わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

罰当たり?(その3) 花岡修平「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

罰当たり?(その3)

 

これからわたしは、なんとも罰当たりな事を語ろうとしています。

たぶん、宗教界、その組織からも信者さんからも怒られるかも知れません。
言わなければ言わないでもいい事なんですけどね。

でも、人の気づきは何がきっかけで始まるかわかりません。

わたしは人の奥底にヒットするような、完全無欠な言葉は語れませんが、下手な鉄砲も数を打っているうちに、何かヒントになりそうな的に当たるかも知れません。

怒られそうな事でも、あえて言ってみます。

前回の記事では、国レベルで、かき集めるよりも分け与え合える意識状態に移行するなら、この星は浄土となるだろうと言いました。
そのとおりだと思います。が・・・

でも。

そうはなりません。

この世界には、この世界の役目があるからです。
もしも、この世界が浄土となったなら、もはや誰も生まれてくる理由が無くなるからです。
苦悩というものに満ちていながら、同時に愛や慈悲にも満ちている世界、それだから、体験もでき、学び知る事が出来ます。

調和の取れた平和な世界にいて、どうして平和の大切さに気づく事が出来るでしょうか?
きっと、どっぷりと平和ボケに浸っているに違いないのです。
物質世界のように、二元に分かれた波乱な世界だから気づきがあるのです。
戦争があるから、平和の尊さに気づくのです。

浄土は穏やかに違いありません。
真我は神々しく、聖性な世界に在るに違いありません。
愛と喜びに満ち溢れた世界では、苦悩に学ぶ事はできません。
ですから神の活動、聖性エネルギーの循環のために我々は主人公になって二元世界の物語を輪廻する体験を始めるのです。

元々ひとつに存在していた我々です。
かつてご苦労なされた仏陀も、キリストも同じです。
我々と何も異なる者ではありません。
聖人、賢者、智者、どのように崇められる人でも、同じです。

だから、わたしもあなたも、誰でも、仏陀になる可能性があり、キリストになる可能性があるのです。
そのような全く変わらない組成なのです。
最終的には、彼らと同じになるのです。

それだから、この事を言います。

仏陀もキリストも、遠い彼方の存在と思わないでください。
そう思うなら、どんどん彼方に遠のいてしまいます。
つまり、我々がそれになるチャンスを、遠く追いやってしまっているという事を言っているのです。

むしろ最も近い敬愛する存在として、そばに居るようにしてください。
畏れ敬い、仰ぎ崇拝する、手の届かない存在とするから、遠ざかっているのです。

わたしは、仏陀もキリストもムハンマドもクリシュナもミラレパも、尊敬し愛する親友として捉えています。
だって、同じなんですから。
彼等と我々は、同じ所から来て、同じ所に帰る、同じ神の組成なのだから。

同じ可能性を持った、なにも違わない存在です。
上下も優劣もありません。

遠ざけず、近づいて行くのです。
友とも親とも慕い、身近に置くのです。

とても畏れ多く罰当たりな事を言ってるでしょうか?
でもわたしは思うのです。
きっと彼らも、そうしなさいと言うはずです。
あなた方を、決して遠くに追いやる事などしないはずです。

人から教えられた信仰の仕方は、本当に間違っていないのでしょうか?
押し付けられた型に、はまっていないでしょうか?
本当の信仰は、形骸化されるものではありません。
作法もしきたりも道具も、本当はいらないのではないでしょうか?

本当はみんな、それを知っているのです。
知っていながら、組織の教義に拘るから、知っていない人となっているのです。
洗脳は、本人には気づかないものです。

そのように、みんな、洗脳されてるのかも知れません。

 

2012-10-15

 

 

 

【読者A】 罰当たりじゃないですよ

花岡さん、相次ぐ更新ありがとうございます。 
毎回楽しみにしております。 

エスも「私は友である」みたいなこと言ってませんでしたっけ。 
それに「『先生』と呼ばれてはならない」とも。 

 

 

 

【花岡】おひさしぶりです

Aさん、こんにちは。 

お元気そうでなによりです。 

なかなか定期的には更新できませんが、楽しみにしてくれているなら励みにもなりますので、書き続けようと思います。 

今後とも、よろしくお願いしますね。