わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

なにも持たない幸せ 花岡修平「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

なにも持たない幸せ

 

世間の人が求めているのは、高い生活水準であり、地位であり、名誉であり、
賞賛であり、羨望であり、快楽であり、それらがある程度享受されても、
得られて幸せだと思えるのは、ほんのひと時です。

瞬く間に次の欲求が現れてきます。
そして、持っていながら、わたしは持っていないと文句を言い出すのです。

他と比較して、他を超えなければ満足する事がないのです。

比較することから、虚栄が現れます。

上と比較すれば、わたしは持っていないと言い、休む事無く手に入れようと戦います。
下と比較すれば、わたしのほうが富んでいると思い、他を蔑みます。

なんて悲しい生き方でしょう。

所有する事が幸せなのだと、信じて疑う事がありません。

得るための苦悩と、失う恐れによる苦悩と、
それらを自ら作り出しているのです。

わたしが今、生きていて、世界と共にあり、神の御業をそこに見て、愛を感じる事などないのです。

あらゆる人が敵なのです。
戦わずにはおれないのです。

所有の故です。執着の故です。

そのために、神などありはしないと言い出すのです。
執着という鎧を身に着け、欲という兜をかぶり、毎日毎日、誰かと戦うのです。

わたしは何も持っていません。
持たないから失う恐れもありません。
たとえ、法的に所有権があったとしても、
それはわたしのものではありません。
あらゆるものが、わたしの知らない所で決められ、起こり、崩壊していくのです。

どのようなものでも、完全に所有はできないのです。
あの世に持って行けるものなど、何もないのです。
持って行けるのは、ただ、経験による学びと、意識と、この愛だけです。
それ以外のものは、この現世にでさえ、わたしはいりません。

なにも持たない安楽さ。
なにも持たない平穏。
なにも持たない理解。
なにも持たないから幸せ。
なにも持たないから神の愛がわかる。
なにも持たないから神の中にいられる。

この喜びを、この満ち足りた幸せを、どれほどの人が知っているだろう。
このハートから溢れ出る、理由などいらない愛を、次に知る人は誰だろう。

みんながこれを見つけて欲しい。
できるだけ多くの人が、この愛に気づいて欲しい。

わたしのものなど何もない。
あるいは、全てがわたしのものなのです。
わたしの意識の中で、それは生まれ、変容し続け、そして、わたしと共に神にさらわれていきます。

今日も大勢の戦う人たちを見て、
幸せであれとハートに祈願します。
どのような命も幸せでいてほしい。
どのような命も役にたっている。
命でできたものは、無駄なものなどないのです。

戦わなければと言う夢から覚めて、
執着の鎧と、欲の兜を脱ぎ捨てて、
自由になって欲しい。

奪い合い、取り合う戦いを止めて、
分け合い、助け合う事に生きがいを見て欲しい。

優しくしようとせずとも、結果優しい人であって欲しい。
善い事をしようと思う事無く、善い事をする人であって欲しい。

わたしが神のために出来る事は、
そう願い続ける事だけです。
わたしはわたしのために何を願う必要があるだろうか。
全てを与えられているのに。
わたしは在るけど、
わたしは無いのです。
全て神の中です。

 

2012-05-13