わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

宇宙即我・宇宙とはあなたの事です 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

宇宙即我・宇宙とはあなたの事です

 

世界とは、ものすごくデカイひとくくりです。
その中に天体の集まりである銀河が、数えきれない程散らばっています。

そのデカイ世界、宇宙の中の、とある銀河の、限られた太陽系の、ちっぽけな地球の上の小さな国の、どっかの市区町村に住む身体のわたし。

ものすごく、ちっちゃ・・・なわけです。

ちっちゃなわたしが、ちっちゃなだれかと言い争い、傷つけ合い、憎悪するという、これまたちっちゃな出来事に捉われ、なにか大事なものを、大切なものを忘れたまま、生きています。

「わたし」というものを考えたとき、宇宙の大きさを思えば本当に小さいわけです。
二元分離した主体(マインド)が考えるから小さく感じます。

でも、世界を見ているのはだれでしょう。
わたしの何が世界を認識しているのでしょう。

もしも世界の中にわたしがいて、あの人がいて、他の人がいるなら、わたしに関わりなく世界はあるでしょう。
しかし、世界は、わたしの中の認識野に広がっていて、わたし無くして世界は認識できません。
その認識野に、わたしなりの世界を見ているのです。
あの人の世界と、わたしの世界とは、相似ではあっても、合同ではありません。

そうであるなら、あの人の世界は幸せな世界だと言うけれど、わたしの世界は不幸な世界だと言う、まったく違う認識があるのは頷けます。
もしも、一つの世界の中に、あの人も、わたしも、みんなもいるなら、あの人の世界は幸せな世界だと言うなら、わたしの世界も同じ幸せな世界であるはずです。

わたしが見ている世界は、わたしの中に現れていて、あなたが見ている世界は、あながの中に現れているから、それぞれの物語として認識するわけです。

あなたの見ている世界は、あなたの意識に展開されていて、その中に「わたし」というマインドを置くから、「わたし」はとても小さく、「世界」はとてもデカイのです。

でも、マインドを離れて見るなら、あなたの意識に世界が現れているのだから、あなたそのものは、宇宙を呑みこんで、それよりデカイのです。
宇宙即我と言います。宇宙即我の形がほんとうです。

あなたが見ている世界は、あなたの中にあって、そうであるなら、全部があなたです。
あなたから離れているものなど何ひとつありません。
そういうあなたの在り方は、神そのものとも言えるわけです。

神は自らの形に似せてヒトを創られた。

それだから、その中の特定の断片だけを愛し、他を排他するという愛は、愛ではないと言うのです。
ほんとうの愛は、全てを呑みこんで愛するのです。

宇宙即我、その状態の時に、真我と「わたし」が完全に同一のものとなります。

そのように、ちょっと想像してみてください。

ちっちゃな事に捉われている「わたし」なんて、どうでもよくなりませんか?

「わたし」という、ちっちゃなパッケージ(自我)の中に閉じこもっているから、ちっちゃな事しか見えません。
ちっちゃな事に捉われ、そんなつまらないものに苦しみ、あがいています。

いつも、いつでもその、ちっちゃなつまらないものを拾い上げてはポケットにしまいこみ、苦労するのです。
そのパッケージを破いて、デッカイ宇宙即我に流れ込むのです。

見ている世界が全部「わたし」だと、イメージしてみてください。
外の景色を見ながら、これら全ては「わたし」だと感覚してみてください。
そして、全てのわたしを愛してください。
それが、神があなたを愛する愛し方です。

あなたが創り出した世界のなにもかもを、あなたが健やかなれ、安かれと思うように、神もあなたをそのように大切にしています。
その故の、あなたの物語です。
その故に、苦があり、そこから学べと言っているわけです。
学んだら、そんなつまらないものは手放してしまっていいのです。

世界は、あなたの中にあります。
あなたが世界の中に放り出されたわけではありません。

宇宙即我、そして、天上天下唯我独尊、これは思い上がりでも何でもなく、事実そのものであって、それだから全てを愛しなさいと言うのです。

その真我に気づいてください。
マスター(主)は、あなたです。
そしてスレーブ(従)はありません。
全て、あなたです。
それだから「ひとつ」なのです。
みんなが「ひとつ」であって、その在り方の中に在ります。
デカイあなたと、デカイわたしと、デカイみんなが「ひとつ」の在り方に在って、もはやデカイもなく、広大無辺です。
愛に大きさなどないからです。
愛に形などないからです。
それは、ただ、ただただ、愛です。

ほんとうは愛があるだけなんです。

 

2012-06-06