わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

信じるから宗教闘争が起こってしまう  花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

信じるから宗教闘争が起こってしまう

 

キリストの教え、イスラムの教え、ヒンドゥーの教え、よくよく見てみれば結局は同じものを目指していると言えます。

それなのに、宗教を旗印に争うのは何故でしょう。

もしもイエスムハンマド、クリシュナが三者会談をしたとして、そこに争いは生じません。
目覚めた彼らは互いに祝福し合い、喜びのうちに歓談するに違いないのです。

争うのは信者、信徒の、信じるというそれに発端があるようです。

たしかに清らかな信仰は、自らを清浄し、真に神に通じる道を開く手段になり得るかも知れません。
しかしながら、信仰には、その言う処を全く理解する、わかるという、「信じるを超えた」覚醒が必要です。
それがあればこそ、神の栄光を享受できるのです。

そのような人々が、宗教を由来にした争いをするでしょうか。

争うのは、わかっていないのに信じてしまうからでしょう。
信じるという事と、わかるという事は、全く違う意味です。
人は、わからずして信じる事が出来てしまうのです。

この事は、まったく不思議です。
こうなのだよと言われ、根拠も何も無く信じてしまう。
言ったら、洗脳に陥っているのです。

そうしてこの教えは絶対だと言ってのけます。
掴んで、所有してしまっているのです。
完全な執着に気づかずに、それしかないと思い為すから、貶され(けなされ)れば怒りが生じます。

教えの言う処がわかっている人は、貶されようが蔑まれ(さげすまれ)ようが、心に波紋を起こしたりはしないでしょう。
敵対する事も無く、そのように途上にある人を決してジャッジする事はないでしょう。

そのような宗教、教えに由来する争いごとは、メジャーな宗教よりむしろ、新興宗教に顕著のようです。

中には教祖自ら、敵対する相手を罵る(ののしる)という残念な団体もあります。
あるいは、同門の派閥同士でのいざこざもあるでしょう。
仲間同士で争っているのです。

ただ、見解の相違というだけで、争いに発展します。

信じてしまえば、もうそれより深い理解は難しくなります。
信じるという事は、わからずして受け取るという事だからです。

宗教だけではありません。
哲学も、自然科学も、信じているならそれはただ知識です。
知識はやがて、忘れてしまう事もあります。
でも、完全にわかった事は、奥底に大切に仕舞い込まれ、いつでも、いつまでも展開可能です。

信じるから団体を構えます。
ほんとうはわかっていないから、仲間で固まろうとするのでしょう。
わかっていれば、自由です。
なにからも拘束されず、独りであっても神と共にあるから孤独ではありません。

それだから親鸞は、自分にはたった一人の弟子も居ないと言われるのでしょう。
それだから一休禅師は、ボロ袈裟を来て、風来坊のような生活を楽しめたのでしょう。

なぜ仏陀は、独りで三年麻麦の行に入ったのでしょうか。

なぜイエスは、独りで荒野で呼ばわる声を聴いていたのでしょうか。

なぜ名高き賢者たちは、五感を刺激する事の無い洞窟の中で、独り座り続けたのでしょうか。

周囲に影響される事無く、自らの内から覚醒を呼び起こすのでなければ、真の自己には出会えないような気がします。

それだから、わたしの言う事などはもちろん、何も信じてはいけないと言うのです。
ただ、内なる真実をわかるように努めなければならないと思うのです。

団体組織の中では様々な、雑多な、わずらわしい関係が邪魔をします。
他人の見解を自分の理解と置き換えてしまいがちです。
それがいわゆる「信じる」という事です。

自分の内に、真実「わかった」状態に辿り着くなら、宗教の相違や見解の相違で争う事など全くないし、どの立場の人も、どの見解を抱いている人も、非難したりせず、許せるはずです。


仏陀は仏教を起こしてはいません。
エスキリスト教を起こしてはいません。
みんな後に、それを信じてしまった人、わかっていない人たちが宗教にしてしまっただけです。

最初の聖者たちは、真理、真実を説いただけです。

あくまでも、神と自分との間だけの事。
その素晴らしい関係が、そうであるとわかっただけの事。
その素晴らしさの故に、誰にも分け与えられるべきだと思っただけの事。

それが、争いの種になる事など、あるはずがないのです。

もはや、宗教から抜け出すべきではないでしょうか。
そのほうが純粋に「わかるちから」が働きます。

必要なのは誰かの教えではなく、自分の内なる理解です。
聖典に真理が書かれているとしても、それは言葉であって、味も香りもありません。
自ら内側に神をわかってはじめて、味も香りも楽しめるのです。
その時はじめて、聖典は正しかったと、心底言い切れるのです。

あなたがクリシュナになるのです。
あなたがムハンマドになるのです。
あなたがイエスになるのです。

向いている方向を、変えればいいのです。

あなたの中の、内なる神の方向を向けばいいのです。

 

 

2012-11-25