償うということ 花岡修平 「真我が目覚める時」
◎Hさんから頂いた記事です。
償うということ
人はエゴを有しているから、どうしても我欲、保身の思考傾向によって、誰かに痛みを負わせてしまう。
産まれてから一度たりとも罪を犯した事が無いという人はいない。
時には、何もしないその事が、罪となる事さえある。
あるいは、生き続けるその事も、他の動物、植物の命を奪うという事であるならば、彼等の痛みはどうしてあげればいいのでしょうか。
我々は、その大小を考慮に入れず、「はい、いいえ」で答えるなら、全員罪人なのでしょう。
誰かが得をする時、誰かが損をしている。
誰かの保身が、誰かを陥れている。
意図しない出来事が、結果的に誰かを不幸にしたとしても、例えば車で誰かを死に至らしめた場合でも、保身にやっきになるでしょう。
誠心誠意、償うという事が、エゴの故に恐怖となって脳裏を襲うのです。
エゴというのは、自分を生き続けさせる為の核となっているのではないでしょうか。
人には、罪の意識という機能も備わっています。
与えた痛みに代替できる何かを差出し、許しを得たいと思うのです。
しかし、それも罪の意識から逃れたい為の保身ではないでしょうか。
つまり、罪そのものを忘れ去ってしまい、何事も無かったかのように暮らしたいのではないでしょうか。
それは、真実償いでしょうか。
許される事を期待して、償う行為は、償いでしょうか。
また、痛み、傷を受けた者は、何かの代替を受け取ったとしても、真実許すでしょうか。
償うという事はそういう事だと思うから、人は法の裁きによって罪が消えたと言い張るのです。
刑が言い渡され、何年服役し終えたから、罪が消え去ったと言う事はないのです。
それは、被害者と加害者の間から、遠く隔てた出来事です。
当の相手から、本当に許されるのでなければ、償えたという事はないのです。
それが無い事には、相手の傷の痛みも消えず、罪を抱えた方の心のざわめきも静まる事はありません。
許されたいと言うのは保身です。
保身で償うのであれば、償っているのではないのです。
真実、自分の誠を捧げ、それを相手が受け取ってくれない事には、許された事ではないのです。
許すというのは、愛なのです。
許すというのは、慈悲なのです。
相手の愛に通じるように、許される事を期待せず、罪を抱えたまま、相手の傷の痛みを忘れる事無く相手を思いやり、誠を持って償い続けるなら許されるかも知れません。
それは、相手の愛によって救われると言う事です。
双方生きているうちに、許し許されるなら、どちらも救われるのです。
たとえ、許す事無く罪人が亡くなったとしても、傷を受けた者が確かにこの理を知り、愛によって許すのであれば、許す事により、その人も救われるのです。
また、許される事無く、傷を負った者が亡くなったとしても、罪を忘れず、二度と罪を犯す事無く相手の御霊に誠を捧げ続けて生を終えるのであれば、それは相手の御霊に届き、確かに許されるのかも知れません。
あるいは、その事で自らの意識に昇華が起こり、神に救い上げられるかも知れないのです。
ペインボディは、一概に悪いものだとは言い切れないのです。
それは、愛に、神に向かうための、神から与えられた大切な気づきのマテリアルやも知れないのです。
愛の素晴らしさは、そういうものです。
それを誰もが知らなければいけないから、罪と償いが現れる必要があるのです。
エゴは、確かにその役目を果たしたのです。
生きるというのは、そのような学びの事なのでしょう。
人はどんな事であれ、神と愛を知るための、起こるはずの事を体験しているのです。
神とその愛を知って、初めて許され、救われ、罪と償いが消え去るのです。
贖罪。
神とその愛を知って、贖罪はもう、必要の無いものになるのです。
ナーラダ・パンチャラートラ、バクティの聖典による詩歌。
<<ラーマクリシュナの福音より>>
もし神が、愛もて拝されるなら、贖罪の要がどこにあろう。
もし神が、愛もて拝されないなら、贖罪の甲斐がどこにあろう。
もし神が、内にも外にも見られるなら、贖罪の要がどこにあろう。
もし神が、内にも外にも見られないなら、贖罪の甲斐がどこにあろう。
おお、ブラフマン。
おお、わたしの子供よ。
それ以上の贖罪はもう止めよ。
天上の英知の海、シャンカラの元に急ぎ、彼から神の愛を得よ。
2013-04-21