プライドというマーヤ 花岡修平「真我が目覚める時」
◎コメント欄から読者との問答をふたつ付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。
プライドというマーヤ
人が他の人より優れているとか、劣っているという事はありません。
ですが、世間はそのように見てしまいます。
人の質とは根本からそうなのではなく、ただ役柄です。
幼稚園の発表会で、園児全員が桃太郎を演じていては演技になりません。
誰もが桃太郎をやりたくても、誰かが赤鬼を、青鬼を、あるいはサルやキジ、犬をやらないといけないわけです。
しかし、赤鬼にとっては、あるいは他の役柄にとっては、それが主人公の物語なのです。
赤鬼物語であり、青鬼物語、サル物語・・・なのです。
そうして人は、これが赤鬼というものである、青鬼というものであると学ぶのです。
それが彼の役目、つまり役柄の目的です。
今、他から虐げ(しいたげ)られている人は、辛い毎日を暮らしているかも知れません。
しかし、かつての遍歴に於いては彼も、虐げる側に立っていたかも知れないのです。
そのようにして人は、両方の立場を学び知り、「虐げる」と「虐げられる」の二者を捨て、中道に立つのでしょう。
生とは、生れ落ちる事とは、つまりこのような学び知る事のために起こっている、彼のための現象です。
そのように人は、自己と他との関わりを持つ事で、知るべきを知って行くのです。
修行に走る人は、それで学ぶかも知れません。
しかし、世俗に暮らしていてもそれと同等以上の修行に繋がっていると知るべきです。
霊性の修行というものは、どうであれ、今置かれた立場に於いて、成されていくとわたしは考えます。
誰もが導かれ、その役目を担っているのだと考えます。
それだから、辛い立場にある人は、自ら死を選択するような事をせずに、耐えてください。
ほんとうは、その辛さは、抱えている、掴んでいる、執着している対象の故に辛いのだと、もうすぐ知る事になるからです。
ここを誤解してはいけません。
対象そのものではなく、対象への拘り、執着、価値判断の事を言っているのです。
人が大事だ、大切だと思う対象は、そのへんに転がって落ちてる石のかけらと同じ位つまらない事の方が多いのです。
そのような、つまらないものにしがみ付いていた事に気づき、捨て去ってしまえばいいのです。
そうは言っても人は、なかなか捨て去るのは難しい。
後の事を思えば恐れが生じる。
苦を体験した者は、更なる苦という幻を恐れる。
しがらみ、世間からの非難、ひょっとしたら捨て去ることは逃げや、自分勝手な事なのではと思い為す。
とんでもない思い違いです。
人は本来、自由なのです。
人のエゴが作り出した社会の常識が、あなたの心を金縛りにさせています。
掴んでいるものから自由になる事がまず必要です。
まず、自由になった喜びを味わう事が、前進の第一歩なのです。
あるいは、プライド、意地、がそうさせない人もいます。
負け犬になるのが嫌なのです。それを恥だと思い込むのです。
蔑すまれる(さげすまれる)より蔑む側に居たいのです。
誤った価値判断というマーヤに覆われているのです。
そのような人は、まだまだ辛さを学ぶ必要があるのでしょう。
プライドは、本来の自分を覆い隠すエゴの魔法です。
自分は他より優れていると思い為すのは、欠如した能力を知っているからその反動として、それを否定するために思うのでしょう。
つまりプライドとは、コンプレックスの否定型を言っているのです。
真実優れた人は、優れている事などひけらかさず、優れているとも思っていません。
また劣等感なども無く、あるがままの自分を受け入れています。
それはまあ、プライドを原動力に戦うのは、ある程度成功を手にするかも知れません。
でも、それがどれほどの価値をもつのでしょうか。
それは、つまり、執着を極めたという結果でしかないのです。
プライドを持って、意地で、負けてたまるかという一心で、金メダルを取ったとしても、一時もてはやされるだけで、すぐ人々の記憶から消えていきます。
賞賛を得られていない自分、褒められもしない自分を否定したいための、意地、プライド、それは全く、賞賛を得たい、褒められたいという欲の現れでしかありません。
優れている、劣っているという二極の見方をしているうちは捨てられません。
ひとつの極と、相対する極との両方を学び知った者は、二極を捨て、中道に生きるのです。
プライドと、自分を誇りに思う事とを混同してはいけません。
プライドという武装を捨てた自分こそ、誇りに思うべきです。
しかし、プライドや恐れによって手放す事ができない人も、間違っているわけではありません。
役柄の目的、役目です。
それを学ぶのです。
知らない事は学ばねばなりません。
体験により知った事は、記憶から消えてしまっても、人の本質の中で脈々と息づいています。
そのようにして人は、新しい人としての質を得ていくのです。
体験から知り得たことは、単なる知識とは違い、魂の血肉となり、霊性向上の懸け橋となって行きます。
なんと神の完璧な事か。
全ては、人を愛するが故の彼の意図なのです。
リーラー(神の戯れ)とは、単なるお遊びではなく、尊い主題をもった神の活動です。
いずれ、順次人は完全な資質を備え、知るべきを知り尽くし、この世もあの世も自己をも放棄し、真実の自分に溶け込むのでしょう。
唯一の、絶対者に溶け込むのです。
そうなっても人は死にません。
今、そのままそうなっても、身体は滅びません。
死ぬのはエゴだけです。
また、たとえ身体がその役目を終えて、それぞれの分子が地球の組成に帰ったとしても、本質意識に死はあり得ないのです。
真実の自分を知り得た者は、それが絶対者の世界に、いつだって在った事を知る事になります。
永劫に。
始めも、終わりも、ありません。
2013-02-01
[読者HN] はじめまして
最近、このブログを知り、最初から少しずつ読ませていただいています。
まだ途中ですが、質問させていただけますか?
私には、3歳と4歳の子供がいます。
なるべく私が受け取った価値観を押し付けないように育てたいと思うのですが、「ダメ」「これはこうでしょ」と言わずにいるのが難しいのです。
何も言わなくても、自然と理解し行動するようになるまで待っても本当に良いと思われますか?
突然で申し訳ありません。
考えをお聞かせいただけると幸いです。
[花岡] Re: はじめまして
HNさん、はじめまして。
何も言わないでもいいはずがありません。
何も間違っていないというのは、そういう事ではありません。
価値観を押し付けてようが、彼らがそれをどう扱おうが、大丈夫導かれますから間違っていませんという事です。
赤ちゃんに何も教えずにそのままであれば、いつまでも赤ちゃんのままです。
価値観を押し付けるのは良くないように思われたかも知れません。
しかし、社会ではこのような価値観をもっているという事は知らないといけないのです。
そうでなければ、どうやって社会を生きていけるでしょうか。
ほとんどの人は、そのような受け継がれた価値観で生きているのですから。
現象世界に生まれてきたのは、現象世界を知るためです。
既に知り尽くしているのであれば、生まれてくる必要はないでしょう。
現象世界とそれを現す原因世界を二つとも知って、はじめて魂(個性をもった意識)は生まれてくる必要のない者となります。
お子さんに対しては価値観を押し付けるのではなく、教え育てるスタンスで居なければならないと思います。
自分が刷り込まれた価値観をそのまま伝えるのではなく、「こういう理由でダメ」「こういう理由があるからこれはこうなのです」と、教えないといけないと思うのです。
それが母の立場、「育てる」「育む」という事だと思うのです。
「ダメ」「こうでしょう」は、周囲の責任を持たない人の立場です。
そのうえで、彼らが、「お母さんはそう言うけれど、僕らはこう思うんだよ」と言うなら彼らの価値観なのだと言う事です。
そのように自分の中からも独自の気づきが起こりだすのが望ましいのです。
違う価値観、判断材料もあるのだと知っていければいいのです。
誰による価値観であろうが、育っていく過程で、人が完成されていく過程で価値観は変わっていきます。
なぜなら、体験して苦悩や喜びを知って行くからです。
ほんとうの、人に教える教師とは、体験なのだという事です。
つまり生きるとは、そのように導かれるという事なのです。
そうであるから、少しずつでも人は、真実の世界とその気づきに向かって歩を進めていると言えるのです。
価値観を押し付けるのはいけないという判断基準も、つまり正しいとは言えません。
彼らが導かれて行くのだという事を、疑わないでください。
彼らを最も愛しているのは、神です。
それだから、同じように愛している、あなたを通して生を授けたのです。
おおらかな気持ちで、愛してあげてください。
あなたの中に神が在る事を思い起こしてください。
神の愛を、母の愛同様に、お子さんにも分けてあげてください。
[読者HN] ありがとうございます
早速の丁寧なご回答ありがとうございました。
そうですね。おおらかに、でも私なりの『こう思う』を伝えていきたいと思います。
インナーチャイルドという言葉を聞かれたことがおありかと思います。大人になってから、小さい頃に受けた傷を癒す必要があるなら、最初からなるべく傷付けたくないという思いがあり、迷っていました。
また、すべてが意識の世界とかたくさんの次元の地球があるなどと聞くと、すべては自分次第だと思えて、人に意見を言うことに抵抗を感じていました。
でも、私が今感じられるのは、この地球で、この社会で、他人も存在しているという感覚です。なので、今はこの社会に適応できるように育てるしかないのでしょうね。
私の感覚が違ってくれば自然と育て方も変わるのだと思います。
すべてを手放し、流れを信頼して行きます。
これからもブログ楽しみにしています。
どうもありがとうございました。
[読者BB] 覚者の自我
おはようございます。
今日は、一つご意見を頂きたいと思いまして、やって参りました。
それは、覚醒(目覚め)と人格の関係です。
どうやら覚者と思われる方同士の自我がぶつかり合うことがよくあるようでして、ネット上で批判合戦となった例をいくつか知りました(具体的にはマスター的な方同士の例を少なくとも3例知っております)。
それと、覚醒してもなお、意外なほど自己顕示欲が強い方もおられることもなんとなく分かりました(これは自分も含めてです、苦笑)。
それで、今朝ネットで検索しておりましたら、覚醒と人格の成長とは別だと断言しておらる方を発見しました。この方は、覚者同士は一般に仲が悪いものだとも言っておられました。
それが事実なら残念なことだと思いながら、でもその見解はある程度当たっているのではないかとも思った次第です。
そして、自分のこともしっかりと見つめ直さないといけないと思った次第です。
前置きが長くなりましたが、
花岡さんはどう思われますか?
覚醒と人格の成長とは別という点、どう思われますか?
それと、覚者同士の仲が悪いのが普通だという点、どう思われますか?
ちなみに、その方は、覚者であっても、現実世界に生きている限り、簡単には仲良くはできないもので、それが普通で、それでいいのだと言っておられました。そして、喧嘩したりしながら学んでいくのだと。
私としましては、現実世界の一面に改めて直面したような感じがしております。
[読者BB] 上の書き込みの一部修正です
すみませんが、上のコメントの一部を修正させてください。
覚醒と人格の成長が別だという指摘に関する記載は、私自身による誇張が入り過ぎているということが分かりました。
正確には、その方は、覚醒と人格とが比例しない場合が多いと言っておられます。
以上です。
[読者BB] また来てしまいました
ちょっと思い付いたことがありましたので、またやって参りました。すみません、またドタバタしておりまして。私はどこまでもドタバタ人間のようです(苦笑)。
覚者の手薄になりやすいといころとして、
対人関係なのだということが分かりました。
私も含めて。
でも、どうしてそうなのでしょうかね。
覚醒すると、自身の内面を注視するウエイトが高まるからでしょうか。
あるいは、覚醒するということはそういうことなのでしょうか。
そして、それでいいのだ、ということなのでしょうか。
かく言う私自身も、心境の変化の後、他の方とのコミュニケーションに違和感やギャップを感じておりまして、現在もとまどいの中におります。
もう少しなんとかならないものかと思うのですが、
これはしょうがないことなのでしょうかね。
すみません、またこちらに押しかけてバタバタと書き込みいたしまして。
ここまで書きまして、これは基本的にどうしようもないことで、そして各個人で対処すべきことなのだろうということが分かってきました。
花岡さんは、無理にお返事されようとせずスルーして下さい。
ただ、この部分は戸惑われる方が多いのではないかと思うのです。
[読者BB] また少し分かったことが
これが、菩薩行なのですね。
改めて分かりました。
こうして書き込みをさせて頂いたお陰で、また少し分かりました。
感謝の気持ちをお送り致します。
[花岡]BBさんへ
これはあくまでもわたしに伝えられた事ですので、そのまま受け取る必要はありません。
さて。
目覚めた人は、他のどのような見解にも惑わされる事はありません。
目覚めた人は、人はそれぞれに、そのような性質を持つという事を認め、否定も肯定もする事がありません。
多くの人は一気に神の領域に溶け込む事は不可能です。
人が世俗を生きなければいけないうちは、馴染みのある個性を捨て切れてはいません。
それは時として見解の相違という形で現れるかも知れません。
そのような真実目覚めた人ではない人々は、互いに自分の理解こそが正当だと主張します。
その主張こそが自我にどっぷりはまっている証拠である事は疑いようがありません。
人は目覚めたからと言って、他の人を矯正しようなどとはしません。
他の人に教えようなどとは思いません。
ただ、聞かれたら答えるのみです。
それは教えるという行為ではなく、ただ分かち合うという程の行為です。
であるから、否定されても苦でもありません。
もしも人が真実神に触れたのであれば、どうして他の人の見解が気になるのでしょう。
真実は神が教えてくれるのです。
誰がどう言ったからとて、まったく頓着しません。
真実目覚めた人は、他の覚者と仲良くする理由がないから仲良くしないだけです。
決して敵対などせず、否定も肯定もしないのです。
例えばラマナ・マハルシとクリシュナムルティとが他の人には険悪な関係に見えたとしても、それは敵対しているのではなく、仲良くする理由が無かったというだけの事です。
批判、中傷、「わたし」の主張、嫌悪、排他、それらが伴うなら、それは世俗に生きる人です。
そのような対立がなぜ気になりますか?
人がどういう見解を主張しても気にしてはいけません。
ただ内なる真我から伝えられる智慧だけを拠り所としなければいけません。
そのような姿勢が、よりあなたと真我との距離を近づけます。
ハートから溢れ出る愛と至福を楽しみながら、内なる神に逢いに行くのです。
それ以外に何が必要でしょうか。
世俗の事は世俗に生きる人に任せておけばいいのです。
人格というのは、その人のステージの問題であり、個性の問題でもあります。
「わたし」を脱ぎ捨てた人がそのような事に翻弄される事はありません。
[読者BB] ありがとうございます
お返事を丁寧に書いて頂いてありがとうございます。
文面から花岡さんの愛を感じます。
素直に感謝いたします。
仰ること、よく分かります(頭で分かっているだけの部分もありすが)。
お返事を読ませて頂いて思ったことがあります。
うまく言えませんが、ポイントは、大いなる存在とどれくらいしっかりと一体化できているかというところにあるのだろうと思いました。
花岡さんは大いなる存在をしっかりと感じておられるのだと思います(本当にそう思います)。
でも、気づきを体験した人の多くは、それぞれの方がご自身でも言われている通り、気づきを水面にたとえるとその水面上で浮つ沈みついったりきたりしているのだと思います。
とすると、まだまだエゴもちらほら見え隠れしますし、どうしても内側よりも外側が気になってしまうこともよくあるのだと思います。
まさに、そういうことだと思うのです。
私もそうです。
ここからは、私の私見がさらに入りますので、聞き流してください。
気づきの水面を浮きつ沈みつでも、それでいいじゃないか、と開き直るのも一つの生き方だと思うのです。
極端なことを言えば、せっかく感じた大いなる存在ですが、そのことを忘れてしまってもいいじゃないかって(笑)。
時期がくれば、存在の方からまたやってくる訳だし。
現実世界の中で生活してるんだから、少々人間臭くてもそれはそれでいいじゃないかって。それに仕方ないところもあるよって。
それで、納得いかずにもう一度転生をやり直すことになってもいいじゃないかって。
そのときはまたやればいいさって。
何度でもやるさって。
これまでもそうしてきたんだしって。
転生もけっして悪いもんじゃないしって。
すみません、開き直りの言いたい放題になってしまいました。
などと書かせて頂きながら、また一つ分かったことがありました。
やっぱり、「人それぞれ」なのだなぁと。
「人それぞれ」、これは結構大事なところなんだろうなぁと。
さらには、ここを受け入れられない人は、それこそまだまだエゴどっぷりなのだろうなぁと。
そうか、上で花岡さんが仰ろうとしていることはそういうことなのかと、やっと分かったのでした(笑)。
ありがとうございました。m(_ _)m