わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

断定する者から目撃する者への移行 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。読者のコメントも付け加えておきました。

 

断定する者から目撃する者への移行

 

人生は苦悩で満ちています。
といっても、苦悩というものがあるわけではありません。

人は快楽を求めるものです。
といっても、快楽というものがあるわけではありません。

それはただ、自分に都合がよいかどうかで、その人が意味づけているだけです。

その人の意味づけで、周囲に、あるいは起こる事に価値を断定しているのです。

ある人にとっては、別の人の苦悩が、なぜ苦悩なのかわからないことすらあって、
ある人にとっては、別の人が欲しがるものが、なんの値打もなく思えます。

ただその人にとっては苦悩であり、別の人にとってはただ何でもないものです。
ただその人にとっては執着してしまうもので、別の人にとってはバカげた事だったりします。

そうであるなら、明確な苦悩も、快楽も、ありはしません。
すべては自分で創りだしているのです。
常に自分で書き換えていく、自分の物語です。

子のある者は、子の故に苦しむ。
しかし、求めてなお子を授からなかった者にとっては、その苦しみさえ味わう事のない愛おしさなのです。

立場によって意味づけは全く異なっています。
しかし、立場というものもありません。

全ては自ら、そのような状態に「わたし」を置いてるのです。

「わたし」という主人公は、その物語に忠実です。
「わたし」は本当は無いんだという事は、絶対受け入れがたいのです。
それは、恐ろしい言い掛かりなのです。
「わたし」という実行者は、「わたし」があっての「わたし」なのだと主張せずにはおれません。

人はいつ如何なる時、「わたし」が消滅してしまうか、わからないという事実を知っています。
すなわち、この苦悩も、この快楽も、意味づけも、死という瞬間が、全てさらって行く事を知っています。
それは来年かもしれない。明日かも知れない。今日コンビニに行く途中かも知れない。
いずれにしても、無くなってしまうものである事を知っていながら、「わたし」を主張します。

無くなるものは、最初から、無かったのです。
行為者は、いないのです。
起こる現象も、意味づけた苦悩も、快楽も、ありはしません。
ただ、目撃者だけが存在します。

それを目撃している者が在ります。
自我の意識の中で、起こる事に捉われ、翻弄されながら、ああだこうだと意味づけしている「わたし」は、それに気づく事はありません。

それでは、「わたし」がこのように行為し、意味づけしているこの現実には、なんの意味もなく無駄な事なのか?
といえば、そうではありません。
そもそも、意味づけしているわけですから。

その意味づけは、自分で意味づけしていながら、結局は、ある方向を向いているのです。
そもそも苦悩に意味が無いのであれば、そのようなものは無くてもいいわけです。
執着に意味が無いのであれば、最初から無くてもいいのです。
意味があるから現れます。

しかし、部分部分に意味を見ようとするから見えません。
部分部分は、ただの断片にすぎないのです。

真実の意味は、後から結果的に意味があったのだと知れるのです。
つまり、とある意味に従って、意味の断片たちが置かれていくのです。

そうであるなら、その断片たちは経験されなければいけません。
経験されていって、最初からあった結果として知られる意味、すなわち、完成に至るのです。

その時、「わたし」は目撃者そのものであった事を知るのです。
また、目撃者とは、愛そのものである事を知るのです。
それは、愛として在るのです。
そして、「わたし」と言う者も、まったく愛であった事を悟るのです。

愛が愛を目撃する事で、愛をリフレッシュする永遠の活動があるのかも知れません。
地球の内部で、灼熱のマグマがコアから表面、表面からコアへと対流して活動しているようなものです。

ほんとうに在る「唯一」とは、愛、あるいは、輝き続ける愛なのだと知らされました。
それはエネルギッシュな活動であり、最初も無く、終わりも無く、永遠であって、それ以外は無いのだと知らされました。

ほんとうは何も無い世界であるにも関わらず、「わたし」が錯覚を体験し、愛を知る活動の中に在ります。
それだから、修行はしなくても、しているのです。
生まれて、生きて、体験する全てが、それがそのまま悟りへの体験なのです。
あえて瞑想とかしなくても、日常を生きる事で、どうしても愛が運んでしまいます。

だから最初から許されていると言うのです。
いつだって真我から離れていないと言うのです。

断片を見るから苦であり、哀であり、断片にあるから怒りも、恨みも現れます。
断片だけを見て、偏るからです。
「わたし」の思考が決めつけるから偏るのです。

「わたし」を目撃している者に次元移行してください。
行為(doing)から、在る(being)にシフトするのです。

目撃者の側にあって、そこを忘れる事のないようにそこに在って、起こることを目撃するのです。
目撃者の側にあって、湧き起る思考を目撃しているのです。
思考が断片に決めつけをしているのを目撃するのです。
そのようにして、日常を生きてみるのです。

やるべき事は無いのだと知れても、運ばれるならやるのです。
やるべきでない事は無いのだと知れても、運ばれるならやらないのです。
あるがまま運ばれて、あるがままを目撃しているのです。

自分で意味づける生き方から、意味づけを目撃者にまかせる生き方に変えるのです。
それにまかせ、それに従っていればいいのです。
楽でしょう?
ほんとうに楽なんです。

これはかつては、苦脳というものだった・・・というものが、楽に変わっているのです。
それであれば、苦さえ楽しんで目撃できます。

苦しみから、もう脱却するのです。
真剣に苦しんだのだから、もういいのです。
もう任せてもいいのです。
そういう人は、もう任せてもいいのです。

そういう人でない人は?
それは任せてはいけない人です。
というよりも、任せるという縁にさえ触れることは無いでしょう。

真摯に生きていない人です。
悪ふざけで生きている人です。
彼らにとっては、密教であるべきなのです。

それでも、それも、彼らにとっての「わたしの物語」です。
その役を生きているのです。
いずれ、任せてもいい人になってしまうのです。
何も、どんな事も、間違っていません。
過程の中には、そういう時期があるのです。
 
2012-06-02

 

【読者T】 目撃者

花岡さん、みなさんこんにちは。 

私たちは、どんな事も、判断し、意味付けしてしまいますね。 

そうしないと気が済まないのか、ほとんど自動的に。 

見られる者としてのわたしは、思考に思考を重ねてやがては無限ループにはまって行きます。 

抵抗したり、起こった事を何とかしなければならないと思うから苦しみが生まれてしまいます。 

今起きてる現象は幻想で、起きてはいない事なのに、リアルな事だと錯覚してしまうんですよね。 

起きてる事はあるがまま受け入れ、(目撃者として)あとの事は任せてしまえば流れて行きます。 

やりっぱなしになる事も、見放される事も、無視される事も絶対ありません。 

常に愛され、常に護られ、常に世話をしてくれると信じられれば、がっちり掴んでる両手を離す事が出来ると思います。 

私たちは、誰一人源泉から離れた事など一度もないんですよね。 

こんな心強い相棒はいませんね。 

【読者A】 「『わたし』は無い」ということ

>「わたし」は本当は無いんだという事は、絶対受け入れがたいのです。 
>それは、恐ろしい言い掛かりなのです。 
>「わたし」という実行者は、「わたし」があっての「わたし」なのだと主張せずにはおれません。 

>人はいつ如何なる時、「わたし」が消滅してしまうか、わからないという事実を知っています。 
>すなわち、この苦悩も、この快楽も、意味づけも、死という瞬間が、全てさらって行く事を知っています。 
>それは来年かもしれない。明日かも知れない。今日コンビニに行く途中かも知れない。 
>いずれにしても、無くなってしまうものである事を知っていながら、「わたし」を主張します。 

今読んでいたのですが、慣れっこになってしまうと、 
ついつい読み過ごしてしまいそうになるので、コメント書かせて頂きます。 

「『わたし』は無い」ということを本当に理解していれば、苦しみはないはず。 
「『わたし』は無い」のならば、この目の痛みも、心の迷いも苦しみも疲れもないはず。 

本当に、無くなってしまうというその事実を知っているのか?と言われると、 
「そうなのかもしれないな~」とは思うけど微妙です。