わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

質問の答え(Kさん)苦しみの終焉 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。記事の理解に有益だと思われるコメント欄のやりとりを最後に付け加えてあります。

 

質問の答え(Kさん)苦しみの終焉 

 

Kさんから頂いた質問にお答えします。
たぶん、多くの皆さんが同様の疑問をお持ちだと思います。
しかし、言葉の適用できない世界の事は、どうしたって伝えきれるものではありません。
そのあたりを、ご周知願います。

> どうすれば明け渡すことができるのでしょう? 
私にはこれといった信仰心もありませんし神とか源泉といったものに明け渡す、みこころをうけいれる、
といったことがよくわかりません。 
はっきり言えばどうすればいいのかわからず途方に暮れるばかりでできないのです。 
私もできることなら明け渡したい、みこころにゆだねて楽になりたい、 
と思うのですが、どうすればいいのだろうと頭で考えるばかりでどうすればいいのかわからず、 それがまた苦しいです。 

「みこころ」とは、起こる事が起こっていく、その起こさせている大意です。信仰はあろうがなかろうが関係ありません。
みこころによって起こるそれをありのまま、受け入れるだけです。それが、「みこころを受け入れる」という事です。
難しい話をしているわけではありません。

神とか源泉とか、わからないというのは当然です。
それを見ていないのですから、知るわけがありません。
そうであっても、「わたし」というこのわたしは、自我に作り出されたニセ物であって、「ほんとうのわたし」が「ほんとうの世界」に存在しているという事を疑ってはいけないのです。(信じるとは別です)

このブログでは、「ほんとうのわたし」以外に存在してはいないのだという事実を言っているだけです。
それだから、神と捉えても、源泉と捉えても、真実の我(真我)と捉えても間違っていないと言うのです。
その「ほんとうのわたし」に自我というニセ物に由来する全てを、「わたし」も「苦るしみ」も明け渡すだけです。

苦るしみを作り出しているのは、自我というニセ物の思考、それが犯人だという事に気づく事が必要です。

このシンプルな事実を、どうしてもわからないと言う人はいます。
わからせないように働く不思議な作用が世界にはあるのです。それをマーハー・マーヤ(偉大なる幻想)と言います。
ところが、マーヤが作用しない人は「それ、あたりまえです」って言いきれるのです。

> まだ何もわかっていない私にとっては、逆に何を修行したりこうしてあがいたりしてみても無駄なのかな? 
私はまだ体験すべきこと、学ぶべきこと、苦しむべきこと(?)が足りていなくて悟れないだけなのかな?
まだまだいつまでも苦しまなくてはならないのだろうか? 
といった不安や絶望にもつながってしまうのですが、 
そういった修行や苦しみ、あがくといったことさえも含めてすべて必要で、 
いつになるかもわからない「そのとき」が訪れるまで苦しみ続けなくてはならないのでしょうか? 

悟りに入る人には二種類あると思います。

ひとつは、師を持ち、師の指導を疑わず、そのとおりの行を何年も何十年も続け、悟ってしまう。
たったひとつの言葉だけ、それを務め励んでそうなってしまう。
それは清く、潔く、汚れのない純粋な天真なハートを持ち合わせている人ならそうなります。
ニサルガダッタが師に教えられた「I am that」それだけで彼は悟りました。
師はそれを言い伝えてすぐ、死んでしまったにも関わらずです。
ラーマクリシュナもそうなのでしょう。師をこよなく愛していました。
それらは愛から発する悟りなのです。
ですが、師は間接的に関わっただけで、直接的には自分で気づくのです。

もうひとつは、師を持とうが持つまいが、苦しみの中から真実を得る悟りです。
例えば、禅の公案をただひたすら考え、考えても考えても答えの無い答えを導き出す。
何年も何十年もその無意味に見える答えを探す苦しみ。
ある日、もうだめだ・・・と、しがみ付いているそれを放擲する瞬間、あ!という答えが現れます。
あるいは、人生の苦渋を舐めつくし、苦しみを極める一般人がいます。
そういう人は、
もうこんな苦しみは嫌だ。苦しみは要らない。苦しみなんかどうでもいい。もうたくさんだ!
もう苦しみと戦わない。苦しみとは生きるための戦いなら、生きなくてもいい。
死さえ受け入れる。恐怖ももうどうだっていい。悟りももう諦めた。完全に参りました。
そこまで、苦しみに苛め抜かれたらギブアップするしかないでしょう?
もういい。神の言うこと(みこころ)ききます。好きなようにしてください。って心底思えたら、
そして二度と苦しみを拾い上げないなら、それは完全な明け渡しであり、受け入れです。
そのほうが楽なのですよ。
苦しまないで明け渡すほうが、もっともっと成し難いのです。

苦しみは自分で作っていたのだと、そのときわかります。
ほんとうは苦しむ事で、苦しみを終焉させるのだとわかります。
そうなれば、ああ、もう苦しまないでいいんだっていう、解放感が得られます。
その解放感が喜びが、胸の「それ」と共鳴します。
そこで、やっと聖者が愛によって悟るそれと同じ愛を得るのです。

もしもあなたの人生が過酷で苦しいものなら、そちらのタイプだと思いますよ。
物事には、無駄なものなど、何一切ございません。
あらゆる事に意味はあるのです。

> また、「胸の内側に、なにか五感では捉えられない感覚的な存在を見つけてください」 ということについてなのですが、それは身体的、物理的な胸とはまた違うものなのでしょうか? 
たとえば悲しいときに胸の真ん中あたり(胸腺?)が痛くなったりしますが、 
そういった私にとっても明確に感じられるものとはまた別のものなのでしょうか? 

身体的な胸に(中央ですが、マハリシは右と言ってますね)身体的ではない次元ターミナルが、感覚されます。それが腺と位置が近いために腺とも共鳴してしまいます。

このようないわゆるチャクラは全身に七個あると言われますが、両手掌もプラーナ(気)を集合させるため、それを含めて全部で九個とする人もいます。
最も重要な部分が、胸の部分に現れる「それ」です。
それが自分というものが、源泉というものが「愛」なのだと絶対的に気づかせてくれるのです。
「愛」がそこから止めどもなく溢れ出るからです。
その喜びを体感したときに、もう悟りなどどうでもいいってなってしまいます。
ただただ嬉しくて、喜びに満たされます。
明け渡し、まかせ、信頼して受け入れる事で得られます。
それはむしろ、悟りより大事なものかも知れません。

わたしは岸(自我)から見た対岸(真我)を言っています。
渡り方も既に言いました。(明け渡し、信頼してまかせきり、絶対的に受け入れること)
渡るのはあなたです。だれも渡してくれません。
ところが、その渡り方で渡ると、向こう岸の方が近づいてきます。
源泉に任せきることで、源泉が与えてくれるのです。
そのミラクルを楽しんでください。

いつかそのようになるのでしょうか・・・なんてどうだっていいじゃないですか。
なるんです!


具体的な方法でしたね。

それは、あなたが選択するだけです。
ほんとうに、それだけなんです。
 
2012-04-12
 
 

[読者T]

ほんとにKさんだけではなく沢山の人が同じ想いだと思います。 
Kさんが自分の納得出来る形で気付きがあればいいですね。 
私もなんですよぉ~ 
だから大丈夫みんないます。 

Hさんは花岡さんが言うように深い深い洞察力。技有り!って感じです。 

花岡さんの言葉を何度も何度も読み返し、ここに訪れてない時の日常的にエゴに翻弄されないようバランスをとってる方もいっぱい居るのではないでしょうか。
     

[読者H]

ハートが教えてくれますね。 
自分の中を探すといいですね。 
答えは、内側にあります。
     

[読者K(質問者Kと同一)] ありがとうございました

花岡さん、ご丁寧にありがとうございました。 

Tさん、Hさんもありがとうございます。 

「明け渡し、信頼してまかせきり、絶対的に受け入れること」 
我が強く、一番苦手なことかもしれませんが(笑)、 
だからこそ苦しむのだろうと思います。 

「あなたが選択するだけ」 
う~ん・・・自分では選択したいつもりでいるんですが・・・(笑)。 

きっと私にはまだまだ無駄な執着が多すぎるのだと思うので、 
自然と諦めがつくまで、降参して全部明け渡すことができるまで、 
苦しむしかないのかなと思いました。 

「物事には、無駄なものなど、何一切ございません。 
あらゆる事に意味はあるのです。」 
ありがとうございます。心の励みになります。 

Hさんが 
「ハートが教えてくれますね。 
自分の中を探すといいですね。 
答えは、内側にあります。」 
とコメントされていますが、 
また頭でっかちな悪い癖で、感覚的に把握できずに 
「答えが内側にあるという自分の中を探すってどうやってやればいいんだろう?」 
と頭で考えてしまうのですが、 
それは具体的に瞑想のような方法があるのですか? 

またそういったアプローチと花岡さんの「明け渡す」といったアプローチではある意味で真逆だと思うのですが、 
その関係は一体どういったものなのでしょう? 

明け渡すことと答えを自分の中に探すといった行為は矛盾というか、 
両立が難しいようにも思うのですが、 
どちらか自分に合っていると感じる方に取り組めばいいのか、 
それとも両立は可能なのか、 
花岡さんやコメント欄のみなさんのお考えをアドバイスして頂ければ幸いです。 

なんか頭でっかちで本当にすいませんが、よろしくお願いします。
     

[読者H]

同じことなんですね。 
考えをやめることですよ。 
考えないことが、探すことなんですね。 
神を信じていれば、何も考える必要がないんです。 
ハートは、感じるものですね
     

[読者T]

Kさん、明け渡すのと内側を探すは、実は同じ意味ではないかと思うのです。 
もし今度何かの感情が湧いて来て、それに動揺してる自分を感じて見て下さい。きっと動揺している自分に気付いてるもう一人の自分が居るはずなんです。動揺している思考が自分だと錯覚しているだけで、本当は動揺している思考に気付いてるのが本当の自分だとわかると思います。 
それに気付いてそれを感じる事だと思うのです。 
ごめんなさいね、言葉にすると細かいニュアンスが上手く説明できなくて。 
きっと「あっ!」って気付く時が来ると思います。と…以前私が花岡さんに言われた気がします。 
順繰り順繰りですね(笑)今度はきのこさんが誰かに話してあげる番ですね。人に話すと自分の考えが整理出来て、わかってしまうかも! 
 
 
[花岡] なんてすばらしい
ハレルヤさんの見解も、Tさんの見解も、 
まったくそのとおりで、充分な満点の答えです。 
それと、お互いがシェアし合っている事がとてもうれしいです。 
ありがとうございます。

[読者K(質問者Kと同一)]

みなさんおはようございます。 

ご丁寧にアドバイスくださってありがとうございます。 
気づかれている自分ではなく気づいている自分、 
内側に探すのはその気づいている自分であり、 
明け渡すのもその気づいている自分に明け渡す、 
ということなのかなと理解しました。 
違ってたらご指摘いただきたいのですが、少し頭がスッキリしました。 
ありがとうございます。 

Aさんはじめまして。 
やっと私以外にもコメント欄に迷える衆生、 
迷える子羊が生贄に現れてくれてうれしいです(笑)。 

いろいろ個人的に相談や質問をしたい気持ちはわかりますが、 
当たり前ですが花岡さんはそれがお仕事なわけではないですし、 
個人的にメールで質問だそうだんだというのはしんどすぎだと思います(笑)。 

それになんといっても僕たち迷える子羊は(一緒にしちゃってごめんなさい!) 
「なんか一人だけわかってない奴がいるなあ・・・」って浮きまくりながら、 
それでもやむにやまれず公開の場で質問させてもらうことで、 
せめてご回答いただけたときに同じような(質問こそしないものの)疑問を持っている仲間の役に立つというのがせめてもの役割と割りきって、 
そんな自分を正当化して迷惑も顧みずガンガン疑問は質問させてもらっちゃいましょう!(花岡さんごめんなさい!) 

でもきっとそれが他の多くの人にとっても疑問だったり理解しがたいと思われることであれば、 
多分花岡さんは快くお答えしてくださる方だと思います。 

僕も「ハートの『ここ』を開けばいいのです」とか言われるたびに、 
言葉ではわかった気になるしすごく憧れるのに、 
「じゃあ実際どうやったらハートの『ここ』を開けられるんだ? 
ハートの『ここ』ってどこだー!!!?」ってなってしまうような頭でっかちですが、 
お互いいつかわかるときがきますように! 

ものわかりの悪い私ですが、 
これからもたまに質問や相談をさせてもらうことがあるかと思いますが、 
どうぞよろしくお願いいたします。 

花岡さんやみなさんが今日もよい一日になりますように! 
     

[読者A] 「疑わない」と「信じる」の違い

Kさん、最近お見かけしませんが、コメントありがとうございました。 
今まで気づかなかったようで、さっき初めて読んだような気がします。 

ところで、花岡さんに質問なのですが、 
「疑わない」ということと、「信じる」ということは、どう違うのでしょうか? 

>「ほんとうのわたし」が「ほんとうの世界」に存在しているという事を疑ってはいけないのです。(信じるとは別です) 

[花岡] Re: 「疑わない」と「信じる」の違い

Aさん、こんばんは。 

> 「疑わない」ということと、「信じる」ということは、どう違うのでしょうか? 

ニュートラルであるなら、疑う根拠を見出せないなら、疑わないでしょう。 
しかし、自分が理解していないのであれば、信じる事もできないわけです。 

信じるとは、理解してはいないのだけれど、受け入れてしまう事です。 
信じるの中に、理解は絶対的に無いのです。 
もしも、理解があるなら、そこにもはや、信じる必要がどこにあるでしょうか? 
理解があるのだから。わかっているのだから。 

それを洞察してみてください。 

> ・やるべき事ができない自分(その心の抵抗) 
> ・「やるべき」と思う自分 

やるべき事というものは、ないのですよ。 
あなたがそのように、意味づけて、断定しているのです。 
さらに、やるべき事は、したくない事と意味づけるのです。 
抵抗ではありません。 
意味づけているのです。 
ほんとうはどっちでもいい事です。 
やってみようかなと思ったらやればいいだけです。 
そうじゃないでしょうか?