わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

体験したいからというより、必要な事が与えられるのです【完全版】 花岡修平「真我が目覚める時」

◎この記事は、「必要なことが与えられるのです」(2015-11-01掲載)の完全版になる。コメント欄での質問者と他の読者たちとのやりとりが非常に密度が濃く興味深い。一般読者は青字、質問者は緑字にしておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

体験したいからというより、必要な事が与えられるのです

 

Eさんからの質問です。


実は私には逃げ癖があり、しんどいことから逃げていることが多いと最近になって気づきました。
嫌なことから逃げ、困ったから逆転のために恩寵、悟りが欲しかった。
これまでにいろいろなことから逃げ回っているうちに人生、追い込まれてしまいました。
生まれて初めての意識にのぼる苦悩が、もうやり直しのきかない自分の人生に気づいたことでした。
なので最近まで過去を振り返り後悔ばかりしていました。
初めて後悔というものを知った感覚です。
後悔は止まりましたが、今は未来が不安で不安で気力まで弱ってる感じです。
この私の経験もやはり、ただ体験したいために起こったことなのですか?


ほとんどの人が、過去の罪や、惨めな自分の記憶、失敗や汚点の故に、あるいは今苦悩に陥っていて、この人生を最初からやり直したい、せめてあの時点からでもやり直せたら、と思っているのかも知れません。

例えば、働きもせず家で酒浸りの夫に、「なんでこんなのと一緒に生活してるんだろう、昔好きだった彼と結ばれていたらこんな事には」、と泣いて暮らしている奥さんもいるかも知れません。

ある事で大恥をかいて、そこから人生が転落して、世の中を恨む人になったという人がいるかも知れません。

自分は失敗した。

そのように、思うのです。

しかし、起こってしまった事は、もう終わっていて後戻りはできないし、起こってしまった事は、起こるはずの事であるから回避できないのです。

どんな有名な占い師や霊能者が未来を予測できたとして、起こるはずのとおりに起こって行きます。
また、その回避法を伝授されたとして、そのとおりに回避法を使ったのであれば、回避法を教えられ、それを信じてそのとおりに行動するという事が起こるはずの事であり、結局当初の未来予測ははずれた、という事になるのです。

つまり、未来予測が的中するためには、教えられた回避法は使われるはずのものでは無く、それを使う事無く予測の通りに起こる事が起こらなければなりません。

つまり、未来予測は的中しようがしまいが、起こるはずの事が起こって行くだけであり、未来予測そのものが無意味であるという事です。

さて、起こった事は事実、起こって欲しくない事だったかもしれません。
しかし事実は表面的な現象に過ぎません。
それが起こるべく起こったという不可避な意味、つまり現実と並走する真実がそこにあるのです。

不可避な意味である真実があるから、起こるべくして起こる現実が現れるのです。

その真実を知らぬが故に、人は現実に苦悩するのではないでしょうか。

つまり、どのような事にも、それなりの意味がある、という事です。

それがわからないから、自分の都合で意味づけた理想と合致しないために苦悩するのです。
自分の価値観、尺度、それも本当にわかる事無く成長過程で誰かから押し付けられ、刷り込まれ、信じたその価値観、尺度の為に、表面的現実に苦悩するのです。

しかし更に、その苦悩そのものにも大きな意味があるのです。
つまりそのように価値観を刷り込まれる事にすら意味があるのです。

苦悩があるから、それから救われたいという思いが現れます。
苦悩の無い者に、救われるべき何かがある訳ではありません。

苦悩があるから、真実、真理を知りたいという衝動が現れます。
苦悩の無い者に、真実は意味を持たず、どうでもいい事です。

しかし同時に、苦悩はそれ自体からの逃避に走らせます。

逃避は楽への執着であり、苦悩の否定であり、逃避そのものが苦悩を維持する動力となります。
楽になりたい、楽になりたい、と思い続けるから、苦悩を際立たせ、苦悩から逃れられず、いつまでも苦悩し続ける。

なぜ苦悩するのだろう・・・その問題提起に、向き合うか向き合わないか、直視するか逃げるか。
その選択が苦悩それ自体の意味、真実の成就に至るかどうかの分岐となるでしょう。

人を悟りに導くのは、苦悩です。
そうでなければ、苦悩も悟りも必要ないのです。

逃避する事無く、真実を知るために苦悩に向き合う。
起こる事、起こった事の、真実の意味を知るために、それと向き合う。

そのとき、その苦悩は自分が勝手な都合で意味づけた、価値観、尺度による理想と矛盾していただけなのではないだろうかと気づくのです。

そして、そのような苦悩があったからこそ、真実、真理を知りたい、悟りたいという衝動が起こったのだと言う事に気づくのです。

Eさんの言うような、逆転の為の恩寵、悟り、そのようなものはありません。
未来に不安を想うのは、過去の苦しみを今も抱き続けているからです。

全て起こるはずの事が起こっていたのであり、それは必要だから与えられた事であり、主人公の物語には無くてはならない重要な出来事なのです。

自分の都合、価値観、それがそれらを受け入れられなかったから、葛藤が起こっていただけなのです。
そのエゴの故に、起こる事、起こった事と戦い続けていたのです。

自分の為に、神が、与えてくださいました。

そのようには理解できないでしょうか。

自分に必要な体験、出来事が与えられたのだと、受け入れられるなら、もはや苦悩は消え去ります。
それは戦いを放棄するという事です。

受け入れる事が放棄する事です。
放棄するから、あるがままなのです。

そうであるなら、神の尊い意思が、みこころがわかるはずです。

現れる現象も、自分の「わたし」というエゴも、それはホログラムでしかありません。
全ては、真実の自分、その実体から現れ来る幻です。

人生という物語は、楽しみを楽しむ、苦悩を楽しむ、悲愴を楽しむ、そのようなとても面白いものではないでしょうか。

わかったなら、もう未来に不安を抱く事はありません。
恐怖する何もありません。

全て与えられる事が与えられているに過ぎません。

全て自分の中で、真実の自分が現しているに過ぎません。

それらは無いのに、現れるのです。

しかも、必要だから与えられたのです。

有難く、受け入れるのです。

未来はどうだって、与えられるはずの事が与えられるだけです。

あるがまま、受け入れるなら、それはもう、苦ではありません。
むしろ、楽しみでさえあります。

なぜなら、その究極には、神の中に住む、その事が在るだけなのですから。
神の中に帰る、その事が在るだけなのですから。

 

2014--02-04

 

 

[読者HN]

花岡さんこんばんは。初めまして。HNと申します。 
いつも読ませて頂いております。 
このブログに出会わせて頂いた事に大変感謝しております。ありがとうございます。 
私も、神へ全てを明け渡したいと思っています。 
何も求めず、期待せず、ただあるがままを受け入れ、自分の道を感謝して歩く事の大切さを感じています。 
それでも思考に振り回されていることが多いのですが、 
時折なんとなく自分の胸からとても柔らかい光を感じ、大きくなっていってる様な気もします。それが何なのかはっきり分かりませんが、身を委ねていきたいとも思いました。 
突然のコメントですみません。 
今後とも宜しくお願い致します。 

[読者HR]

花岡さんはじめまして。ブログの更新いつもありがとうございます。ひっそりと読ませて頂き心の支えにさせてもらっていましたが、Eさんのおっしゃる苦悩が伝わって来て、何か書かずにはいられない、という気持ちです。Eさん読んで下さっているでしょうか。 

Eさん、私も同じです。状況はそれぞれでしょうが、あの時逃げていなければ、今はこうではないかもしれない、そう思うことがあります。考え出すと、寂しさで自分がはかなくなって消えてしまいそうです。 

同時に、これは自分が清まってゆく感覚なのかもしれないと思います。後悔したり、とてつもない寂しさと不安を感じている時、表面的な思い―見栄を張ったり、いい暮らしをしたいと思う―、そういうものがどうでもよくなって来ます。 

Eさんのおっしゃるような意味では、私ももう取り返しがつかないかもしれない。だけど、今から出来ることもあると思っています。 

今はただただ人に優しくしたいし素直に生きたい。ありのままの自分を神様に差し出して、この世で少しでもお役に立てることがあるなら文句を言わずに黙々とそれをこなしてみたい。そうやってこの先は生きていきたい。 

Eさんのことお祈りしていますね。大丈夫大丈夫。与えられた今の状況の中で、結果を思わずにご自分に出来ることをやっていかれたらいいと思います。私もそうします。 
 

[読者HK] 仲間ですよ

ブログ、あるときはすがる思いで、あるときは楽しみに読ませてもらっています。 
私は自分のエゴイストな部分に正直なるという事がとても勇気のいることでした。 
自分にとって辛いことがこれでもか、というぐらい起こって(起こして)やっと、無抵抗にさせられ、あるがままを受け入れさせられている感じです。 
そのときに初めて、今までの苦しみが楽になるために起こったんだと受け入れられました。 
これからはケセラセラ~♡でいきたいです。
 

[質問者E] こんばんは

花岡さん、私の質問を取り上げて下さりありがとうございます。 

花岡さんが体験した苦悩や、他の人の苦悩を考えると私の場合、自業自得な部分があまりにも多くそれを苦悩と呼ぶこと自体に恥ずかしい感覚がありました。 
でも、ご回答をいただけたことにより、それを苦悩と位置づけても別に構わないものだと、少し気が楽になりました。 

未来予測の話がありましたが、今、不安や理想についても同様に意味のないことだと理解しようとしています。 

不安や理想としないことがそのとおりになる、ならないにかかわらず、起こることは起こり、自分の価値観などにより、それに苦悩したり、安心してしまうという理解でもいいのでしょうか。 
もしそうだとしたら、苦悩すること自体がばからしいことになりますね。 
実際にそのような苦悩の時、そう思えるといいなと思いました。 

でも同時に安心な感覚もあまり素直に受け取らないほうがいいのか、そっちのほうでは少し戸惑いそうです。 
このあたりはもう少し、自分なりに経験を通じて理解を深めていこうと思いました。 


「自分のために、神が与えてくださいました」 

このように思えることができたらなんて素晴らしいことだろう、と思いました。 
このような苦しい出来事は、すべて自分の偏った価値観などに気が付くように与えてくださっていることなのでしょうか。 
それを取り除くことが真実に触れることにつながるのでしょうか。 
もしそうだとしたら、これから苦悩に対して前向き?に生きていけるような気がしてうれしいです。 

たくさんの有り難いお言葉をいただき、うれしかったです。 
まだまだ体験として理解できていないことも多いですが、これからは知ったことと、体験できることのすり合わせをしていこうと思っています。 
今後、よい報告ができるようにあきらめずに受け入れ、戦いを放棄していこうと思います。 


[質問者E] はじめまして、HRさん

こんばんは、Eです。 

花岡さんに質問してからは、自分のことがあまりにもみじめで情けなくて、なかなかこちらのサイトをのぞく気にはなれませんでした。 

HRさんも私と同じようなお気持ちを体験されたようで、その寂しさが何とも言えず・・でもよく伝わってきました。 

でも、それを清まっていく感覚と表現されているところが私には欠けている発想で、私はただ、ただ悲しみに打ちひしがれていることしか出来ませんでした。 
また、私もそのような使い方ができるようになりたいと思いました。 

HRさんのおっしゃる、今からできること、このように生きていきたいという希望が、とてもまばゆく温かみを感じさせてくれました。 

結果を思わずに自分のできること、ですね。 
いつも心に留めておこうと思います。 
HRさんのお祈りのおかげでまたこのサイトをのぞくことが出来たような気がしています。 
あきらめずに生きていこうと思います。 

私もほうからも、HRさんご自身が思っている生き方が実現するように祈っています。 

暖かいメッセージに感謝、感謝です。
 
 

[質問者E] はじめまして、HKさん

こんばんは、花岡さんに今回、質問を取り上げてもらったEです。 

お辛いことがこれでもか、というくらいに起こって、あるがままを受け入れられたのですね。 

私はまだ、受け入れ初心者なので分かりやすい表現がありがたかったです。 

私も早くそのようになれるように心掛け、受け入れていきたいと思いました。
 
 

[読者HR]

Eさん、見て下さっていてよかったです。 
Eさんも私のために祈って下さるとのこと、 
ありがとうございます。。。☆ 
 
 

[質問者E]

こんにちは。 

先日、質問を取り上げていただきましたEです。 

あれからもいろいろと思いを巡らせていたのですが、やっと、後悔と未来の不安の原因?みたいなものが自分の中でつながり、花岡さんの仰る「必要なことだから与えられた」という理解につながりそうなところまでやってきました。 

自分のやってきたことは特に間違っていなかったと思うし、これからも物語の続きをやっていくことに納得がいきそうです。 

言葉にすると伝わりにくいかもしれないですが、悩みの解決が始まってきたような感覚です。 

本当にありがとうございました、まだまだこれからかもしれませんが、なんとかやっていけそうです。 

私はいつも理解が悪いので、めんどくさいヤツかもしれませんが、これからもどうぞよろしくお願いします。 

流れ的にも空気が読めていないですね、みなさん、すみません。 
 
 

[読者KPT] 心が変われば、世界が変わります。

花岡さん、みなさん、こんにちわ 

花岡さんのブログに出会えてから、色々なことに気付きました。つたない変化ですが、シェア出来れば幸いに思います。 

私も別のサイトで約一年半前からブログを書いていました。ブログを始めた当初は、ランキングやアクセス数をアップさせる為に、大衆受けするものを書いていました。当然、ランキングやアクセス数はアップしましたが、何か違う…私が書きたいのはこんなことではなかった。ように感じていました。 

花岡さんのブログ記事やみなさんのコメントを読み返しているうちに、何か違うと言う違和感が益々強まり、二日前にふと、居場所が違う!ことを感じました。私がブログを書いていたサイトでは、商用利用は禁止しているのですが、ユーザーの9割は商用利用です。純粋に損得なしで、こんな書籍がありますよとブログで紹介しても、ほとんどのユーザーが自分と同じお金儲けだと思い、そう言う内容のコメントが来ます。スパム行為も激化しています。 
そうれらの行為に私は耐えきれなくなりました。 

原因は私が最初にブログを始めたときの、利己的な自我の影響で、そう言う方々を引き付けているのがわかりました。 
例えるなら、イルカの群れの中にいたつもりが、サメの群れの中にいたのです。 
イルカに会いたいのなら、イルカの群れに行かなければ会えません。 

そこで、私は今までのサイトでのブログの更新はやめました。 
自称、青年実業家と名乗る人達のブログを読むのをやめました。 

その代わり豊かな感性で書かれたエッセイのブログ、勿論、花岡さんのブログもですが、私の居心地よいと思えるブログを読むことにしました。 
また、日常で感じたことや、読んで楽しかった書籍などを、今までとは別のサイトのブログで書く事にしました。 
アクセス数やランキングを気にしない、大衆受けのしない、唯一の欲はたまたま訪れた方の気持ちがふと和んで貰えれば幸いに思うブログです。 

心が清らかになれば、見る世界も、居る世界も少しずつ変化してきます。 

Eさんが、良い方向に眼を向けられて、本当に良かったです。 
考え方や見方、捉え方が変われば、自然と変化が起こりますので、大丈夫ですよ。ですから、もう、以前のような自殺未遂はなさらないで下さいね。
 
 

[質問者E] 最近、私ばかり、すみません

「あなたはただ、生きてさえいればいい」 


私は、人にはなかなか言えないかもしれない。 

でも、自分が生きてさえいれば言う資格はあると思いました。 

私は言ってあげられる人でありました。 

ありがとうございます、KPTさん。
 
 

[読者MTU] こんにちは

Eさんの昨日のタイトルを見て、とても、かわいらしい方だなと思いました。 

わたしたちは誰もが「生きている」そのことに意味があるのだと思います。 
その意味を理解出来ていないとしても。 
完璧な神の意図によって、生かされている。 
完璧でなければ、わたしたちはここに存在しない。 
苦しみや悲しみの中に在る時はなかなかそう思えないですが、それは花岡さんが何度もおしゃってくださるように、それさえも必要なことだからなのでしょう。 
地上に立ち、空を見上げ、息を吸って吐いている…ただ、それだけで完璧なのだと思います。 

わたしもまだまだ道の途中です。 
一歩一歩共に進んで行きましょう。
 
 

[読者KPT] 一生懸命生きているなら

一生懸命生きているから、苦しむのだと思います。適当に生きている人には苦悩さえない(感じない)のだと思います。 

一生懸命、苦悩に向き合あっている、Eさんだからこそ、同じように苦悩している方々に堂々と自信をもって 

「あなたは、生きているだけで素晴らしい」 

と、言ってあげて下さいね。 
以前からEさんのコメントが気になっていましたが、その頃のEさんが求めていたのは、花岡さんのお言葉だったので、陰ながら見守っておりました。 

この花岡さんのブログは読者の方々が意見交換ができ、学べる良いブログだと思います。 
花岡さんのお人柄の現れだと思います。
 
 

[質問者E] こんばんは

まったく何の希望も持てなくなった時に、なぜか誰か、何かがつながっていてくれて次に続きます。 

ひとりでは生きていないんだなぁ、と感じます。 

実は希望が見い出せなくなること自体は、特に悪いことではないのかもしれない。 

怖く感じるその時間、その瞬間。 

絶望って言っていいのかな?いや、多分まだまだ、だとは思うけど・・。 

でも、そこで死を考えるか、何気なく任せるか。 

大事なところな気がします。 

任せている。 

きっと、こんな時間が増えてくるんだと思います。 

少し、うれしいような気分になるのはあまり人に言えたものじゃない。 

ここだけの話にしておきます。 

感謝。
 
 

[質問者E] またまた連投で・・ごめんなさい。

私にあたたかい言葉をかけてくださる方々、また、コメントせずとも、批判的に見ていらっしゃる方もおられるかもしれません。 

コメントで何か言ってもらえるとうれしくて、すぐに何か書かなきゃ、という気持ちになってしまいます。 
無いつもりのエゴがすぐに特別な自分に酔ってしまいます。 
その時は気づけません。 
でも、このような経験をさせてもらえる場に感謝しています。 

私にとって最近、「死を意識する」ということが完全に無いといえば、やはり嘘になります。 
正直、とてもつらいです。 
何気なくやり過ごすことができるほうが稀です。 

ごめんなさい、暗い話になりました。 
でも、そんな思いがあるときも、きっと生かされる時は生かされるのだろうと思っています。 

本当に、任せ切れる、明け渡せるのには、まだ 
時間がかかるのかもしれません。 

でも、普通に考えても、「生きる」って大変なことですしね。 
きっとまた、良いこともあるのでしょうね。 
みなさんにも、良いことがありますように。