続・サムサーラ(輪廻) 花岡修平 「真我が目覚める時」
◎Hさんからいただいた記事です。コメント欄でのある読者とのやりとりが興味深かったので、これも付け加えておきました。
続・サムサーラ(輪廻)
誰もが必ず死を迎えるのに、なぜ生まれてくるのでしょう。
どうせ死ななければならないのなら、生まれる必然はどこにあるのでしょう。
カルマと言われます。
そう言われると、なにか自分が、とんでもなく悪い質の者で、
その浄化のために生まれ苦しみ死に行く定めなのだろうと思うかも知れません。
そんな事はありません。
誰もが神の愛によって、その体験を運ばれて行くのに、既に愛され、許されているのに、カルマ、原罪、そのようなものがあるのでしょうか?
そんな事も人の発明です。
なんでも創り出してしまうのです。
ついには、玄関を出るなら右足から出なければ良からぬ事が起こりますという事さえ創り出します。
そのような倒錯にさえ、気づかないでいます。
神が何も間違っていなくて、完璧であるならば、それを根源とする誰もが完璧です。
苦しむために生まれてくるのではなく、苦しみを体験するために生まれてくるのです。
その違いはどこにある? と思うでしょう。
カルマ、原罪で苦しむために生まれてくるのであれば、人と言うものはなんと悲惨な存在でしょう。
苦しみを体験するために生まれてくるのであれば、その先には学びという得難い結果が輝いています。
しかも、それは何かに押し付けられて、そう生きなければならないのではなく、
自ら望んで、選んで、これを体験しようとして、結果そのように様々な生を生きているのです。
カルマ、原罪という自己にまつわる起縁で流れて行くのではありません。
あそこに! すばらしい結果が待っているからそこに行くだけです。
そのように運ばれるのです。
それを拒否し、抵抗するから・・・味わうのは苦悩です。
おそらく、いろんな教え、宗教、スピリチュアルな思想を、
あちらこちらと渡り歩いた人は、どこでもカルマや因果応報という、乗り越えられない壁に突き当り、その度に、打ちのめされた事でしょう。
わかってしまえば、ああそうなのか!って、わかります。
ほんとうに今まで信じて疑わなかった常識、当たり前、価値観を手放してしまえば、絶対的に信頼できる内なる神に気づき、そのみこころに委ねてしまえば、「それ」から教えられます。
生まれ生きる体験は、そんなドロドロした呪縛のような法則から来るのではありません。
誰もが、最初から許されきっていて、愛されきっています。
ただ、体験したいと、あなたの源泉が希望し、あなたが選んだだけです。
カルマや原罪、因果応報に縛り付けられて、どうしますか。
何もなく貧乏でも、愛されなく孤独でも、病に苦しんでいても、
そこから学ぶのです。
いろんな学びのために、いろんな生を生きるのです。
それは生まれ変わりなのではなく、いつでも、あなたは「ここ」に在って、
意識に現れる、自分シリーズの物語を体験しているだけなのです。
人は、なぜか惹かれるものに出会います。
それにドップリと浸ってみたいような衝動にかられてしまう事もあるでしょう。
切子細工を時間を忘れて、いつまでも飽きずに見ている人もいるでしょう。
そういう人は、かつての物語で細工職人だったかも知れません。
ムーンライト・ソナタのアルペジオの次に来る付点音符のタッチの味がどうしても気にかかる人は、かつての物語で表現技法を研究したピアニストだったかも知れません。
なぜか赤橙の布をまとったスキンヘッドの中年男のイメージがいつも出てくる人は、かつての物語で修行に打ち込んだラマ僧だったかも知れません。
でも、人は勘違いもするのです。
人は、全き自己を完成し、明知を得、解脱し、涅槃に究境するなら、二度と物語には戻りません。
そういう人は、再び母体に宿る事をしません。
ですから、わたしは仏陀の生まれ変わりだ・・・とか、
わたしこそは弥勒として救済のために生まれてきた、
そのような意味不明な事を言うのであれば、
それは、あり得ない自己倒錯です。 妄想、迷妄の極みです。
そこそこの組織団体には有りがちです。
仏陀も、キリストも、あなたも、わたしも、人間です。
悟り、完成された人は、二度と自我意識に世界を展開することは無いでしょう。
あなたもわたしも、いずれそうなります。
どこにも特別な人などいません。
特別な人になる必要もありません。
みんな同じそれぞれの個性をもって存在する、あの唯一の断片、要素、エレメントです。
やがてだれもが、そこに、ニルヴァーナに帰ります。
浄土に帰ります。神の国に帰ります。源泉に帰り、同化します。
ただの物語という、この夢から、覚めるのです。
2012-03-18
どうせ死ななければならないのなら、生まれる必然はどこにあるのでしょう。
カルマと言われます。
そう言われると、なにか自分が、とんでもなく悪い質の者で、
その浄化のために生まれ苦しみ死に行く定めなのだろうと思うかも知れません。
そんな事はありません。
誰もが神の愛によって、その体験を運ばれて行くのに、既に愛され、許されているのに、カルマ、原罪、そのようなものがあるのでしょうか?
そんな事も人の発明です。
なんでも創り出してしまうのです。
ついには、玄関を出るなら右足から出なければ良からぬ事が起こりますという事さえ創り出します。
そのような倒錯にさえ、気づかないでいます。
神が何も間違っていなくて、完璧であるならば、それを根源とする誰もが完璧です。
苦しむために生まれてくるのではなく、苦しみを体験するために生まれてくるのです。
その違いはどこにある? と思うでしょう。
カルマ、原罪で苦しむために生まれてくるのであれば、人と言うものはなんと悲惨な存在でしょう。
苦しみを体験するために生まれてくるのであれば、その先には学びという得難い結果が輝いています。
しかも、それは何かに押し付けられて、そう生きなければならないのではなく、
自ら望んで、選んで、これを体験しようとして、結果そのように様々な生を生きているのです。
カルマ、原罪という自己にまつわる起縁で流れて行くのではありません。
あそこに! すばらしい結果が待っているからそこに行くだけです。
そのように運ばれるのです。
それを拒否し、抵抗するから・・・味わうのは苦悩です。
おそらく、いろんな教え、宗教、スピリチュアルな思想を、
あちらこちらと渡り歩いた人は、どこでもカルマや因果応報という、乗り越えられない壁に突き当り、その度に、打ちのめされた事でしょう。
わかってしまえば、ああそうなのか!って、わかります。
ほんとうに今まで信じて疑わなかった常識、当たり前、価値観を手放してしまえば、絶対的に信頼できる内なる神に気づき、そのみこころに委ねてしまえば、「それ」から教えられます。
生まれ生きる体験は、そんなドロドロした呪縛のような法則から来るのではありません。
誰もが、最初から許されきっていて、愛されきっています。
ただ、体験したいと、あなたの源泉が希望し、あなたが選んだだけです。
カルマや原罪、因果応報に縛り付けられて、どうしますか。
何もなく貧乏でも、愛されなく孤独でも、病に苦しんでいても、
そこから学ぶのです。
いろんな学びのために、いろんな生を生きるのです。
それは生まれ変わりなのではなく、いつでも、あなたは「ここ」に在って、
意識に現れる、自分シリーズの物語を体験しているだけなのです。
人は、なぜか惹かれるものに出会います。
それにドップリと浸ってみたいような衝動にかられてしまう事もあるでしょう。
切子細工を時間を忘れて、いつまでも飽きずに見ている人もいるでしょう。
そういう人は、かつての物語で細工職人だったかも知れません。
ムーンライト・ソナタのアルペジオの次に来る付点音符のタッチの味がどうしても気にかかる人は、かつての物語で表現技法を研究したピアニストだったかも知れません。
なぜか赤橙の布をまとったスキンヘッドの中年男のイメージがいつも出てくる人は、かつての物語で修行に打ち込んだラマ僧だったかも知れません。
でも、人は勘違いもするのです。
人は、全き自己を完成し、明知を得、解脱し、涅槃に究境するなら、二度と物語には戻りません。
そういう人は、再び母体に宿る事をしません。
ですから、わたしは仏陀の生まれ変わりだ・・・とか、
わたしこそは弥勒として救済のために生まれてきた、
そのような意味不明な事を言うのであれば、
それは、あり得ない自己倒錯です。 妄想、迷妄の極みです。
そこそこの組織団体には有りがちです。
仏陀も、キリストも、あなたも、わたしも、人間です。
悟り、完成された人は、二度と自我意識に世界を展開することは無いでしょう。
あなたもわたしも、いずれそうなります。
どこにも特別な人などいません。
特別な人になる必要もありません。
みんな同じそれぞれの個性をもって存在する、あの唯一の断片、要素、エレメントです。
やがてだれもが、そこに、ニルヴァーナに帰ります。
浄土に帰ります。神の国に帰ります。源泉に帰り、同化します。
ただの物語という、この夢から、覚めるのです。
2012-03-18
【読者MK】
花岡様
また、えらく前のブログのコメントですいません。
僕もなんか、カルマの因果応報的考えは、単純過ぎるというか、あんまり好きではありません。
すべては御心という考えが好きです。
まぁ、そう思わないとやってられないといいますか。
でも、時々、やはり疑問に思う事があります。
例えば戦争映画とか観ている時、
幼い子供が死んでいくシーンですとか観ると
何でこの子どもは生まれて来たのだろう。
カルマ返済のためだろうか?
そう思わないでもありません。
それともそこにも学びがあるのでしょうか?
また、えらく前のブログのコメントですいません。
僕もなんか、カルマの因果応報的考えは、単純過ぎるというか、あんまり好きではありません。
すべては御心という考えが好きです。
まぁ、そう思わないとやってられないといいますか。
でも、時々、やはり疑問に思う事があります。
例えば戦争映画とか観ている時、
幼い子供が死んでいくシーンですとか観ると
何でこの子どもは生まれて来たのだろう。
カルマ返済のためだろうか?
そう思わないでもありません。
それともそこにも学びがあるのでしょうか?
【花岡】 Re: タイトルなし
MKさん、おひさしぶりです。
まず、自分に関わらない事であろうが、関わりのある事だろうが、起こる事は起こる事になっているから起こるのであって、起こる事のない事は起こらないという事実です。
また、起こる事は何であれ、自分か、あるいは他の誰かにとって、あるいは他の現象にとって、何かしらの意味があるのです。
何かひとつの現象やアクションは、他のあらゆる事、ものに、影響を及ぼしながら、またそのような現象やアクションが膨大な数起こりながら、全体に、宇宙の果てまで及んで、しかも、完全に整合のとれた世界を展開して行きます。
そのような作用の網を、インドラの網と言う人もおります。
現象をクローズアップして意味を考えるとき、幼い子供自身にとっての意味、その親、親類、友達、関わる人々が受ける意味、それが社会に及ぼす意味、その影響が成就されていきます。
世界を展開するために、起こるはずの事が成就されていきます。
幼い一人の子の死が、実に大きく広く影響し、いろんな人の心に何かを投げかけます。
起こる事が起こり、幼子はその役目を果たし、その影響が成就されます。
全ては「みこころ」により、必要な人に必要な起こる事が起こっているだけです。
それから受け取る影響によって、我々は学んで行くのです。子供が大人に成長していくように。
もしも、そのような悲惨な事も、喜びに満ちた出来事も、何も無いなら、当事者にも周囲の人にも、何とのっぺらぼうな世界でしょうか。
そうである世界には、意味がなく、学びもなく、存在しなければならない必然もありません。
起こる事が起こって行き、みこころが成就され、我々は学び取って行く。
だれもがその中の一連の、何かの役目を担っているのです。
その幼い子供のように。
それはカルマのせいでもなく、原罪のせいでもなく、ただ、みこころであり、既に交わされた約束事です。
わたしは、そのように理解しています。
まず、自分に関わらない事であろうが、関わりのある事だろうが、起こる事は起こる事になっているから起こるのであって、起こる事のない事は起こらないという事実です。
また、起こる事は何であれ、自分か、あるいは他の誰かにとって、あるいは他の現象にとって、何かしらの意味があるのです。
何かひとつの現象やアクションは、他のあらゆる事、ものに、影響を及ぼしながら、またそのような現象やアクションが膨大な数起こりながら、全体に、宇宙の果てまで及んで、しかも、完全に整合のとれた世界を展開して行きます。
そのような作用の網を、インドラの網と言う人もおります。
現象をクローズアップして意味を考えるとき、幼い子供自身にとっての意味、その親、親類、友達、関わる人々が受ける意味、それが社会に及ぼす意味、その影響が成就されていきます。
世界を展開するために、起こるはずの事が成就されていきます。
幼い一人の子の死が、実に大きく広く影響し、いろんな人の心に何かを投げかけます。
起こる事が起こり、幼子はその役目を果たし、その影響が成就されます。
全ては「みこころ」により、必要な人に必要な起こる事が起こっているだけです。
それから受け取る影響によって、我々は学んで行くのです。子供が大人に成長していくように。
もしも、そのような悲惨な事も、喜びに満ちた出来事も、何も無いなら、当事者にも周囲の人にも、何とのっぺらぼうな世界でしょうか。
そうである世界には、意味がなく、学びもなく、存在しなければならない必然もありません。
起こる事が起こって行き、みこころが成就され、我々は学び取って行く。
だれもがその中の一連の、何かの役目を担っているのです。
その幼い子供のように。
それはカルマのせいでもなく、原罪のせいでもなく、ただ、みこころであり、既に交わされた約束事です。
わたしは、そのように理解しています。
【読者MK】
花岡様
コメント感動しました。あと、一回しかコメントしてないのに覚えてくださっていたことも嬉しいです。
ここ2年くらい奇跡的と言っていいくらいツイていなくて、回りの皆から憑いてるね、なんて言われる始末です(笑)
ホントに何かの力が働いているとしか思えないくらい悪い現象が起こります。
なぜ、それが起こったのか、そこから神様は何を学ばせたいのか、いつも自分に問いかけるのですが、明確な答えが出ません。
これはやっはりカルマなのかと不安だったため、なんだかホッとした気分です。
ありがとうございました。
コメント感動しました。あと、一回しかコメントしてないのに覚えてくださっていたことも嬉しいです。
ここ2年くらい奇跡的と言っていいくらいツイていなくて、回りの皆から憑いてるね、なんて言われる始末です(笑)
ホントに何かの力が働いているとしか思えないくらい悪い現象が起こります。
なぜ、それが起こったのか、そこから神様は何を学ばせたいのか、いつも自分に問いかけるのですが、明確な答えが出ません。
これはやっはりカルマなのかと不安だったため、なんだかホッとした気分です。
ありがとうございました。
【読者MK】
花岡様
クドいようですが、もうひとつ質問させて頂いてもよろしいでしょうか?
前々から疑問で何人かの方に質問してみたのですが、今まで完全に納得のいく答えは得られませんでした。
自分はリアルさんのブログで紹介されている和平先生の教えが好きで、ブログの他、定期購入CDで学んでいます。
和平先生とは実際お会いしたことがなく、電話セッションとメール1回だけのやり取りですが。
和平先生は「すべて御心」というスタイルの教えです。
ブログを拝見する限り、花岡様もそういう結論に至ったような気がします。
それと和平先生は「自由意志はない」とも言っていませんが。
別に和平先生は、それについて信じる必要はない、と言っていますが、自分もそう思っています。そう思った方が人生が生きやすくなるから思っているだけですが。
自分の経験でないのでなんのリアリティーもありませんが。
ところで4年くらい前に話題になったホ、オポノポノ、ヒューレン博士の教えによれば、全ての起こる現象の原因は100%潜在意識の再生に過ぎず、人生の責任も100%自分にあると言っています。
自分的には100%潜在意識の再生とは思っていません。やはり恩寵のような力も存在すると思うので。
しかし、ヒユーレン博士がハワイの精神病院を自分の潜在意識をクリーニングすることで病院を閉鎖させてしまったという実績を考えると、潜在意識が人生を創るという考えも否定できません。
ヒューレン博士によれば、潜在意識は顕在意識の1100万倍の情報量があり、起こった原因を理解するのは不可能だと述べています。
そうでなくは起こったことをクリーニングすることに意味があるそうです。
自分がなぜ、この事にこだわるのかというと、人生は御心によって運ばれているのか、それとも、自分が創造しているのか、よく解らないということです。
全てが御心ならば、人生には愛があり学びも成長も得られますが、潜在意識の再生となると、ちょっと違うぞと思えてきます。
これについて花岡様の見解を聞かせて頂きただければ幸いです。
クドいようですが、もうひとつ質問させて頂いてもよろしいでしょうか?
前々から疑問で何人かの方に質問してみたのですが、今まで完全に納得のいく答えは得られませんでした。
自分はリアルさんのブログで紹介されている和平先生の教えが好きで、ブログの他、定期購入CDで学んでいます。
和平先生とは実際お会いしたことがなく、電話セッションとメール1回だけのやり取りですが。
和平先生は「すべて御心」というスタイルの教えです。
ブログを拝見する限り、花岡様もそういう結論に至ったような気がします。
それと和平先生は「自由意志はない」とも言っていませんが。
別に和平先生は、それについて信じる必要はない、と言っていますが、自分もそう思っています。そう思った方が人生が生きやすくなるから思っているだけですが。
自分の経験でないのでなんのリアリティーもありませんが。
ところで4年くらい前に話題になったホ、オポノポノ、ヒューレン博士の教えによれば、全ての起こる現象の原因は100%潜在意識の再生に過ぎず、人生の責任も100%自分にあると言っています。
自分的には100%潜在意識の再生とは思っていません。やはり恩寵のような力も存在すると思うので。
しかし、ヒユーレン博士がハワイの精神病院を自分の潜在意識をクリーニングすることで病院を閉鎖させてしまったという実績を考えると、潜在意識が人生を創るという考えも否定できません。
ヒューレン博士によれば、潜在意識は顕在意識の1100万倍の情報量があり、起こった原因を理解するのは不可能だと述べています。
そうでなくは起こったことをクリーニングすることに意味があるそうです。
自分がなぜ、この事にこだわるのかというと、人生は御心によって運ばれているのか、それとも、自分が創造しているのか、よく解らないということです。
全てが御心ならば、人生には愛があり学びも成長も得られますが、潜在意識の再生となると、ちょっと違うぞと思えてきます。
これについて花岡様の見解を聞かせて頂きただければ幸いです。
【花岡】 Re: タイトルなし(MKさん)
潜在意識を、何を指して言っているのかによって答え方も変わります。
自我意識の不顕性な部分を言うのか、それとも真我の有する深遠な作用を言うのかで、意味も大きさも異なります。
彼の論文を拝見したことが無いので、明確なお答えはできません。
人生に対する自分の責任については、他人の責任にはできないというだけで、正しいとも誤りとも言えません。
それは、ただ受け入れる対象でしかありません。
起こった原因を理解するのは、もちろん不可能です。
その前に、原因を追究する事に、何の意味もありません。
「今」はもう、終わった事は消えていますから。
「今」を放っておいて過去の記憶をまさぐる事に、なんの意味がありましょうか。
原因を理解せずとも、起こった意味は、すぐ現れ来ます。
そのために起こる事が起こるのですから。
次に、自由意思についてです。
自由意思は、「わたし」の立場で言われる事です。
そのように感覚するようにできているというだけの事です。
そうであるから、事実、「わたし」の自由意思はあるのです。
しかしながら、過去を振り返り、現在までの流れを見てください。
それらは「自由意思」で選択してきたと言えるでしょうか?
過去の苦しみも、悲しみも、自由意思による選択だったのでしょうか?
それともそれは、選択の誤りだったのでしょうか?
偶然とか、確率とか、我々は言葉にします。
しかし、現象が現れたという、はっきりとした事実があるならば、それらはただ妄想です。
未来を妄想して、雨が降る確率10%・・・などとは言えます。
しかし、実際、降るか降らないかしかなく、降ったという現実の今に於いては、それは100%を示しているのです。
つまり、そうなるのだという事です。
そうなる事がそうなった・・・そういう事です。
自分の行動にあてはめて考えると、意思、思考、感情が、行動を左右するともとれます。
その条件によって、行動を決定しているように思えます。
しかし、誰もが自由意思で行動するのであれば、世界は整合がとれないのではないでしょうか。
命がいくつあっても足りません。
それは瞬間にカオス世界となるでしょう。
自分の意志で選択していると思い為しながら、そのように選択させられる力に我々は気づきません。
そのような流れの力があるのです。
そうする事に意味が現れていきます。
そうして結果的に、流れは間違っていなかったと後で知るのです。
あるいは、今は間違っていたと後悔しているにしても、後にそれを覆す意味が現れるのです。
その流れ、その意味を、「みこころ」と言うのです。
流れに運ばれて行きながら、意味が成就されて行くのです。
では、ほんとうにちっちゃな、どうでもいい行動については、それは自由意志ではないのか?と思うでしょう。
ちょっとタバコを一服・・・これも、大意に組み込まれた小さなエッセンスです。
小さな行動には小さな意味があり、その小さな意味が大きな大意を組み上げているという事です。
欠けてはいけないのです。
タバコを止めよう・・・これもそうです。
結局自由意思は、自由意思と思わされ、そのように思う事で流れが成就して行くという事です。
そうだから、「わたし」の立場では自由意思はあると言えるのです。
みこころが「わたし」に作用して、そのように思うのであり、思うから成り立つという事です。
そうでありながら、立場を「わたし」から離れて、神も含めて考えるなら、それはそのようにさせられていると言えます。
しかしながら、自由意思についてあれこれ思い為す事よりも、体験そのものに意味があるのだと思うのです。
自分の意志で行動しているかどうかより、体験で何を知り、学ぶかという事です。
それでも、自由意思について「気になる」でしょうから、それについて後ほど記事を書いてみます。
自我意識の不顕性な部分を言うのか、それとも真我の有する深遠な作用を言うのかで、意味も大きさも異なります。
彼の論文を拝見したことが無いので、明確なお答えはできません。
人生に対する自分の責任については、他人の責任にはできないというだけで、正しいとも誤りとも言えません。
それは、ただ受け入れる対象でしかありません。
起こった原因を理解するのは、もちろん不可能です。
その前に、原因を追究する事に、何の意味もありません。
「今」はもう、終わった事は消えていますから。
「今」を放っておいて過去の記憶をまさぐる事に、なんの意味がありましょうか。
原因を理解せずとも、起こった意味は、すぐ現れ来ます。
そのために起こる事が起こるのですから。
次に、自由意思についてです。
自由意思は、「わたし」の立場で言われる事です。
そのように感覚するようにできているというだけの事です。
そうであるから、事実、「わたし」の自由意思はあるのです。
しかしながら、過去を振り返り、現在までの流れを見てください。
それらは「自由意思」で選択してきたと言えるでしょうか?
過去の苦しみも、悲しみも、自由意思による選択だったのでしょうか?
それともそれは、選択の誤りだったのでしょうか?
偶然とか、確率とか、我々は言葉にします。
しかし、現象が現れたという、はっきりとした事実があるならば、それらはただ妄想です。
未来を妄想して、雨が降る確率10%・・・などとは言えます。
しかし、実際、降るか降らないかしかなく、降ったという現実の今に於いては、それは100%を示しているのです。
つまり、そうなるのだという事です。
そうなる事がそうなった・・・そういう事です。
自分の行動にあてはめて考えると、意思、思考、感情が、行動を左右するともとれます。
その条件によって、行動を決定しているように思えます。
しかし、誰もが自由意思で行動するのであれば、世界は整合がとれないのではないでしょうか。
命がいくつあっても足りません。
それは瞬間にカオス世界となるでしょう。
自分の意志で選択していると思い為しながら、そのように選択させられる力に我々は気づきません。
そのような流れの力があるのです。
そうする事に意味が現れていきます。
そうして結果的に、流れは間違っていなかったと後で知るのです。
あるいは、今は間違っていたと後悔しているにしても、後にそれを覆す意味が現れるのです。
その流れ、その意味を、「みこころ」と言うのです。
流れに運ばれて行きながら、意味が成就されて行くのです。
では、ほんとうにちっちゃな、どうでもいい行動については、それは自由意志ではないのか?と思うでしょう。
ちょっとタバコを一服・・・これも、大意に組み込まれた小さなエッセンスです。
小さな行動には小さな意味があり、その小さな意味が大きな大意を組み上げているという事です。
欠けてはいけないのです。
タバコを止めよう・・・これもそうです。
結局自由意思は、自由意思と思わされ、そのように思う事で流れが成就して行くという事です。
そうだから、「わたし」の立場では自由意思はあると言えるのです。
みこころが「わたし」に作用して、そのように思うのであり、思うから成り立つという事です。
そうでありながら、立場を「わたし」から離れて、神も含めて考えるなら、それはそのようにさせられていると言えます。
しかしながら、自由意思についてあれこれ思い為す事よりも、体験そのものに意味があるのだと思うのです。
自分の意志で行動しているかどうかより、体験で何を知り、学ぶかという事です。
それでも、自由意思について「気になる」でしょうから、それについて後ほど記事を書いてみます。
コメントありがとうございました。
和平先生について。
純粋な人であり、思い遣りに満ちた人であり、直接的な伝授のほうが論文によるそれよりも長けた人だと思います。
素で向き合ってくる人だと思います。
このような先生に指導を受ける人は、幸せな事だと思います。
彼の言う事に、間違いを見出すのは、とても難しい事です。
それに、第一、楽しい人です。
和平先生について。
純粋な人であり、思い遣りに満ちた人であり、直接的な伝授のほうが論文によるそれよりも長けた人だと思います。
素で向き合ってくる人だと思います。
このような先生に指導を受ける人は、幸せな事だと思います。
彼の言う事に、間違いを見出すのは、とても難しい事です。
それに、第一、楽しい人です。
(注)赤字は、私がマークした。この議論の後に書かれた記事が、「自由意思はあると思っていい、しかし」(2019-04-23掲載)になるのだろう。(ブログ管理人より)
【読者MK】
花岡様
和平先生の教え、良いですよね。講話CDを漫談変わりに聴いています。
ただ、今まで和平先生の教えの中でどうしても納得出来なかった部分が、コメントを読んでいて突然分かってしまいました。
今までのモヤモヤが解けてしまいました。
花岡様の言うとおり
「起こった原因を理解するのは不可能です」
これが一番引っ掛かっていた問題でした。
ここで理解できたことを詳しく語ることはしませんが、
ありがとうございました。
和平先生の教え、良いですよね。講話CDを漫談変わりに聴いています。
ただ、今まで和平先生の教えの中でどうしても納得出来なかった部分が、コメントを読んでいて突然分かってしまいました。
今までのモヤモヤが解けてしまいました。
花岡様の言うとおり
「起こった原因を理解するのは不可能です」
これが一番引っ掛かっていた問題でした。
ここで理解できたことを詳しく語ることはしませんが、
ありがとうございました。