わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

戒名を自分でつけてみませんか 花岡修平「真我が目覚める時」

◎コメント欄から3つのコメントをピックアップして最後につけ加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

戒名を自分でつけてみませんか

 

仏教界では、人が人生を終えたとき、戒名、あるいは法名法号、とかを授けます。
もちろん、亡くなられた方には関係の無い事でしょう。
本人にとっては、関与できないまま、
勝手に付与されるわけですから。

でも、見送る遺族にとっては、絶対はずせない仏事ですよね。
さて、戒名の本来は、仏に帰依した証しとして、付与するものだと、だれでも知っているわけです。
戒名の文字には、意味があるそうで、院号、連合、位号の順に書かれるものだそうです。
宗派によって、そうでない場合も、別の付け方をする場合もあるようです。
生前の社会的地位や、貢献度によって、あるいは、檀家としての沿革的な要素も盛り込まれるようです。
短いものもあれば、やたら長いのもあって、考えさせられます。

わたしは、自分が死んでも、戒名は付けて欲しくないと思うのですが、みなさんはどうでしょう。

火葬場で、祭壇に遺影を飾り、位牌が置かれます。
参列者は、そこに書かれた戒名をみて、立派な名前だとか、それほどでもないなとか、思い思いに判断します。

そこに書かれているのは、なんとなく、差別ではないだろうかと思いませんか?
人によって、位に上下があるのです。
例えばお布施の額によって、ちがうのかな?とも思ったりします。

生きていようが、亡くなろうが、人に上下などありません。
どうであろうが、優劣などありません。
それが、亡くなった後にまで、そのように格付けされるのです。
嫌ではないですか?

もちろんしきたりです。風習です。そうであるなら、それで意味なんてないのですから、いいのですけど。

わたしとしては、火葬や、本葬に参列する度に、亡くなられた御霊を思うと、残念な気がするのです。

戒名は、本来は生きているうちに付けるものです。
亡くなったら仏になるのだから、とか、カトリックのように洗礼したからクリスチャンネームを付けるのではなく、
自らが、自らの本性を知った時に付けるものです。

名前というものは、生まれたら付けるものです。
死んだら付けるものではありません。
この身が生まれ来て、仮の名前を与えられ、人生を生きて、やがて本来の自分に気づく。
新しく、そこでほんとうの自分が生まれるのです。
ほんとうの自分が生まれたら、仮の名前とは別に、その証しとして、新しい名前で生きて行こうという事です。
新しく、神の国に生まれるのです。

どのような者でも、新しく生まれるのでなければ、神の国に入ることはできない。
キリスト、イエスの言葉です。

ウパテッサがシャーリープトラー(舎利弗)に名前を改めたように、
コリータがマーハー・モンガラナー(大木蓮)に名前を改めたように、
戒名とは、改名なのです。
自我を明け渡し、過去の一切に別れを告げ、本来の自分、本性が目覚めた時、名前を改めます。
それは、過去との厳格なる決別の証しです。

そうであるなら、わたしはもはや、だれにも名前を付けられたくありません。
その時、名前を付けられる「わたし」さえいません。

あるいは、付けるなら、自分で付けます。

人は、生きていようが、死んで別の世界に行こうが、みんな平等で、上下なく、優劣なく、
自と他に分かれてさえいません。
どうであろうが、同じひとつの命の中にあって、その中で変容しているだけです。
名前に意味づけして、ラベルを貼りつけ、ありもしない断定をするなら、それは、仏陀の教えとは違うのです。
ただの、ものまねです。

でもしかし、後を生き続ける、ご遺族にしてみれば、やはり世間体もあるでしょう。
世間体はしがらみであり、執着であり、虚栄であって、有りもしない常識であり・・・と言っても、
それがわかるまでは、しょうがありません。
世間体も過度でなければ、世俗て仲良くやっていくためには、役にたっています。

周りがやる事については特に問題ないのであれば、寛容に許してあげればいいでしょう。
しかし、自らの事であるならば、そういう立場は持っているべきでです。

わたしは、この後、身体を脱ぎ捨てる時期がきたら、そのように、遺言を残すつもりでおります。
自分が気に入った、イケテル戒名を考えておきます。
ほんとうは、宗教的な葬式もいらないのですけど。
ほんとうは、野たれ死にが、わたしの理想なのですけど。
法的に迷惑をかける事になるので、断念します。

既に、わたしは自由です。
好き勝手に運ばれている事が、幸せです。

手放すと、こんなにも身軽なのです。

 

2012-05-19

 

 

 

 

[読者T]戒名について

もう、私これには、一言言いたい!(笑) 
花岡さん、ありがとうございます。 

戒名をつけるにあたり、「えっ?」って思う事が沢山です。 
宗派により、多少違いはあると思いますが… 

私が言われたのは、 
俗名(戒名なし)20万円 
それから順に、40、60、100万円と言われました。 
しかも、つけた位は、後々代々引き継がれ、100万円で買った位は引き継がれて行くのが、当たり前のようです。 
名前をお金で買うのに、抵抗があり、俗名でやると意思表示したら、嫁ぎ先の親戚一同から非難ごうごう(なんで?) 
みんないわく、成仏出来ないからだです…そんなわけが無いじゃないですか…。

でも、社会的地位やその他で相応しいと思い、こちら側からの敬意の現し方としてつけるのは、大賛成。 

でも、どれだけの人がわかってつけてるのか、疑問です。 

父は私たちが戒名つけました。とてもいい名前です。(自画自賛) 

亡くなると、悲しむ暇もなく、葬儀屋さんとの段取りの細かい打ち合わせ、悲しみで、それどころじゃないのに、半ば言いなり、どーでもよくなるんです、心理的に。今思えば葬儀屋さんの策略にはまる感じです。あっでも、後味が悪かった訳ではないですよ。 

冷静に思い返せば、おかしな話だなぁ…と思っただけです。 

私は、それぞれの弔う気持ちが1番だと思います。 
亡くなったからと言って、親戚との縁が切れる訳ではないので、きちんと意見を聞いて、納得する形で戒名つけるなり、お見送りの仕方なりを決めたらいいと思いました。 

ただね、毎朝仏壇に手を合わせる時に、戒名で呼んでます。なんだか護ってくれてる気がして、敬意の現れですね。 

 

 

[読者T]裁かない

花岡さん、みなさんこんにちは。

日常の喧騒の中に居るとなかなか細かい判断をしてしまいますね。 

なので、今日は裁かない事をやってみます。 
もし裁いた事に気付いたら、裁かないよう、「おっ今裁いてる、裁いてる」ぐらいな軽い気持ちでゲームをしていると思いやっています。 

突然の神様の粋な計らいで、仕事が変わりました。 
どう転んでも、私を逆さまにしても、解決など有り得ないと思っていた、法的な問題もたった一日で綺麗サッパリ消えて無くなりました。 
解決が向こうからやってきたのです。 

今まさに0地点に立ってます、手放した私の店が今目の前に現れました。 
一からのスタートです。 

もう、起こるがままにしておきます。 

この日の為にあったんだと思っています。 

みんなの店だと思い、大切に大切に携わって行きます。 
だってもう、失うものはありませんから(笑)

 

 

[読者KZ]すごい、リアルですね

Tさん 
良かったですね 

自分もですが後に続こうと思う人たちの 
励みになりますから 

そういう記事は大歓迎です。 

心の願望で引き寄せようとすると逃げていく 

もういいですと降参、手放し 
自我もろとも差出し、明け渡すと向こうからやってくる。まるで、悲壮な喜劇みたいですが 

マーラの仕組み大いなるもののはからいは 
粋というか奥深く、味なことやるやがるよな~ 

と思いますよね、姉ゴ(笑) 

それとAさんに言ってた 
抱えきれないような悩みは全部自分のハートの 
愛さんに任せてしまいなさいというのは 

成る程とKZのハートにも響きましたよ 

それから妄想(悩み)が湧いたら愛さんにシフト、愛さんにシフトと口ずさんでます。サンクスね