わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

お答えします「夢を持つことについて」 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎質問者のお礼の言葉を最後につけ加えておいた。一部の誤変換、誤字と思われるものについては、私の判断で修正しておいた。助詞の使い方が不適切と思われる部分もあるが、それは「花岡語法」として、そのままにしておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

お答えします「夢を持つことについて」

 

Hさんから頂いた質問です。


> 夢に向かって生きることは、ありのままの自分を受け入れていない、もしくは与えられたものを素直に受け取っていないということでしょうか。

昔から思い描いていた海外に行きたいという夢を再び追い始め、できるだけ出費を減らして、留学資金を作れるような生活を始めるために、都会から田舎へ帰ってきました。

ここで疑問なのは、何か目標に向かって行動したり、今目の前に存在しないものを追い求めることは、与えられるものを受け取っていないことになるのかということです。
未来に希望をもつことは、今を否定していることになるのでしょうか。

日々、今に着目すると、自分の思いどおりにいかなかったり、受け入れ難い出来事が起きたりしています。
ただ、自分の思いどおりにいかないという考えは自分が自ら作りだしたものであることは承知しております。そんなときは、あ、自分の枠内に捉われているのだとはっとします。

受け入れ難い出来事も、この先の何かのために必要であったんだと、うまく意味づけしようと葛藤するときもありますが、そのまま受け取るようにしています。
どう意味づけされるのか、探り探りの出来事もあるので、そういうときは次に起こるべき何かを待っています。

そんな中で、今の生きがいというのが、自分の夢に向かって、日々過ごすということです。
今自分が持っているものを否定しているわけではありません。
与えられたものを拒んでいるつもりもありません。

しかし、その裏返しとして夢をもつということは、結果的にそういうことになってしまうのでしょうか。
まとまりのない文書で大変恐れ入りますが、お答えいただけますと幸いです。


すみません、意味が汲み取れない部分もあって、勝手に解釈して言ってみます。

さて、あなたが夢に向かって生きたいのであれば、そうしていいのだし、与えられたものも受け取っても受け取らないでも、そうしたいのであればそうしていいのです。
それが嘘偽りの無い、あなたのありのままの状態なのですから。

それをどうこう、わたしには言う権利はございません。

ここは人生相談という、つまり「こう生きたいんだけどどうしたらいいんでしょう?」というような質問の場にはあまり適していません。

あくまでも、覚醒とか悟りを前提とした人の考察、洞察、参考のために質問に答えているのです。

もしもあなたが、人生に迷いがあって、どうしようかな?と思っているのであれば、ご自身に素直に行動して、夢を追うのもいいし、希望を支えに生きても、それはいいのです。

そうではなく、今、真実の自分を探究していて、その探究について、目の前の壁、行き詰まり、身動きの取れない状態に陥った人の質問は、単に人生相談では無く、探究の一問なのですから、探究を前提として答える訳です。

この違いを理解できますでしょうか。

あなたの質問を拝見しますと、主軸は夢、海外生活、な訳です。
探究者は、夢に向かって生きようとか、海外生活を楽しみたいとか、あまり、それは重要には捉えないかと思うのです。
探究者の主軸は悟り、覚醒、真実の自己を知る事ですから。

それで、どうお答えするべきかと考えたとき、結局は、自分の気持ちに嘘をつかず、夢に生きたいのであればそうするのがいい、としか言えない訳です。

しかし、ほんとうの事を言っている訳ではありません。
ただ、そう生きるのも、間違っている訳ではないから、そう答える訳です。

ほんとうのところは、どうなのでしょう。
探究者には同じように言う訳にはまいりません。
現実に現れる今には、意味があって現れているのですから。

夢、希望、それは自分が思い描いている理想です。
理想を掲げるとき、それは絶対、今に対しての否定があるのではないでしょうか。

このままでは満足できない、こうしたいのだ、という意思があるのですから。

もしも、今に充分に満足しているなら、この満足感を失ってまで夢を、希望を作り出す必要はありません。
つまり、満たされていないのです。
あるいは否定してはおらず、今のままでもいいのだけれど、今よりはもっとましだ、今より絶対いい、そう思っているとします。
しかし、それも、夢、希望のほうがましだと位置付ける段階で、今を否定している訳です。

自我の思考、想念が、仮想した理想を描き、そればかりを見ているとき、今をしっかりと見てはいません。

現実に海外で活躍している人との比較によって自分は得ていない、持っていないと主張する自我がそこにあるのではないでしょうか。

自分が自分のこの状態でいる事は、ありのままではないと主張するのは、なぜでしょうか。
では、希望、夢、それを叶えた状態が、自分のありのままなのでしょうか。

それは自我、エゴの範囲のありのままの状態でしかありません。
探究者は、そこを超えて行かなければならないのです。

すなわち、今現れ来る事象に、確かに意味を汲み取る洞察があるならば、この今に否定も肯定も無しに受け入れられるのではないでしょうか。

自我の自分は、ほんとうは今を否定している自分で、そうであるから未来に希望を夢を抱いているのではないでしょうか。

もしもそうであるなら、今の否定から描く理想、その夢、希望は、逃避ではないのでしょうか。

もしも逃避であるならば、夢の希望の、その場所に行ったとして、同じようにそこは今なのですから、今を二度と否定しないという事があり得るのでしょうか。

もちろんそこが、満足できる場所であるなら、そこに住み続けるでしょう。
しかし、今そのものを、確かにあるがまま理解しないのであれば、どこの今に暮しても、今を理解できないのではないでしょうか。
つまり、なぜこのような今であるのか、それを知らないまま、夢、希望に目を向けて今を見ない生き方でいていいのでしょうか。

そうであるなら、理想の希望の、そこに暮してもまた今に満足できず、新たな夢、希望を作り出す事にはならないでしょうか。

これはこのまま、輪廻の理由へと続きます。

もちろん、そうしたいのであれば、そうしていいのです。
ただ、探究者にとっては、逃亡者みたいな探究者になってしまいます。

それよりも、探究者にあっては、今現れるそのあるがままに学ぶ、その事のほうが重要な課題なのではないでしょうか。
なんたって、今、現実に現れている今なのですから。
意味も無く、現れ来るはずが無いのです。

なぜ、今に満足できないのだろう。
その不満を味わっているのは誰だろう。
それを味わっているのは、真実わたしだろうか。
真実のわたしは不満を持つという事があり得るのだろうか。
また、何に対しての不満なのだろうか。
それは真実不満なのであろうか。
学ぶべきは、いろいろ今に、沢山あるのです。

結局人は、誰でも、生まれた意味、生きていく意味、それがあってそうなっているのですから、生きるというその行為自体、意味に向かって動いている訳です。

探究者で無い方も、今の自分の気持ちに素直に生きて、それでも自分が在る理由に、その意味に向かって進んでいます。
今は、そのような途上で、そのように運ばれて行きます。
そうであっていいのだし、今はそうである捉え方をする流れの中なのです。

究極を言えば、夢を希望を抱こうが、そうであるまいが、否定しようが肯定であろうが、そうでなかろうが、そうなる必然によって人はそうなって行くのであって、どうであっても必要であるときにはそうなって行くと言う事です。

ですから、あなたが外国で生活をしたいという思いがあってもなくても、その必要が現れるそのとき、あなたは外国に行きますという事な訳です。

ただ、夢、希望についてクローズアップしたとき、見つめる方向を変えれば、対極の今への不満、否定、嫌悪も同時にクローズアップされるという事です。
ただ、それだけの事ですので、夢を叶えてくださいますように。

問題ありません。

と言いながらもなんですが、「置かれた場所で咲きなさい」渡辺和子・著 幻冬舎・刊
このような本もございます。
読んでみていただくのも、よろしいかと思います。

 

2014-05-02

 

 

 

[質問者H] 質問へのご回答

ご丁寧にご回答いただきありがとうございました。 
また、少々場違いなかたちで質問をしてしまいましたこと、お詫び申し上げます。 
これからも今を大事に過ごしていこうと思います。