わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

・・・の風になって 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎記事の中に舟越保武の彫刻写真を挿入しておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

・・・の風になって

 

人は人の作ったものに、特別な意味を付け加えようとします。
作ったものに意味がないと嫌なのです。
意味づけといいます。

そのへんのなにか、石だったり、木片だったりを削り、何かの形にしてみると、あたかも何か特別な、
壊してはいけないような存在感を感じるかもしれません。

芸術と言われるものがあります。

舟越保武(ふなこしやすたけ)氏の彫刻を見ると、それは明らかに物質素材を変形させて作り上げたものであるにも関わらず、
なんと生きているような存在感を感じます。
眼が、いまにも動き、口が開いて何かを語るのではないかと思ってしまいます。
あるいは、あたかも人格を備えているかのごとく見えてしまいます。

 

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聖ベロニカ



そのような驚くほどの波動を感じながらも、事実は物質集合体です。
船越氏の作品に込めた感性が、見る側の感性と同期して、そのように見えているのでしょう。

ですが、その時の共振波動は、作品から出ているのではなく、見る者から出ているのです。
見る者の波動が、作品の固有振動数に触れ、共振させ戻ってきます。
戻ってくる共振波動を受け取って、それが、もともと波動を出している自分のそれとシンクロするわけです。

そういうわけで、
同じ作品を見ても、見る者によって、いかに感じ方が異なるか。
わたしがいくら彼の作品の崇高なる芸術性を言おうが、他のだれかは、酷評するかも知れません。
ただのインテリアぐらいにしか思えない人もいるでしょう。

言いたいのは、
あなたが出している波動が、あなたの世界を、そのように意味づけし、また、返ってくる波動を、
あなたが再びそれを受け取り、世界を認識しているということ。

そのように意味づけしているのは、あなたであって、自ら出している波動によって自らが翻弄されているという事。

彫刻は、ただの物質であっても、見る側の感性で、どのようにも意味づけられます。
そうであるなら、仏像や、神像もそうでしょう。

作り手が、神仏とはこのようなものであろうと思い作ったとしても、それはまがい物です。
元々形などない、色も音も味も匂いも感触もない別次元の存在です。
それをどうしてシンボライズできましょうか。
そのようなただの物質の像に、いくら神仏をイメージして礼拝しても、空しすぎます。

自分で意味づけした、偽物の神仏を礼拝しているにすぎません。

神の代理人として現象世界に出たあなたが、あなたが作り出した神に礼拝しているにすぎません。

自らの内側、そのハートの奥にしか神は見出せません。
そうであるなら、自らのハートの奥を礼拝しなければいけません。

しかし、作って意味づけたものが、全て間違いだとも言い切れません。

たとえば、お墓というものを亡くなった霊のために建立します。
しかし、そこに亡くなった方はおりません。
生前は、もしも死んだらそこに入って住むんだって思う人もいて・・・でも、そこに住んではいません。

お墓は、単なるメモリアルです。
ただの物質の、方形の石。
決してそこに霊が住んでいるわけではないのですが、でも、死後はそこに住むと考え、あるいは、
そこに住んでいるに違いないと思っても、いいのです。
事実ではないのですが、事実とは無関係の合理的な意味合いもあるのです。

記憶が薄らいでいき、やがて完全に忘れ去る。人はそういうものです。
その思い出をリフレッシュさせるのが、メモリアルです。それがお墓です。
でも、お墓の最も重要な役割は、
かつて愛した最も身近だった人を、忘れ去って行く罪悪感と恐れを、許してくれる・・・という事。

お墓がある事で、だから、忘れたっていいんだって、思わせてくれる事。
忘れても、ここに来れば思い出させてくれる。
そうであるなら、先に亡くなった人のあれこれに縛られること無く、その後の自分が、自由に生きられるのです。

ほんとうは、忘れても問題ないのですけどね。
だからといって、亡くなった人は、コンチクショウなんて思ったりしませんから。
それに、あらゆるものは、自ら作り、自ら意味づけしているのですから。

現実的に、千の風になって、あの大空をふき渡っている事も無いのですが、
そう思ってもいいのです。

お墓は供養のため、という根拠のない「あたりまえ」を、代々継承され刷り込まれてきました。
戒めのように、掟のように、そうしなければ人間性を疑われるとさえ思っている人もいます。
あるがまま見るなら、あらゆる断定が他愛のない思い込みであることがわかります。

供養というのは、生きていて困窮している人々に、自分の持っている内から、わずかな食料や財を分け与えるという事です。
あるいは昔であれば、無一物となり悟りの修行する道の人に敬意をもって、都度の食事を提供するという事です。
言ったら、助け合って生きるという事です。
慈悲の心をもって生きるという事です。

亡くなった方は、無くなってなどいません。
もともと、生まれてなどいないのです。
宇宙ができる前から、「ここ」にあって、この先も、「ここ」にあります。
生きている我々もです。

意識の中の、あらゆるものが幻です。
意味づけた、なにもかもが幻です。
それを経験して楽しむために、その仕組みがあるのです。
だから、あらゆるものを楽しんでください。
苦さえ、楽しめるようになってください。
せっかくの体験の世界なのですから。

それがそのまま、神に奉仕するという事でもあるのです。

 

2012-04-24

 

*「東日本大震災追悼」の記事を読めばわかるように、花岡さんは岩手県の人。この記事で言及されている舟越保武岩手県出身の彫刻家。

(ブログ管理人より)