わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

お答えします「苦痛のこと」【完全版】 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、以前掲載した記事:

shikoutoshi.hatenablog.jp

の完全版になる。今回の記事はHさんから頂いた記事で、行替えがオリジナルのまま。コメント欄から、質問者のお礼の言葉も付け加えておいた。

 

お答えします「苦痛のこと」

 

Mさんからの質問です。

Mさん、お久しぶりです。
畑仕事はまだ終わってませんが、気になるのでお答えします。
ですが、この答えで何かを得られるとかは、期待しないでくださいね。


> ごめんなさい、もう一ついいでしょうか?
お久しぶりです。私も、花岡さんにお尋ねしたいことがあります。

苦痛について。
真実私には苦痛なんてないというのはなんとなく漠然とわかっていますが、私には(「わたし」という身体の者には)苦痛は耐え難いと思うことがあります。特にいつまでこれが続くんだろうという先が見えないタイプの苦痛や、手早くやらなきゃならないなど時間制限を伴う苦痛が苦手です。

無理をして我慢しますが、耐えればいいことがあるとか耐えなきゃいけないんだというような自我に訴える手段はあまり得意ではありません。
いつも自我に同一化して振り回されてるんですが、そういう美徳で自我を刺激することは違和感しかなく真実と思えないし好きじゃないんです。
ただ無理をして我慢しても、わたしは嫌なので引きずられてそのうち限界が来たりします。苦痛を味わうとか受け入れるとかも聞きますが結局苦しくて嫌になります。よくわかりません。嫌だからと逃げるわけにはいかないときもあります。
苦痛に対して、どうしたらいいのか教えて下さい。



苦痛には身体的痛みと精神的な痛みがありますが、どちらについての苦痛なのでしょう。
身体的苦痛は、痛み止めを処方して、ある程度どうにかなるでしょうから、恐らく精神的な苦痛についてなのでしょうね。

苦痛など無いのだ、と無理やり思いこもうとする必要などございません。
思いこむ事は理解していないという事です。
そうであるなら、苦痛などないと思う事すら、苦痛の要因です。

苦痛を感じているのだから、苦痛はあるのだ、でいいのです。
それで、まず、苦痛の否定から解放されます。

なんであれ、気持ちに無理な負荷をかけるから、苦痛となるのです。
そうであるから、苦痛は苦痛として味わって当然です。
苦痛は誰だって嫌なものです。
ただ、なぜ苦痛と感じているのかを、見破り知っている必要はあります。

我々は無意識のうちに、自分の価値観によって理想を想うのかも知れません。
その基準に著しくズレを感じるとき、嫌悪や逃避を知らずに思い浮かべたりするのかも知れません。
自我は、自我にさえ気づかぬうちにそれをやってのけます。

真実を受け入れる事無しに、価値基準を疑う事無く、その基準とズレていると思うから苦痛が現れるのでしょう。

つまり、真実が苦痛を生み出すのではなく、価値基準、判断基準が苦痛の原因となっているかも知れないという事です。

相談者が、何に対して苦痛なのか、具体的に言及していないのでわかりませんが、落ち着いて洞察してみるとき、その真実に苦痛を感じているのか、あるいは真実を否定している事で苦痛を作り出しているのか、わかるかも知れません。

現れ来るのはいつだって真実からです。
それに、自己の意味づけをする事で、現実として作り出し、見ているのです。

苦痛などないのだ、という苦痛の否定に逃げる事無しに、それが真実苦痛であるのかを見てみるのはどうでしょう。
利己的であるとき、自分の都合によって、苦痛であるとしてしまう事があります。
そういう時は、自分以外の者にその理由を押し付けているかも知れません。
誰かのせいにして、自分の落ち度を認めないのかも知れません。

あるいは、苦痛に思うその事が、ほんとうはとても大切な経験しておくべき事である事もあります。
苦痛を感じながらも、なんとかこなして、結果得難い事を得る事もあるからです。

それでも、真実苦痛である場合もあります。
どう考えても、苦痛以外の隠れた意味など無い事が起こる事もあります。

そのような起こる事によって、我々は動かされて行きます。

その苦痛から逃れようとする事は、その事を利用して、導かれる事もあるかも知れないという事です。
自我の我々には、真実の図り事は、まさに計り知れません。

そのようにして運ばれて行く事が、実は、予定された整合された順路であるやも知れないのです。

それだから逃避そのものを悪い事だと意味づけても正解ではありません。

前の記事で、夢、希望、その理想を追い求め、そればっかり見ているのであれば、今への否定であり逃避であると書きましたが、そうする必要があるのであれば、今の生き方を変えて、あるいは捨てていいのではないでしょうか。
前の記事での相談者は外国に暮すのが夢と言われました。
しかし、外国に暮す必要があるのだと思っているのであれば、夢ではなく意思なのです。
それは逃避でも今の否定でもなく、今の続きなのです。
はっきりとした意思、それは夢とは言いません。
夢としたままであるなら、いつまでも今を逃げているだけです。
わたしはそうする必要がある、そうなる必要がある、そのような明確な意思が、夢だった事を今に展開させて夢ではなく現実とさせてしまうのです。

それと同じように、苦痛からの逃避そのものを逃避としないために、この苦痛から離れる必要がある事を認められるのであれば、はっきりとした意思として持てばいいのです。

その時、最早逃避の不実さは消滅し、意味を持つ行動へと動き出すのです。

我々はいつだって、動かされて行くように、事象が現れてくるのです。
そして、それが動く時、それは動くようになっていた事が成就されたのです。

苦痛さえ楽しく味わって生きていける、そんな人は聖者です。

聖者でもない我々は、苦痛から離れる事でより楽しい生き方をしていいのです。

また、その苦痛から逃れずそこに留まろうが、そこから離れて楽な生き方をして行こうが、そうなって行くどれもこれもが、意味によって予定された整合された行動であって、そうなる時はそうなってしまう、という原則が頑としてそこにあるのです。

そうしたいと思っていても、そうはならず、そうはしたくないと思っていても、そうなってしまう。

我々は、間違いなく運ばれていて、それを自分で選択意思決定していると思っている不思議な自分(自我)を生きているのです。
それは、自我の中では自分の選択意思決定である事は間違いないのですが、真実から見たら、それは運ばれているのです。

つまり、誰もかれもが、そのように見守られて、つまり、愛されて、大事に生かされている存在なのです。

あなたの神は、そのようにあなたをいつも離れてはいません。

その大きな愛を、我々は噛みしめ、味わえたらいいですね。

そう深刻にならずに、広い心で自分の外も内も見渡してみるのがいいようです。

 

2014-5-10

 

 

 

[質問者M]お答えありがとうございます

畑仕事の手を休めてまでありがとうございます! 

何度も読み返してました。 
言葉にするのは難しいのですが、なんとなく腑に落ちました。 

意味付けによって苦痛であることもあります。どちらかわからないものもあります。毎日の生活で辛い日も働く苦痛もあります。 

その嫌なままを否定せず、拒否するにしても諦めて苦痛でも逃れるにしてもどちらでもいいんですね。 
御心を信頼していきます!