わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

償うということ・2  花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

償うということ・2

 

しかしながら、罪を忘れずに生きるという事は、罪に苛まれて(さいなまれて)生きるという事ではありません。
また、罪によって自らを責めるという生き方でもありません。

それは起こるはずの事が起こったのであり、間違いなく学びに帰着されなければなりません。

それは自らを観察する状態に置かれるという事です。

忘れないというのは、記憶の中から、常にその罪を呼び出すという事ではありません。
そのようにするから、何も解決できず、記憶の中に生きて自らを責めてしまうのです。

それは、全く過去に生きています。

今、罪を知った者であるかどうかが問題です。
罪という事を、完全に知ったのであれば、今自らが、どういう者であるかを観察できるでしょう。

今だに罪を犯す必要がある者でしょうか。
それとも、もはや罪という事を知って、二度と罪を犯す必要のない者でしょうか。

罪を知るというのは、それが何によって誘発された事であるかを知る事ではありません。
それは、過度の執着に拠るのだという事は明らかです。

保身であったり、所有であったり、あるいは異常な感覚の喜び(スリルとか緊張感とか)であったり、他者には理解されない自己主張(つまらないパフォーマンス)であったりするでしょう。

そのような事は、誰もが自覚していながら罪を犯すのです。

つまり、罪という事を知らないから、罪を犯すわけです。
悪いことをして、なぜ悪い?という、万引き少年の言い分がそこにあります。
悪い事とはわかっていながら、悪い事をしてはいけない理由がわからない。

良い悪いの尺度、価値基準、そういうものが経験から知ったのではなく、他者たちから与えられた、押し付けられた基準であるからわかりません。

痛み苦しみを知ってはいるけれど、それを立場を変えて見る事ができないのです。
相手の痛み苦しみを、我事のように見る事が出来ないのです。

全く自己中心的であり、愛と慈悲の欠乏なのです。
あるいは、それを知るために、人は罪を犯す体験を与えられるのでしょう。

日常の、生きていく過程に現れる全てが「わたし」という中心を際立たせ、同じその日常が、「わたし」を放棄させる覚醒へと導かれる事にもなります。

体験で知って行くその学びが、この内側に、見返りを全く期待しない愛と慈悲を気づかせてくれるのです。

慈悲があるなら、自分にも他者にも、痛み苦しみを与えようなどと思ったりしません。
愛があるなら、自分も他者も、そのような痛み苦しみの状況に置かれる事無く健やかであれと思います。

そのような者であるならば、罪というものを、罪という言葉で置き換えたりせず、罪そのものを知っている状態であるという事です。

言葉で定義せず、その実質を知っているという事です。
その違いを、わかってもらえますでしょうか?

しかし、これだけでは不十分です。
それだけでは、罪の意識に苛まれる事になるからです。

ここに辿り着かなければいけません。
つまり、自らが罪を知っている者であるという確信と、もはや罪を犯す必要の無い者であるという理解です。

それは愛と慈悲に生きていけるという理解でもあり、確たる自信でもあります。

そうであるなら、かつて痛み苦しみを与えた者達への償いは、愛による救いにとって代わるでしょう。
そこに、「許されたい」という「自己保存」つまり、「わたしのためにわたしは許されたい」という思いは微塵も無いはずです。

その時から償いは成就されて行く事になります。

そのように生きて欲しいと思います。

そうであれば相手が許してくれようが、そんな事よりも、この愛と慈悲によって、許せないという相手を救って行きたいと思うでしょう。
この無償の愛で、相手を癒し、共に神を見る者と成る事を望むでしょう。

愛と慈悲は、神の本質であり、自分の本質でもあります。

全てそれが故に、現れるはずのものが現れ、起こるはずの事が起こります。

自らの内に、その愛と慈悲が目覚め、世界の何もかもがそれによって出来ている。
その事が知れたのなら、罪を知るために起こった事の成就が成されたのです。

内にも外にも神を見るなら、もはや贖罪の必要はありません。
また、内にも外にも神を見ないのであれば、贖罪のかいなどありません。

償いの成就とは、相手が愛によって許してくれるか、あるいは自らが愛によって相手を救おうとする立ち居に成るか、どちらかです。
どちらもお互いに、同じ無償の愛と、慈悲を知らずにはおかないでしょう。

あらゆる起こる事が、結局、神に、つまり自分の本質に向かわせてくれるのです。

神が罰を与えるのではありません。
法の執行が罪を洗い流すのではありません。

人の無償の愛が、大いなる慈悲が、目覚めさせてくれるのです。

2013-04-25