わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

癌・あるいは進行性の重篤な病 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎読者のコメントと花岡さんのレスポンスも付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

癌・あるいは進行性の重篤な病

 

ある人には突然このような事が起こります。
つまり、どうにも死を覚悟しなければならない病。
しかも、余命数ヶ月、数週間という差し迫った状況に置かれる時、人は耐えられない恐怖に駆られるに違いありません。

やりたかった事、描く将来、希望のかけらも見いだせない絶望感。
この悲しみ、残して行かなければならない家族、愛する者達への想い、苦悩は計り知れないものがあるでしょう。

若い元気な人は、このような状況を考える事すら無いでしょうが、しかし、若かろうが高齢だろうが、そのような突然の悲劇は予告なしに襲ってくる事があるのです。

人は誰でも、死について考える必要があると思います。
死について考えるとは、死んでやろうとか、死後どうなるか?とか、生まれ変わるのか?とか考える事ではありません。
そのような、どうでもいい事ではなく、「今を精一杯生きる」に繋げるための考察なのです。

「一日一生」と申します。

たとえ今日一日で自分の命が果てたとしても、心残りなどなく安心して逝けるように、今日一日を一生分として大切に生きていようという事です。

余命を宣告された患者さんは、最初はもちろん戸惑い、恐れ、絶望に襲われるでしょう。
当然の事です。

しかし、もはや手を尽くしても、どうにも治癒が望めないなら、受け入れるしかないし、実際受け入れるでしょう。
そうであるなら、残りわずかな日々を、精一杯、人間として誇れる生き方をしようとするでしょう。
貴重な日々、僅かな時間だからこそ、「今をどう生きているか」見つめながら生きるでしょう。

その時彼は、「今」を生きているのです。

悪性リンパ腫で、あっという間に先にいってしまった従兄は、そういう現実を完全に受け入れて、残りの日々を生きました。
わたしは知らなかったのですが、彼は、わたしが神に気づくずっと以前に、何年も前に既に神を悟っていたようです。
その当時、わたしはあらゆる宗教から逃げ回っていたので、彼を遠ざけていたのです。
ところが、悪性リンパ腫という病気になり、彼の奥さんから話を伺うと、まったく同じように明け渡す事で神を悟ったというのです。
それを聞いて彼と話をしようにも、もはやベッドの上で呼吸する事さえやっとの状態でした。

激痛に耐えながら、脳にまで腫瘍が転移して何も喋れない彼の胸に手を当て、神に完全に委ねているなら、救われているから大丈夫だよと波動を送ると、わたしの顔を見つめハアハアと荒い呼吸のまま、うんうんと頷くのです。
耳も聞こえているかどうかさえ明確ではないので、声で語ったりはしませんが、それでも彼は理解して頷いたのです。
何度も、何度も。
わたしのハートには、わかっている、わかっていると、響いてきました。
その数時間後に、彼は安らかに神の国に入りました。

また、二十代の若さで乳がんで旅立った友達は、死を受け入れ、純粋な感謝の心で神のもとに帰って行きました。
彼女は自らの死を完全に受け入れた瞬間から、同時に神の愛を受け入れ、喜びに満たされていたに違いないのです。

そうであるなら、そのような重篤な病気になるずっと以前から死を受け入れきっているなら、どれほど神の傍に近づけたか計り知れません。

それだから人は死について真剣に考えておかなければならないと思うのです。
誰だって必ず死を迎えるのですから。
それは生きるという事を考える事です。

このまま自我を神に明け渡し、一度死んで、神のみこころを完全に受けれて生まれ変わるのです。

誰でも新しく生まれるのではければ、神の国に入る事はできないと、イエスは申されました。

たかが数十年の人生です。
あっという間に過ぎ去ります。
その短い人生の毎日が、神に出会うチャンスなのに、この一瞬一瞬の今が全部チャンスなのに、もったいなくはないですか?

自我にへばり付いていては気づきません。
今、病気も無く、元気なうちに、神と和解するべきなのです。
ひとに喧嘩を売ったり、卑劣な虐めをしていてどうします。

生も死も、神からのプレゼンスです。
誰にもそれが必要だから、与えられているのです。

神を、あなたの源泉を、思い起こしてください。

神は待っているに違いないのですから。

片想いのまま、待っているのですから。

 

 

2012-10-25

 

 

 

[読者MMM]小さい時から、何度か死にかけるほど病気になっているのに、まだ私は、今をしっかりと生きていない。
省みないといけないですね。いつも先のことや、過去にとらわれてしまうので。 

私のブログに、貴ブログのリンクをさせていただきました。 
いつも私は、貴ブログで勉強させていただいています。ほかの方にもシェアさせていただきたいので、よろしくお願いします

 

[花岡]MMMさん、こんばんは。 

ブログをお持ちだったんですね。 
今、拝見させていただきました。 

お酒についての記事が面白いですね。 
わたしはアルコールは一切受け付けない体質です。 

MMMさんは、楽しいお酒のようでいいですね。 

リンクについては自由に扱ってください。 
今後ともよろしくお願いします。 

 

[読者MK]

花岡様 

始めまして 

ブログ、いつも興味深く読ませて頂いております。 

ここは知恵の倉庫みたいですね。 

ところで、いきなりの質問で恐縮なのですが。 

全託、明け渡しが大切なことは頭では理解しているつもりです。 

自分はいつも、「御心のままに」と祈ることを習慣にしています。 

サイババさん曰く「あなたの全ての問題を私に解決させなさい。それらの問題について考えるのは、この私である」 

といっています。 
また、ラマナ・マハルシも 

「彼に全てを完全にゆだねなさい。重荷は彼のものだ」 
と述べています。 

それが全託だと。 

ただここで疑問が生じます。 

やはり自分で出来る問題解決の最善の努力も必要ではなかろうか?と。 

この相反する矛盾が最近、自分を悩ませています。 

よきアドバイスをいただけれは幸いです。 

 

 

[花岡]MKさん、おはようございます。 
コメントありがとうございます。 


> 自分はいつも、「御心のままに」と祈ることを習慣にしています。 


心のままに 
とても、すばらしいと思います。 
ちょっとここで、考えてみてください。 

心のままに・・・に、何が続きますか? 

心のままになさってください? 
心のままになりますように? 

どうでしょう。 

まあいいのですが、わたしとしては思うのです。 
あくまでもわたしの立場です。 

御心に、こうしてくださいとか、そうでありますようにとか・・・わたしは言えないのです。 
それはとても、違和感があります。 
絶対的に間違っていないそれが、そのとおり現れていくのに、どうしてわたしはそれに対してあれやこれや言えるでしょう。 

わたしが御心のままに・・・と言うときのそれは。 

心のままに受け入れます。 

という事です。 

それは、わたしに対しての、また御心そのものに対しての、神に対しての宣言です。 
そうやってわたしは、明け渡している事を、受け入れている事を、自らに言い聞かせているのです。 


> ただここで疑問が生じます。 
やはり自分で出来る問題解決の最善の努力も必要ではなかろうか?と。 
この相反する矛盾が最近、自分を悩ませています。 


この質問は、多くの人が注目する問題でしょう。 
きっとみなさんが、ここで「どうなんだ?どうなんだ?」って思っているのです。 
そして、これについてのわたしの答えは、とても明確です。 

ですが、申し訳ございません。 
これについて答える事を、わたしはしてはいけないのです。 
それは人を混乱に陥らせる可能性があります。 

多くの人は、まだそれを知ってはいけないのです。 
そのように、内なる声に制止されました。 

ほんとに用が足りず、ごめんなさいね。 

ぜひ内なる静寂の中で洞察して頂きたく思います。 
努力とは何か。 
それにより得られるものは何か。 
そもそも得られるとは何か。 
また、それらが必要な問題など、ほんとうにあるのか。 

答えはあるのです。 
でも、これは、わたしの立場では、密教の範疇です。

 

*赤字部分は、私がマークしたもの。花岡さんは、コメント欄で何回か同じように、「言ってはいけない。」と内なる声=神から制止されている。(ブログ管理人より)

 

 

[読者KTR]

MK様

はじめまして。KTRといいます。 
私が実際経験したことですが・・・・どうかなぁと迷いながらコメント書きました。 

 「明け渡す」 
 基本的に自分が何かのことで動揺や不安を持っている状態では出来ません。 
 私が(させられた)ことは 
 一人でいる空間を持つこと。(無言) 
 自然の中に身をおく。(朝や夕のウォーキング) 
 美を見聞き(音楽、絵画) 
 これを何日か毎日していくと、深く痛めた心や不安が消えてきます。心がすんすんな感じでしょうか。
 その時ふと「全て神様にお任せします。」という気持ちになって言葉にしていました。 
  
 大いなる自然や美しい調和は乱れたバランスを直してくださるようです。 
 頭で心で思い考えるのではなく、何も無いただすんすんな自分(湖畔の朝焼けみたいな?)でただその事柄をお任せするのです。 

 何日かすると「・・・・・・・・」という強いインスピレーションが入りました。それは「あ!そうなんだ!そうしよう」と不思議なくらい自分で納得いくことです。 
 私の場合は「病院へ連れて行こう!」でした。 

 その次が大事だなって思うことですが。 
「必ず実行する」です。 

 私は本人がどうだろうとか気にしませんでした。「行くんだ!」しか心にはありませんでした。 
 インスピレーションで受けた啓示を信じる!です。 
  
 すると、不思議にも何にも抵抗なく同行してくれました。そして、あれよあれよと不思議な偶然な出会いが繰り返され、私の人生で最も過酷な超難解問題がマジックのように解決したのです。 
  
 今彼は無事大学へ行っています。中学3年で中退かと危惧しました。精神病になっていくのかと危惧しました。障害と発達障害という二重苦を持った子と二人精一杯生きてきた途中に起こった出来事でした。 
 たとえどんなに自分の人生を全否定されて傷ついても、精神が病んで幻聴幻覚が見えてきても、大丈夫!!神様が直してくださいます。道を教えてくださいます。神様は仁愛。感謝です。 

 長くなってすみませんでした。ちょっとコメント・・・ 
コメントって勇気要りますね。。。。 
 
 
 
[読者MK]
花岡様 

ご質問に対するコメントありがとうございます。 

そうですか、これは密教の範疇なんですね。 

難しいです。 

ところで、御心のままにという祈りですが、厳密にはこう祈っています。 
「御心にゆだねる事ができますように」と。 

絶対に間違わない、それが現れているとしても、やはりゆだねきることが出来ないのもので。そう出来たらいいな、くらいの気分的な祈りです。 

KTR様 

コメントに対するアドバイス、感謝します。 

KTR様みたいにインスピレーションを受けて大胆な行動を頭でなくハートからした方を2人ほど知っていますのでよく分かる気がします。 

ただ、自分の場合、繋がっていないと申しましょうか、啓示にウトイんですよね(笑) 

例えば、本屋で素晴らしい本と出合ったりして、これは神の啓示だ、贈り物だ、なんて真剣に思ったりすることが多々あります。 
もちろん真剣に取り組みました。教えを学びに著者のところまで足を運んだこともあります。 
教えを吸収するのに数年かけたこともあります。結果は散々でしたが。 

しかし、その努力は無駄であったかと聞かれれば・・・ 

やはり無駄でしたね(笑) 

しかし、いずれ、高い視野から見られるようになれば無駄ではなかった、ということになるのかもしれませんが。 

いずれにせよ、今は人事を尽くして天命を待つみたいな心境です。 

結局のところ、変容は恩寵でしかないと思いますので。