わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

「わたし」が消える実験(2) お答えします(タイトルが思いつきませんでした) 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎これは、以前掲載した記事「お答えします」(2016-02-15掲載)と同じ記事ですが、続けて読むべき記事なので再掲します。Hさんからいただいた記事には、コメント欄も付属していたので、読者のコメントも2つ付け加えておきました。

 

お答えします(タイトルが思いつきませんでした)

 

前回の記事に質問を頂きました。


>【読者P】この記事の「わたし」が消える実験(ワンネス感覚)と以前の記事のダグラス・ハーディングの「頭のない方法」の実験は体験としては同じなのでしょうか?
 
(注)過去記事「ダグラス・ハーディング」(2018-12-31掲載)参照


同じではありません。

前者は意図的に思考の減衰を試み、「わたしが消える」事によって認識者を特定する事無く、認識だけがある故に、全ては現れているだけでありそれ以外は無いと観る事。
それは数々の(個々の)模様(形や色)を認識していながら、分離の感覚の無い、ひとつの、また全的な在りように漂い在る事です。

その時、全てが認識であり、あえて認識している者を置くならば、認識対象の全てがその者であるという感覚です。
そこにひとつ以外のふたつめ、みっつめは無く、純粋なる全てを観る感覚、溶け込んだというよりも、それ全部はひとつという感覚を知ると思います。

一度それを発見できれば、次からは比較的楽にそれに入れると思います。

後者は頭という意識からのシフト、つまり観察者としての意識を持ったまま、その意識そのものにシフトし、その立場から世界を認識する時に、結局認識者の認識する全ては、認識者の頭(認識作用)そのものであり、身体としての頭も身体そのものも、それに続く空間も家も森も空も、ただ続く模様(形や色)であり、それらは認識する頭(意識)に現れ展開されている全てと観える事。

この場合、観察者という立場があり、それだから世界という頭がある。
しかし、世界の個々の分離はやはり無いという事に気づくでしょう。
そうであるから、認識者の方に展開が、その変化が現れ来て、認識者が変化の方へ移動しているのではないという観え方となるのです。
ですから、あくまでも認識者を置いた観方、それを中心に現れが現れ来るのだと理解できると思います。

前者は認識そのものの立場にあり、思考が立ち現われにくい状態での気づきであり、後者は認識者としての立場を捨てていませんので、思考による新鮮な驚きとかは後者の方が楽しめると思います。

まあ、両者の同じ部分は、分離境界、つまり境目はどうでもよくなるという事でしょうか。

しかし、何度も言いますが、これが悟りというものではありません。
これらは、その感覚に入れるか入れないか、だけの事です。

大切なのは、現れる全てが何故に現れ来て、何者によって現されてしまうのか、それによってその者のどのような意図が成就されて行くのか、また認識する我々と言う自我たちは、その中を泳ぐ事によって、結果的に何を与えられて行くのかという事。

また、その事を理解出来る事で、世界という表面的なものではなく、言葉にし難い深い深い愛、作り手と読み手の不可分の絆、その喜びを知ってしまえるかどうかと言う事だと思うのです。

この喜びに依って泣き続けられる事、その至福によって、その愛によって酔える事を、この知らなかった事を知るかどうかだと思うのです。

その時、もはや悟りなど手放して、完全に服従してしまう事に驚くでしょう。

全くもう、世界も悟りもどうでもよく、不安のかけらも無く、ただ在るだけで満足してしまうのです。

どうすれば、そうなれるのか?

どうするのでもなく、日常を営んでいく、その事がそれに導いているに違いないのです。
そうであるから、現れる事が現れ来るのだと言えるのです。

修行する事が重要だと思う人はそうすればいい。
しかし、与えられた人生、置かれた場所、そこで生きることは、つまり人生そのものが修行である事は明らかです。

どんな事も無駄には成らず、必ずや意味が含まれていると思うのです。

全ては、与えられているのです。
どんな事も。

決して、自分のお気に入りの事だけを引き寄せる事はできません。
なんであれ、与えられているのです。

それはもちろん、必要だからです。
 
2014-04-11
 
 
 

【読者P】お答え、ありがとうございました。

お答え、ありがとうございました。
 

【読者M】 奇跡

花岡さん、こんにちは。 

日常を送る。 
そのことが奇跡なんですね。 
わからないことは山ほどあり、欲は消えることなく過ごしていますが、ここに存在する不思議を感じながら、今を生きています。 

生じる出来事の与えてくれる意味に気づきながら、生きていきたいと思っています。

 
 
 
*この記事の後半部分は、花岡さん自身の「個人的体験」を述べており、今まで何度も言ってきたことのまとめのようなものになっている。
問題は、この「個人的体験」を「普遍化」してしまっていること。つまり、誰にも当てはまる基準のようにしてしまっていることにある。
これは、花岡さん記事に見られる一般的傾向と言っていい。
 
また、もうひとつの花岡さんの傾向、あるいは特徴は、「泣き濡れる」ことにある。
これは、重要な特徴であって、他の悟った人々のあるタイプ、「笑いまくるタイプ」と好対照をなす。
 
「誰が」泣いているのか?花岡さんの「自我」である。真我は、泣かないのだから。
「笑いまくる」の人々の場合、自我が霧散している状態が自動的に、いわば、生理的に笑いを引き起こす。彼らは、自分の個人的ストーリーなどに関心はない。それは、「たんなるストーリー」に過ぎない。日本人では、「じゅんころ」さんが、そのいい例だろう。彼女は、泣かない。ただ、笑いまくる。
 
ここで、私が言いたいのは、花岡さんの「悟り」は、「自我」の中で大部分の時間を過ごし、ときおり、真我と合体するタイプのものであるということ。
一方、じゅんころさんの悟りの場合は、「わたし」が消え、常に「それ」の中にいるタイプのものであるということ。
花岡さんは、謹厳であり悲劇的だが、じゅんころさんは、いい加減(?)であり、喜劇的だ。
(ブログ管理人より:2020-04-08記)