わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

すっぴんが一番きれいです 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

すっぴんが一番きれいです

 

認知症の母の介護のあい間に、畑の作業をして、そのあい間にブログ書いて、
で、初めて見る人を瞬間見ただけでその人がどんな人か、わかってしまうって記事を下書きしたら、
なんと、某ブログで、あの方がおなじ記事を載せていて、・・・
かぶってるじゃん・・・って掲載やめました。

で、コメントに質問がございましたので、お答えします。

「内側を見る」とは、 
「能動的に知覚できるものではなく、感覚知によるまったくの受動的知覚」 
ということは、「その時」が来なければ、結局は「内側を見る」ことはできないということでしょうか? 

それから、誰しも必ずその時が来る、ということなのですが、 
どうしてそれが分かるのでしょうか? 
(「分かるから分かる」としか言えないものなのでしょうか?)

五感で捉えられる世界、つまり宇宙世界と、意識に現れるマインドが外側です。
眼・耳・鼻・舌・身・意、が外側です。

マインドが、あれやこれや、勝手に自動的に思考の連続を発生させます。
それは、とりとめのない事だったり、拘っている事だったり、あるいは知ってる歌の残響だったり、
明日のデートの事だったり、上司のパワーハラスメントに反応する怒りだったりと、様々です。
休む暇などありません。

そのいちいちに、マインド、自我が反応して、反応がさらに次のノイズを連鎖させていきます。
自我が自我に反応して自我を強固にしていく、無限ループの罠です。

そのような外側は、実は内側に包まれていて、内側の広大な静寂の中に外側の自我の牢獄が築かれています。

外側の一切をカットオフさせるのです。
一切の思考を止め、マインドを黙らせるのです。
思考が止まっても、外側は見えているでしょう。
しかし、外側を気にも留めなければ、内側には何もない静寂、広大な空(くう)を知覚できるはずです。
マインドが黙っていれば感覚できます。

わたしが「内側を見る」と言っているのは、見れば見えるのだと言う事ではなく、
「内側の方向に向きなさい」と言っているのです。
この表現が誤解を生んでいるようです。

見るというから、視覚的に見るのだと思わせてしまっていたかも知れません。
意識の注意力を、内側に向けて、外側の自我を、放っておきなさいという事です。

この時点で、意識の注意力は外側に向かったままかもしれません。
そこで、意識の注意力を、その静寂に落とすのです。
そして、そこを観察してください。

意識的に行うのはここまでです。
あとは感覚が受動的に知覚してくれます。
そこに留まる(座を置く)とき、それが自分である感覚に気付くはずです。
意識的に気付こうとしないでください。
リラックスして、ただ観察してください。

これは「その時」とは関係なく、出来ることです。

日常にありながら、日常を活動しながら、同時に内側に留まるなら、
見える世界に自分がいない感覚になる事があります。
内側の静寂に、自分を感覚するとき、これが真我か?といえば、そうじゃなく、それは個我です。
ワンネスを、そこでは知覚できないからです。
溢れる愛を味わうレベルではないからです。

真我はその更に更に奥です。
ハートが開いて、愛が溢れてくる、その神聖な窓の向こうに、実在、真我があります。
そのハートが開くのは恩寵によるしかないという事で、毎回言ってる事です。

いつ開くかは、つまりその時はいつか?というのは、向こうからの恩寵によるしかない。
そこを塞いでいる、堆積した汚れ(欲、断定、虚栄、誤価値感、恐れ・・・)が落ちない事には、
恩寵は来ない、つまり、一切を明け渡さなければ来ない。
これも、毎回言ってる事です。

これは、あなたの課題のセット、あなたの物語、第一章から最終章まで経験しないとできないので、
あなた次第っていう事になります。

その時がくれば、そうしてしまうしかない・・・来月かもしれないです。来世かも知れないです。
っていうか、それがいつであるのか、わかる事にどれほどの意味があるのでしょうか?
時間など錯覚の思い込みにすぎないのに。

いつだろう・・・ああ、長いなあ、はやく来ないかなあ・・・そうしたらこの苦しみから解放されるのに。

それが無限ループの罠です。

経験しなければならない事は、どうしても経験するのです。
経験しつくし、学びつくさないといけないのですよ・・・って言うのは、
そのために生まれてきてるからです。

それだから、誰でもいずれは、その時を迎えるのですよ・・・って言うことなわけです。

その時を迎えるために生まれてきているのに、迎えないはずなど、無いのです。

その時がくるはずの無い者が、この幻の世界にわざわざ生まれてくる必然など無いのです。

はやく悟りたい、わかりたい・・・気持ちは理解できますが、汚れとはその事です。
悟りたい悟りたいは、悟れない悟れないと認めている事なのです。

悟るために明け渡すなら、悟れないし、明け渡せません。

ただ、明け渡すのです。
悟りという見返りを求めないでください。悟りはあきらめてください。

綺麗だねって、褒められたくて咲く花など、あるでしょうか。
ただあるがまま咲くから、神は着飾ってくれるのです。

ただ明け渡し、あるがままになる。スッピンになる。
ファンデーションとかチークとか、シャドウもマスカラもいりません。
どうであろうが、誰だって、スッピンが一番綺麗なんです。
スッピンになって、ブスだねって言われようが、可愛いねって言われようが、おかまいなし。
飾っているもの全て取り払って、投げ出して、神のなすがまま、みこころを受け入れます!ってなるなら、
その時です。

わかります?
その無限ループ・・・捨てようとは思ってるけど、捨てれない?
その日は、突然やってきます。

 

 

2012-04-19