思いの表明であるのに、見返りとしての救済を期待し、請い願い、得ようとして唱えるのだから、それはもはや、エゴが取引を要求する姿でしかなくなったのではないでしょうか。

委ねるべき相手、それは誰の目にも見えたりはしない。
それでも、自らの内に、神性・仏性は確実に存在しているのです。
委ねるべき相手は、自らの内に、確かに存在しているのです。

思考で委ねるのではありません。
覚悟が委ねるのです。

覚悟とは後戻りしない姿勢、委ね切る精神。
それが文字通りの覚醒、悟りに通じるちからになるのではないでしょうか。

それだから親鸞は、言うのでしょう。

「委ね切れるなら、もはや念仏など必要ない」

わたしは浄土真宗の関係者でもなく、信者でもないけれど、親鸞は大好きです。

親鸞のこの言葉に、宗教的臭いは一切感じません。
彼は、宗教人を捨て、如来に委ね切り、完全に受け入れる立場になったのだと思うのです。
彼の厭離は、宗教からの厭離であり、それだから「わたしは弟子の一人さえ持たない」と言い切れたのです。

組織の中では悟れないでしょう。
形式、作法に縛られているなら悟れないでしょう。
序列の中では悟れないでしょう。
そこにあるのは、依存と支配というエゴの渦巻く、悟りとは縁遠い世界なのではないでしょうか。

ただ独り歩め。
犀の角のように。
仏陀のこの言葉に帰って来なければなりません。

如実。
当然の在る。
その慈悲と愛に浸るときの、このなんとも甘い至福。

これこそが救いであり、同時に人も世界も何もかもが、慈愛によって出来ていて、この学びを助けていたのだと知れるのです。

迷妄に陥らせる日常、これがこのまま、悟りへの教材である事が知れるのです。

余韻を引いて残るのは、ただ、「ありがたい、ありがたい」だけになるのです。
 
2014-03-23