わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

「わたし」が消える実験(3)「名前」が分離する魔法だったのです 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。読者のコメントも付け加えておきました。

*この記事を掲載した後、過去記事を調べたところ、「分離はない」(2015-12-10掲載)という記事の完全版であることがわかりました。本来、「「わたし」が消える実験」シリーズの順序で読まれるべきものだったわけです。

 

「名前」が分離する魔法だったのです

 

主語を使わない、あるいは、犬とか猫とか、木とか空とか雲とか、名詞を使わない。
そのような事が、何の役に立つのかと言う事を、以前申し上げました。

これは、世界に置かれた個々についての境目を消し去る事なのです。

そのような気持ちで周囲を見てみると、見える全てが全体的に、分かれずに、あたかもひとつの全部がただ部分的に模様が違っているように見えるのです。

注意深く読んでください。
一読では伝わりません。
感覚に入れなければ伝わりません。

つまり、まず全てが現れる場が用意されて、場そのものの様々な変容が模様となって見えているという事です。
その場とはつまり、そのために費やされる程の意識の事であり、この身体も、世界の一々も、そしてこの「わたし(という観念)」も、同じ意識エネルギーを利用して現されていて、ほんとうは区分が無く、これら全てがひとつだと言う事です。

これは「あるがまま」あるものを、そのとおり「あるがまま」見ている状態です。

模様の違いには気づいても、模様の違いの境目が個々としての境目である見方は消えているのです。
全部に気づいていながら、「あるがまま」見ている状態。
全的に見ているそこに、「わたし」という特別な状態はありません。

特定の範囲を示す言葉、名前を思い浮かべたとき、そこには分離が生じます。
分離するから、区別が生じ、区別するから「わたし」が現れます。

名前は、世界を個々に区別する魔法となるのです。

それはまた、世の中(人々の営み)に摩擦(苦しみ)を生じさせる魔法でもあります。
名前で分離し、区別するから比較をしてしまいます。
比較が格差を際立たせ、それによって人々は不平等からなる不満を思うのです。

一々に名前を適用せず、全体を見て、しかも違いにも気づいている。
気づいていても、その違いによって区別しない。
あくまでも、全的に見る。

それは現れというこの今を、「あるがまま」見ている姿であって、それは全く赤ちゃんの見方です。

赤ちゃんも個々の形や色の違いは気づいているのでしょうが、個々という見方を知るはずもありません。
なぜなら、言葉も名前も知らないからです。
まったく、現れを、現れるがまま見て、名前を付けず、世界と「わたし」という分離もなく、素直にただ見ているだけです。

そのような赤ちゃんには、「わたし」はありません。
あるのは、見ている状態だけがあるのです。
ある事に「気づいている」だけです。

価値的に断定もせず、裁きもしません。
嬉しく快適であれば笑い、そうでなければ泣いている。

始めてみる世界は、彼にとって驚きでしょう。
五感の感覚は新鮮でしょう。

そのように世界を見て見なさい。

我々だって、一瞬一瞬が、初めて見る世界なのです。
今見ている世界は、さっきの世界ではありません。
それは既に、記憶に落ちて消えてしまいました。

この今の世界が新鮮でないはずがありません。
新鮮でないのは、過去の、消え去った世界を見ているのです。
それは、記憶側のイメージを適用して見ているだけで、今を見ていません。

この今、初めて見る世界を、全的に享受するのです。
美しくないはずがありません。
輝いていないはずがありません。

しかし、美しくても「美しい」とかも思わず、ただ感動しなければいけません。
言葉を思い浮かべる事無く、ただ世界に感動してみるのです。

それができるだけの天真さを、誰もが以前は持っていました。
そのような純粋な者であったのです。

それが、世界の一々に名前を付け、区別し、意味づけをした結果、というより、そのような手法を(世間から)押し付けられ、「あたりまえ」としたから、我々はこの世界以外の真実を忘却してしまいました。

神を悟る事は、人として生まれた事の重大な意義です。
しかし、「神」という「名前」を付けてしまうから、「わたし」と「神」は分離してしまいます。

それには、ほんとうは名前はありません。
ほんとうは、我々は、それでもあるのです。

それしか無いのです。
それだけが在るのです。

その「それ」に気づいていて、しかも、世界にも気づいていて、一切を全的に見る事ができるでしょうか。
世界にも「それ」を見る事ができるでしょうか。

ここからは、全く言葉が適用できないゾーンです。
感性に委ね、感覚し、「それ」と「世界」の隔たりが無い事に気づけるでしょうか。

この感動、この驚き、この素晴らしさに泣けるでしょうか。

何も目的を持たず、到達しようという思いを捨て、あるがままを享受しようとするなら、何かが起こるでしょう。

実は、分離は分離を超え、一元に帰るために現れます。
苦悩は苦悩を超え、苦悩など無く、ただ在る事に気づくために現れます。

神は概念です。
「わたし」は観念です。
名付ける事で意味づけているだけではないでしょうか。

唯一実体は、「在る」そのそれです。

それを「わかる」事ができるでしょうか。

共に在り、また、それで在る事を、わかる事ができるでしょうか。

この全てを、愛する事ができるでしょうか。

永遠という概念を超え、つまり、初めも終わりも永遠も適用する意味など無いその「在る」で在る事に納得できるでしょうか。

だからと言って、そんな事を考える必要はありません。

ただ、それで在るかどうかです。

それで在るとき、自ずと知る事になります。

人はそれ自身で知るように出来ているのです。


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2014-04-13

 

 

【読者A】 花岡さん、こんにちは。

>つまり、まず全てが現れる場が用意されて、場そのものの様々な変容が模様となって見えているという事です 
  
今までに2回その様な感覚になった事があります。 
体調が悪くて寝込んでいた時で、あまり意識がはっきりしていない時に、頭の中がオセロ盤の様になって、全てが白と黒の点滅でできていて、白が黒に、黒が白に変化するだけで様々な形が出来上がるのです。 

世界はとても複雑に見えているけれど、もしかしたらもっと単純なもので出来ているのかも知れないと、その時思ったのを覚えています。 

後は、何回も通っている近所の道で、道から見える景色が全てが絵画に感じられて 「あれー?」って思ったのですが、色と形が違って見えるけれど全てが同じものの一部なんだなーって感覚的に解ったと言うか・・・。 

わたしは、色と形の変化みたいに理解いていましたが、今日の花岡さんのお話で、模様という言葉にとても納得しました。 

ありがとうがざいます。 

 

【読者Y】 精神的な症状と目覚めのプロセスについて。

花岡さん、お久しぶりです。 
以前、質問させていただきましたYです。 
愛のこもったお返事をありがとうございました。 

 

*下記の記事が、そのYさんの質問。

shikoutoshi.hatenablog.jp



また、どうしてもお訊ねしたいことがあり、コメントさせていただきます。 

それは、ある精神病の類で苦しむ人の症状と、目覚めや悟りというものに向かうプロセスが、とてもよく似ているのではないだろうかということです。 

実は私自身、以前花岡さんに質問させていただいた状態にまだいて、普通の自分と感情の起伏が激しく怒りをコントロールできない自分との間を行ったり来たりしています。 

ある日、「これは目覚めに向かうための移行期間とかではなく、精神的なものなのではないだろうか」と思い、ネットで調べますと、境界性人格障害という症状ととてもよく似ているのです。 

私は現在35歳で、昨年結婚しましたが、それまでは実家暮らしで、怒りが爆発し、コントロールできなくなって、家族を怖がらせたり気を使わせたり、疲れさせていました。 

でも、なんでもないときはニコニコしていて、楽しく過ごしているのです。 

でもあるとき…特に母親に傷つくことを言われたり、妹の方を大事にされたり、自分を雑に扱ったりされたと感じたりすると、もうどうにもならないくらいの怒りと悲しみが同時に湧きあがり、泣き叫んだり、物に八つ当たりしたり、尋常ではない怒り方をしてしまいます。 
「境界」というように、良い自分と悪い自分というのがいて、中間というものがなく、自己像も不安定で、いつも私は誰かに、何かになろうとしてきました。 
他者に対しても、良い時・悪い時。 
幸せか、不幸か。 

いつも白か黒かというものの見方をしてきました。 

一番ひどかったのは、20代でした。 
それは身近な家族に向けられます。 
特に、やはり母親です。 
大好きなのに、大嫌いで憎いのです。 

自分でも色々と原因を調べたりしました。 
見えないものが見えたり聞こえたりする人に見ていただくと、「幼いころ、妹が生まれ、長女だったあなたは母親を妹に奪われ、捨てられたように感じたことが原因」ということは数人の方に言われたことがあり、自分でもそれは感じています。 

書籍やネットなどで調べると、幼いころなどのトラウマが境界性人格障害を引き起こすきっかけとなるようでした。 

この、自分の状態は、果たして…名づけるなら目覚めへのプロセスで「魂の試練」というものなのか、人格がうまく形成されなかったための障害としてあるのか、わからなくなってきました。 

こういう自分を観ている自分がいるような気もするけれど、以前花岡さんがおっしゃったように、拠るべき対象が見えないのです。 

いつも空虚を抱えていました。 

現在結婚し、幸せなはずなのにどこか虚しいのです。今は怒りを向けてしまう対象が夫になり、心配してくれています。 

いつかは赤ちゃんを…と思っていますが、こんな自分に愛せるだろうかと不安です。 
今の私はまだ「いつかわたしにもわかる日がくる、あんなに色々頑張ってきたんだから、いつか悟れる。いつか、いつか」と待っています。 

せっかく花岡さんにいただいたアドバイスを、うまく役に立てることができていません。 

今ここに在ろうとしても、思考は過去を振り返ります。未来を想い煩います。あの人はきっとこう思っているんだと妄想し、勝手に落ち込んだりしています。あれがない、これがないとないものを数え、惨めになり、幸せを感じることができません。今に在れば、今だけに在れば幸せであるということもわかりません。 

もし、以前に精神病について書かれた記事がありましたら、申し訳ありません。 
今までずっと、自分の状態をスピリチュアルなこととして必要なことだと思い、そういう方面にばかり向かっていましたが、病院に行ったり、あるいはカウンセリングなどを受けて治療した方がいいのでしょうか。 

それとも、これもわたしが映している景色としてただ受け入れるのか…。 

花岡さんはお医者さんではないし、精神的な症状に詳しいわけではないことは承知していますので、もしお答えできなければ、構いません。 
自分の状態をまとめることが出来ず、誰かに聞いてもらいたくて、質問させていただきました。 

読んでいただいて、ありがとうございました。 



【読者E】

Yさん、こんにちは。 
精神病の種類はいろいろですが、私は妄想性障害という精神障害を抱えています。 

自分は、精神障害を抱えるほど苦しい思いをしているのだから、他の人より悟りの境地に近いのではないか、とか考えていました。 

ですが、私の病気の場合、自分の自信の無さから発病したものだと考えています。 
いろいろなことから逃げているから人の顔色を伺うようになり勝手な妄想をふくらませていく・・・。 

yasukoさんのおっしゃる、境界性人格障害は、関連するいろいろな症状が考えられますので、私には鬱病などの経験はありませんし、妄想についての意見だけしてみます。 

自分の妄想がわかるということは、(発症後を振り返って)非現実的な思考への気づきです。 
そこから、現実的な思考に対しても振り返って、「これは頭で考えている幻想なんだ」、と気づきやすくなります。 
たとえば、朝が朝であること、無職が無職であることの固定観念が薄らいでいきます。 
それに関わる思い込みが減る、思い込みに気づきやすくなるということでしょうか。 

精神病のような症状は、ある程度経験し克服すると、一般的な現実というものを、幻想として(思い込み)気づきやすくする一面は持っているのではないかと、私自身の経験では理解しています。 

朝だから明るくなければいけない、無職だから恥じて、自信を失っていなくてはならない、などの思い込み・・。 
ただ、あるがままに物事を受け入れることを、しやすくなるのかな?と思いました。 
・・と言いましても私自身は悟りの境地などは程遠いのですけど。 

花岡さんが回答するなら、また違ったものになると思います。 

私自身の課題は、皆さんならすでに乗り越えて来られているであろう、「逃げてはいけないことから逃げない」ということなので、アドバイスできるような立場ではなく、精神病の体験だけを書かせていただいたつもりですので、その点、ご理解願います。 




【読者S】

はじめてコメントさせていただきます。 
空中浮揚やテレポーテーションなど諸々な力と悟りは関係ないといいます。 
悟りと超能力、またワンネスはどの様な観点なのでしょう? 
それは単に、何が可能であるかの度合いでしょうか。 
自分が神であると悟ることは、ワンネスという繋がり以上の力を意味するのでしょうか? 

 

 

*この花岡さんの記事に限らず、いわゆる「悟った人々」が言語の果たす役割と「悟り」の関係について話す時、また、幼児期の「自我獲得」について話す時、いつも私が思うのは、彼らは、ピアジェらの発達心理学の実証的研究について無知であり、また、1970年代から1980年代にかけての言語学を中心とした構造主義、およびポスト構造主義という知的潮流についも無知であるということだ。

当時の哲学者たちは、言語の果たす巨大な役割について熱く語っており、「世界の分節化」は言語の習得によってなされること、そして言語能力なるものは生得的であることを様々な形で説いている。

「それができるだけの天真さを、誰もが以前は持っていました。
そのような純粋な者であったのです。

それが、世界の一々に名前を付け、区別し、意味づけをした結果、というより、そのような手法を(世間から)押し付けられ、「あたりまえ」としたから、我々はこの世界以外の真実を忘却してしまいました。」

という花岡さんの言葉は、当時の哲学者たちから見れば、かなりおかしなものに聞こえるだろう。なぜならば、我々人間は言語能力を生得的に持っており、幼児期に周囲の人々の話す「言語の海」に浸された時、自動的に言語中枢を形成する神経網が形成されていき、あるとき、一挙に話し出すからだ。

それは、「世間から押し付けられる」のではなく、人間のDNAに刻み込まれた本能なのだ。また、名詞だけが世界を分節するのではない。ひとつの言語体系全体が作動するときに世界は分節されていく。

これらの学的実証や哲学を踏まえた言語と悟りのあり方については、井筒俊彦の「意識と本質」を読んだほうがいい。

(ブログ管理人より:2020-04-08記)