わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

やっぱり明け渡ししか無いと思うんだ【完全版】 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、以前掲載した同名の記事:

shikoutoshi.hatenablog.jp

の完全版になる。Hさんから頂いた記事です。

 

やっぱり明け渡ししか無いと思うんだ

 

誰もがこの世界、宇宙は現実であって、これ以外の世界は無いと捉えるでしょう。
マインドの思考はそのように働きます。

ほんとうは自我意識に世界が映し出されているだけなのでしょう。
自分の中から現れた自分の物語が、映し出され、
その主人公に収まっている自分を観ているだけなのでしょう。

言葉で思考し、つまり、ありとあらゆるものに名前をつけ、そして定義し、断定します。

言葉を知らない赤ちゃんは、見える世界が現実かどうかなど、どうでもよくて、
ただ、生かされて、ただ存在して、
定義も断定も無いから、ありのまま見ているのでしょう。
それが真人の見かたです。

成長と共に誰かから言葉を教えられ、名前、意味、定義、断定を刷り込まれます。
それは、遠い昔から受け継がれてきた価値観であり、あたりまえと呼ばれる正体なのでしょう。
たぶん、自分で経験からわかっていった価値観ではないのでしょう。

もしも言葉が無かったら、人は動物と同じように、
感覚で知る、研ぎ澄まされた察知力を忘れる事など無かったろうに。
頭のいい、知識好きな、人というものは、かえってそれで無明に陥る。

さて、それら押し付けられ、刷り込まれた価値観や、欲や、執着、虚栄を一切放擲し、自己の内側の「ただ在る」に漂い、くつろぎ、そこに座を置き、いつもそこに留まるなら、静寂の彼方から「わかるちから」が活性化されていきます。

やってみたけど出来なかったぞ!という人もいるでしょう。
そういうあなたは、すばらしい。
たいていは、やろうなんて思いもしない。

出来ないのは、完全に明け渡していないからです。
自我のどこかに、「捨てたくない、それは恐ろしい」という部分を隠しているからでしょう。

完全に、もうどうなってもいさ、神におまかせしてしまおう、
神が起こすことを、何から何まで受け入れよう、って気になれば、出来ちゃうんです。

それなのに、他力では悟れないと、言う人がいる。いてもおかしくはないのですが。
しかしながら・・・

やんちゃな自我に何が出来ようか?
ハチャメチャな自我に何が出来ようか?
自力という自我のやっきな力任せのやり方で、得られるものは真実だろうか?

おまかせしてみればいいのです。

それは責任放棄とはちがう。
責任という言葉と定義さえ、あなたに刷り込まれた幻なのですよ。
おまかせして、与えられるものを受け入れるだけでいいのです。
そうすれば、わかります。
とてもシンプルです。

わたしは、自分の一切を内なる神に差し出して、「これ」を授けられた。

所有に拠らない真実の愛、欲の達成とは違う満ち足りた至福、
許すことによる完全な許し、自分勝手な我ままである自我からの自由、
そして、この胸の「ここ」。

そしてさらに、その源泉(神)こそが真我となんら違わないと言う真実を理解した。
つまり、それにまかせる他力は、いわば本当の(真我の)自力を目覚めさせるということ。

ナンチャラ闘争と言われるように、
朝から晩まで、一生懸命ムニャムニャを唱えて、それが何になる?
願望を達成したいから?
自我が自我の欲を満たすために、シャカリキになって自我の捉われになっていていいのでしょうか?

真我を開発する?
なんという誤認だろう・・・

真我は開発など出来ない。
それは、すでに存在している。
あなたは、それだ。
それなのに、どうして開発できましょうか?

願望達成欲が根本にあるから、そのように迷妄するのでしょう。
無明に陥るのでしょう。
ベクトルは、逆です。
逆に向けば明知が輝いています。
無明を照らす光です。

それが自我意識にも及んでいく。
それが覚醒だ。
それに気づく。
それが悟りだ。

そして、真実の自分、真我に留まり、二度と再びそれから離れないなら、
それが解脱だ。

つゆほどの願望もそこには無いでしょう。
ただあるがままの、満ち足りた安らぎの中に究境し続けるのでしょう。

それでも、残りの寿命は約束であって、経験しなければならない。
悟後の修行と言われる。

その修行は、大いに、大いに、楽しんで生きる修行なのでしょう。


  • 2012-03-16