わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

あなたとわたしという分離 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

あなたとわたしという分離

 

現世と言われるこの二元世界(相対世界)では、一方と逆の一方という捉え方をします。

自我に映し出される世界は、マーハー・マーヤ(偉大なる幻想)の力によって、
そのように仕組まれています。

表だけでは紙になりません。裏も必要です。
S極とN極があって磁石です。
昼と夜で一日です。
あなた(客体)とわたし(主体)で世界です。

もちろんこの大宇宙には、ミクロからマクロまで貫く、とても緻密に計算され尽くした、美しい見事な法則があって、それによって運行されているのでしょう。
しかしながら、このようなものすごい宇宙さえ、あなた自身が創作しているのだと
ある日知らされるのです。

この二元世界では、見る者と見られる者が、どうしても分離してしまいます。
「わたし」がいるためには、「あなた」がいなければならないからです。

さあ、そこで、・・・

感覚してみてください。

地球上に、彼も、彼女も、あの人も、知ってる人も、名前さえ知らない人も、
誰も存在していなかったとしたら・・・
全く、この地球に自分一人しかいなかったら。

そのような状況の中で、ことさらに「わたしは」「わたしの」「わたしと」「わたしが」・・・
何に対して、誰に対して「わたし」を主張する事が必要でしょう。
だれもいないのに、できませんよね。

そのような世界を思い起こしてください。

「わたし」を言い張るわたしなど、必要が無い事に気づきます。

なんだか知らないけど、ただ在る状態に気づきます。
見えるものを、ただ見えるように見るしかない状態です。
それにいちいち名前を付けて、定義しても、しょうがない事に気づきます。

源泉と、自分との関係だけの世界がそこにあります。
その時に、この身体さえ宇宙の一部であり、宇宙と境界なく繋がって全部で一つの宇宙だとわかります。
そうであるならば、宇宙は自分の頭になってしまいます。

バガヴァット・ギータで、母親が幼いクリシュナの口の中を覗いたら、
そこに広大な宇宙が在るのを見て驚いたというくだりがあります。

そう、宇宙は、マーヤの作用によって、自身の想念が作り出した世界です。
それが自我意識に展開されています。
そうであるならば、「わたし」と主張しなければならない理由などありません。
「わたし」は無くていいのです。

そのように感覚できたなら、そして、自分が無いことを感覚できたなら、サハスラーラが開いたのです。
もはや宇宙はあなたの頭です。

みんなそのように、ただ、源泉と自分との関係にあります。
それ以外は、自分で描いたキャラクターの彼であり、彼女であり、あの人であり、見知らぬ人です。
そしてそれぞれの、つまり、彼の、彼女の、あの人の、見知らぬ人の、あちら側のその意識と、マーヤによって交差していくから、
描いたキャラクターに、「あなた」を感じるのです。

ほんとうは、頭に、自我意識に自分で展開した世界です。
ほんとうのわたし、その実体は、源泉にあります。
あなたも、わたしも、彼も、彼女も、あの人も、見知らぬ人も、源泉にあるのです。

みんな在って、ひとつの在るです。

あなたとわたしという、この分離は、マーヤによって自我に現された幻の物語にすぎません。

そうであるならば、

感覚してみてください。

あなたが意識に展開している宇宙も、彼も、彼女も、あの人も、見知らぬ人も、全部、
それは、あなたそのものです。
ほんとうは、なにも分離していません。

それをわかる意識が、覚醒するのです。

ただ純粋な、清らかな、天心な源泉への強い憧れが必要です。


2012-03-19