わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

わかる眼 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎読者のコメントをつけ加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

わかる眼

 

忙しい日常を暮らしていると、自我の中に埋没してしまいます。
そうして物事に「決めつけ」を適用して物質世界を揺るぎ無いものにし、あるがままの自分を忘れてしまいます。

「決めつけ」は自由で柔軟な美しく流れる世界を物質化して行く接着剤のようなものです。
そのようなものを我々は代々受け継いで、他にも強制的に押し付け、相互洗脳の状態で「わかる眼」を塞いでしまいました。

第三の眼という言い方をします。
本当の自分を見たいのであれば、それを見る目は額や眉間には無い事を知ったほうがいい。
それは松果体が知覚するものでもなければ、前頭葉で判断されるものでもない。

身体に付いた眼では、身体のレベルのものしか見えない。
内なる眼、「わかる眼」で確かに捉えられるのを見てみるのです。

個々に分離し独立したそれらに、名称を与え、形として見るのは身体の眼にまかせておけばいい。
自我にしがみ付く事無く、ただ「わかる眼」で、真実の有り様を見るのです。

身体の眼で世界を見て、「わかる眼」で真実の有り様を、同時に見るのです。

それぞれが違うものを見ている事がわかるまで、見続けるのです。

「わかる眼」が、あるがままを見る時、そこには「見る」あるいは「わかる」だけが存在します。

純粋な「在る」の中に在る、「この在る」を知るでしょう。

こう言うと、何を言っているのか全然意味不明な人も多いかと思います。
それが伝えたい側のジレンマです。
他に言いようが見つからないのは、そのような次元での言葉を発明した人がいなかったから当然です。

全く思考が無い世界です。
そこに在る(居る)事は、楽しみです。

しがらみも、重大な事も、恐るべきものも、関係も、依存も、そこにはありません。
そこに漂う事は、大いなる楽しみです。

できるだけそこに居て、自我の囲いの中に入りたくは無いのです。

それだから、目覚めた人たちは、それぞれお気に入りの隠れ家に雲隠れしてしまうのです。
ヒマラヤやチベットの山中とか、森の中の小屋とか、人と関わる必要のない所で、誰にも邪魔されずにそれを楽しみたいのです。

自分を知るための出家ではなく、あるがままの自分で居るための出家です。
もう俗世間に楽しみを見出すという事が、できなくなります。
結局、隠遁してしまうわけです。

前にも言いました。
野たれ死にが、わたしの理想です。
って言うのは、誰にも看取られなくても、神に救い上げられる喜びの方を選んでいるからです。

既に、身体はわたしでは無いからです。
これは、作り物、借り物、そうであるから、打撲などしようものなら手で患部をさすりながら身体に謝ります。
大事にしてあげられなくて申し訳ないねって、まるで他人に謝るように謝ります。

変でしょう?
変なんです。

そういう変な理解の仕方が、実は間違ってなどいない理解だと思えてしまうんです。

そうして穏やかにいられる自分、謹んでいられる自分が、嬉しく思えるのです。

おそらく、人に言わせたら、偽善者呼ばわりでしょう。
自己満足と言われるでしょう。

そう言われても、全く反応する部分が無いのです。
感情に波紋が現れません。

それを見て人は更に言うでしょう。
「冷たい人」
「情の無い人」

情に流されて、冷静を失う事が、それほど大事なのでしょうか?
逆です。
真実は、いつだって真逆なのです。

人のそのような有り様を知り、わかり、真我とは、命とは、愛とは、慈悲とは、それらがわかってしまえば、もはや、何がどうであれ、喜びに満たされています。

神を忘れずに居て、いつだって片手をそれに触れていれば、日常で自我に埋没してしまう失態は少なくなります。
自分が自分で居られる喜びを失う事はありません。

ハートから溢れ出る真実の愛を、いつだって味わう事ができます。

これを多くの人に伝えられたら、どんなにいいだろうと思います。

しかし、わたしには指導する能力がありません。
他の方々のように、講演も、ワークショップも、リトリートもできません。
本を執筆しようにも、文才もありません。

でも、安心していられます。
他に覚醒された方々が多く活躍しておられます。
そういうのは、その方々にお任せして、わたしはあるがままのわたしを楽しむ事にします。

神をこのように実感できるのは、なんと素晴らしい事でしょう。
これが起こって、ほんとうによかった。
そしてみんなにもそれが起こって行く。

みんなが幸せになるなら、もっと幸せになって行くに違いない。
そうやって、世界そのものが、高みに昇って行くのでしょう。

アセンションとはそれを言ってるのでしょうか。

 

 

2012-06-22

 

 

【読者K】 寝る前に一風呂浴びさせてね

源泉ハートの掛け流し目覚めの湯、更新 
いつも励まされ感謝して入ってますよ~ 

また促しのために思い通りにならない苦が押し寄せてきてますが 

今度こそ今度こそと思いながら、今一歩届かない 
もどかしさ、覚悟徹底のなさが原因と分かっているんだけどやられちゃうんですよね、降参はとっくに 
してるつもりだけどいざ差出し明け渡しとなると 

花岡さんとかたまこさんのように命もお任せ 
家族もお任せと思い切りができないのですね 

そこまで差出し明け渡しできるのが 
最後のピースという気はしているのですが・・ 

まぁ、いずれその時節がくるのを信じて諦めず 
憧れながら今ここに生かされていることを忘れず 

これからの人生それを信じていくだけでも 
貴重な時間だと思えるようになりましたしね~ 

ここ花岡温泉の特効能かも・・(笑) 

これからも目覚めの湯守番ヨロシク 乙です! 

 

 

 

【読者T】身体

花岡さん、みなさんこんにちは。 

Kさん久しぶりで嬉しいです。 
Kさんと私に違いなどありませんよ。 
今すぐにでも出来ますよきっと。自分に許可を与え、信頼すれば。 

私たちはこの身体に収まっているのではなく、一人一人が身体よりもっともっと大きくて、素晴らしい存在なんだと思います。 
私と言う物などなく、本当はみんなが繋がっていて、私だと思ってるのは錯覚かもしれませんね。 
花岡さんの言う、真実は真逆だと言う事。とても理解出来ます。 

今は私だと思ってる身体を使い表現や色々な経験をしています。大切な乗り物ですから、大事に、慈しむ気持ちで身体と接する事は自然な事ですね。 

日常的な生活をしていれば、自我むきだしだし、沢山の事が、現れては消えて行くの繰り返しですよね。 

それを静かな心で観察者のように振る舞えば、周りには冷たい人に見えるかも知れないですが、私たちが一人一人、人間は見えてる部分だけじゃないんだと言う認識も必要ですね。 
人の気持ちなど計り知れないのですから。 

自分と他人との境など無いのではないかと思います。 
自分と他人との違いは個性の違いで、同じものなのではないでしょうか。 

たったほんの数秒でも、かいま見たら、何十年の苦悩が綺麗に無くなる程です。 
そして、また戻って「違うかな?」と思い、日常に戻るけど、今度は違うのに気づきます。 
本当の自分に気付いたら、一体私は誰に自分を明け渡していたのかと思います。 
自分の人生なんだから、自分が主導権を握っていいんだと気付きます。 

最後のピースをはめられないのは、違う人の人生を生きてるような錯覚に陥るからなんですよね。 
今リアルな自分が居るだけで、そこには初めから全てがあるんです。 
ただ錯覚してるだけです。 
何にもないから欲しい、欲しいと、がむしゃらに得ようとしてるけれど、これも真逆です。本当は全てあるのです。 

実は私たちは悦びや幸せそのもので、起こる事は起こる事として、あるがまま受け入れて行けばいいと言う事なんですね。 

今の自分で十分なんですよね。 
全て満たされてるから何にも要らないと思う感覚は誰でも今すぐ体験出来る事なんです。 

私は花岡さんとここに居るみなさんと幸せを分かち合えればそれでいいんです。 
温泉に浸かって癒されて私も元気もらってます。

 

 

 

【読者K】おかみさん時間ですよ~

Tさん、今晩は~ 
さっそくの打てば響くような返信ありがとさんです。 

なんか花岡温泉のおかみさんキャラが板について 
きたっていうかピッタリですね~ 

今日の返信の壺は 

>最後のピースをはめられないのは、違う人の人>生を生きてるような錯覚に陥るからなんですよね。

いや~まったくその通りで 自我がベッタリ感情を張り付けてきて、まるで他人が自分をコントロールしているような不快感を感じますよね 

>今の自分で十分なんですよね。 
>全て満たされてるから何にも要らないと思う感覚>は誰でも今すぐ体験出来る事なんです。 

これもまったくそうで今すぐにでも出来ることなのに 

いざとなるともの凄く抵抗してくるんですよね 
自我は常に感情を引き連れてくるので 

頭と意思でやろうとしても無理でそれはとっとと降参して、やはり思い切りと勇気なんでしょうね・・・ 

あとはお任せすればちゃんとハートが 
連れて行ってくれると信じ切ればいいだけなのにね 

なんかスパっとできない自分がはがゆいですよ 

アッそうそうおかみさん時間ですよ~ 

 

 

 

【読者T】はいよ~

花岡さん、みなさんおはようございます。 

Kさん、返信ありがとう。私で力になれてるなら、とっても嬉しいです。 
自我が邪魔するのよくわかります。思考の束が襲って来ますよね。 
長年それが当たり前と思って自我に許して来ちゃったからね。 
自我の思考に抵抗しても苦しいだけです、自我も私たちの一部だから、それを潔く認め、受け入れ抵抗を止めて眺めるだけにする訓練を繰り返しやって行けばこちらが習慣になりますね。一番手っ取り早いのは、今ここに居てハートからの愛を感じていれば、何があってもその事と自分は何の関係もなく、自分はいつでも幸福な存在なんだと思えます。 

思考が浮かんだら、ほら!Kさんの例のラップ!思い出して! 
あれはみんなを救いましたよ! 

思考に思考で対決したってまた思考にはまるだけだから、思考に気付き、 
「おっ!今思考にはまってる、はまってる!」ぐらいな気持ちでやり過ごす。実際ドツボにはまり、深刻に成る程事態は悪くなんてないんですから。 

疲れたら休めばいい。 
やりたくなかったら先のばしにしたっていい。 
自分に許してあげればいいんです。だいたい私たちは自分に厳し過ぎです。甘やかす事って人間を堕落させる事じゃないと思います。信じて自由にさせるのは、むしろその逆だと思います。 

焦らないで、待つ事は消極的ではなく、積極的な行動だと私は思います。 

静かになれば、ハートが愛で溢れ出すから。 
それに絶大な信頼を寄せれば向こうから経験がやって来ます。しかもお土産つきで。

Kさん明け渡すのすごく怖いね。 
でもその「怖い」もうんと感じてあげれば、消えてなくなります。だってただの影だから。 
明るい部屋では影は存在しないですからね。 

なんで?どうして?何故出来ないんだ!と言う経験も目覚めの兆しだと受け止め、思い切って手を離してしまうと花岡さんが言った向こうから手を掴んでくれるってわかります。 

今すぐ出来ますよ。その後の事は神がやってくれますよ。自分で何とかするより、数段スマートに数段素晴らしく。

もともとそういう事になってたんだ…っておかしくて笑ってしまうかもしれません。 

人生のからくりなんて本当はすごくシンプルで、すごく簡単だったと知らされます。 

花岡温泉でゆったりと浸かって癒されるくらい本当は素晴らしい世界に浸かってるって事です。 

 

 

 

【読者A】今すぐ

>今すぐ出来ますよ 

とみなさん言うけれど、 
実際に今すぐできた試しがない・・・。 

今すぐできる方法を超具体的に、もれなく、この通りやったら100%間違いなくできる、という方法を示していただくことはできないものでしょうか? 

つまり、この世界では、そういうことが当然だと思うのです。 
アンテナを設置して、正しく接続し、テレビの電源ボタンを入れればテレビが映る。 

パソコン買ってきて、プロバイダと契約して、正しく設定や接続をすれば、ネットが見れる。 

そういうわけには行かないんでしょうか??

 

 

 

【読者M】こんにちは

私が、花岡温泉を大好きな理由~♪ 
私にとってこの温泉は、伝えて下さる物を受け取る場だから。 
学ぶでもなく、教えられるでもなく、受け取る場所。 
寄り添っていて下さるような、気持ちになります。 
指導では無く、ただ伝えて下さる感じ。 
だから、物凄く素直な心で受け取れるのです。 
勿論、花岡さんだけではありません。 
皆さんが、そうだもの。 
悩みや疑問(質問)ですら、自分の事のように感じます。 

目覚めている方の、講演会に行った事があります。 
何だかしっくり来なくて、自分の思い違いかと、再度確認の為に講演会に行きました。 
それでも、感覚で生きている私には何か違った・・・。 
(それは私の感覚なので、講演をしていらっしゃる方がどうこうっていう批判ではありません。) 
その時に、自分の幻想を知りました。 
目覚めた人は、素晴らしいって思い込んでた。 
でも、目覚めたからって素晴らしい訳じゃないって分かった。 
帰り道、一人でクスクス笑いながら歩いていました。(←かなり変な人) 
だって、面白かったのです。 
自分の幻想が。思い込みが。 
なぁんだ~って思ったら肩から力がすうっと抜けた。 
でもでも、講演をなさっていらっしゃる方も勝手に凄い人扱いされるのも、良い迷惑ですよね。 
勝手に凄い人と思い込み、勝手に幻滅した私がいた、と言うだけの事ですから。(笑) 

そんな私は、ここが大好きです。