わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

救いの神子 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎これは、クリスマス・イヴの記事。Hさんから頂いた記事です。

 

救いの神子

 

わたしにとっては、いつもの「今」なのですが、世間では聖夜という事ですので、聖書など開いてみました。

様々な登場人物がいる中で、やはり聖書なのでイエスの事がクローズアップされている訳です。
これはそういう訳で、イエスの物語となっているのです。

しかし別の登場人物、例えば総督ピラトゥについてクローズアップした物語があるとすれば、ある時期に彼のもとにユダヤの王、イエスが連れて来られて罪を詮議する場面が現れる訳です。

エスとピラトゥの意識に現れる世界は、それぞれ違う世界を見ているのですが、意識が関わり合い反応し合う場面が用意される事によって、お互いの物語のある部分が成就されるように仕組まれているとも言える訳です。

そのようにして、イエスの物語とピラトゥの物語が、また他の群衆達の物語が整合されて行くという事です。
全ての人のそのような関わりと反応が、偶然起きていると考えるのは、かなり無理があるというのは理解できるでしょうか。
物語は、既に描かれているのです。

そのイエスの物語をクローズアップして、誰かが記した書物を聖書と言ってる訳です。

エスはそのように、既に描かれている事を知っていたから、鶏が何度鳴くかさえ言い当てられた訳です。
偶然で進行しているなら、言い当てられる訳がないのです。

それはさておいて。

救いの神子。

そのように言われるのであれば、イエスが救う事をしたから言われる訳です。

随所に現れる奇跡、例えば脚萎えに、「立って歩け」と言えば、脚萎えが元気に歩き出したとか、目盲になんちゃらしたら見えるようになったとか、そういう現象の事ではなく、つまり現象は、ただ現象であって、まあそれでも何らかの救いにはなるのでしょうが、神に通じる救いの事ではない訳です。

総督ピラトゥは、イエスに罪を見る事が出来ず、それでも群衆が罪人であると主張するから、群衆の立法により裁くようにイエスを彼等に引き渡したのです。

祭司長はじめ群衆達がイエスを十字架にはりつけ、イエスは神の子である群衆によって裁かれ命を絶たれたのです。
これは、群衆の罪である訳です。
また、それを阻止しなかった全ての民の罪でもあるのです。

この罪を救ったのはイエス自身だったという事。

エスは群衆や民を許しきったのです。
それであるから、あえて「悲しみの道」と呼ばれるゴルゴダに通じる道を、十字架を引きずりながら歩いたのです。
そして、ヤリで突き刺す人を睨み付ける事も無く、彼等の行為を全く許しきって首を垂れました。

その許しによって罪は浄められたのです。
彼の流す血によって、人々の罪科が消え失せたのです。

キリストが人々の罪を負い救いをもたらしたと言うのは、そういう事です。

許しきる事で、相手の罪も痛みも、自分の罪も痛みも、救ってしまえると言う事です。
キリストがこの罪を許したから、そこに人々が神の許しを、神の救いを見たのです。
許せない罪を許すが故に、人は救われるのだと、人々が見たのです。

それはあなたが許しきる事でもそうなります。

神にあなたが許され、愛されているように。
あなたもそうやって、許し、愛する事で、あなたも、あなたが許せないと思い為す相手も、共に神に救い上げられるのです。

この事がわかるでしょうか。

神に通じる救いとは現象の事ではなく、イエス、彼の愛そのものによる許しの事なのです。

もちろん、あなたの愛も許しと救いをもたらします。

そうであるから、真実の愛を知らなければいけないと言うのです。

真実の愛は、異性愛や愛欲のような倒錯でも執着でもありません。

多くの人がこれを知りません。
知らないから許せないのです。

最終ステージに近い人は、絶対知らなければいけません。

特定の何かを、あるいは誰かを愛していると言うのは、愛ではなく所有であり執着であり倒錯です。

全てを愛しなさい。
さもなくば、何も愛さない事です。

 

2012-12-24

 

 

*私的感想を述べれば、「これは、ちょと。。。。」と言う記事。率直に言って、花岡さんの記事の中では、出来がよくないと思う。まず、文体が、あまりに一本調子で断定的だ。花岡さん自身が自分について言っていた言葉、「私の書くものは、説教臭い。」が思い出される。

最後の部分、「最終ステージに近い人は、絶対知らなければいけません。特定の何かを、あるいは誰かを愛していると言うのは、愛ではなく所有であり執着であり倒錯です。全てを愛しなさい。さもなくば、何も愛さない事です。」も、「はっ?」という感じだ。これは、ご自身が言ってきたことに矛盾する。「ハートが開いた」時に、自然にすべてが愛だと知り、自然にすべてを愛さずにいられなくなるのではなかったか?なぜ、そうなる前に、「命令口調」でこんなことを言うのか?また、特定の何か/誰かを愛することと、何も/誰も愛さないことを比べた時、どちらがましか?執着であれ、所有であれ、そこには「解放」以前の「愛」が変形した形でからみついている。なにも愛さないことの中には、愛はない。さらに、全てを愛することは、極めて困難だが、何も愛さないことも極めて困難だ。オール・オア・ナッシング?あることを厳格に嫌うあまりに、すべてを投げ捨てる態度だ。ここで花岡さんは、極めておかしなことを言っていると私には感じられる。

以上、私の個人的感想でした。(ブログ管理人より)