お答えします「空中浮遊・超能力とワンネスと悟り」 花岡修平 「真我が目覚める時」
◎質問者のお礼の言葉と他の読者のコメントを付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。
お答えします「空中浮遊・超能力とワンネスと悟り」
Sさんからの質問です。
> はじめてコメントさせていただきます。
空中浮揚やテレポーテーションなど諸々な力と悟りは関係ないといいます。
悟りと超能力、またワンネスはどの様な観点なのでしょう?
それは単に、何が可能であるかの度合いでしょうか。
自分が神であると悟ることは、ワンネスという繋がり以上の力を意味するのでしょうか?
悟りという言葉を使ってしまうから、真実が想念でかき消され、遠く隔てた彼方の事となってしまいます。
言葉で解釈しようとすれば、何もわからない。
また、自分が神であると悟る事は、悟る事ではなく、思い違いをしているのです。
これも神という言葉を使うから、今まで造り上げてきた神の定義、意味づけ、すなわち実際には知る由も無い神に、自分なりのイメージを置いてしまうのです。
言葉は定義で出来ているのです。
またその定義は思考が作り上げたのです。
実際には、悟りも神も、言葉にはできません。
それは、ただ「わかる」だけです。
「わかる状態」に無いのであれば、わからないのです。
瞑想そのもので、「わかる」という事は無いのだけれど、「わかる状態」に近づく事は可能です。
悟った人が「神」と言う名称を使うのは、あくまでも便宜上の事であって、名称そのものはどうでもいいのです。
「それ」でもいいし、「これ」でもいいし、「ヤハゥエ」だろうが「アッラー」だろうが、どうでもいいのです。
ただ、それは在るから、しかも、言いようが無いから、神と言っているだけなのです。
真実在るのは、それだけであり、その他は恒久に存在するものではありません。
それだから、ワンネスなのであり、しかもワンネスという言葉を使うから、自分なりのワンネスを皆さん思い浮かべるのです。
この一如というほんとうの意味を、真実悟って、改めて言葉にするときに、「全部がそれだ」と言い切れるなら、やっとワンネスがわかったのでしょう。
そしてまた、それは「ちから」や「可能性」やそのような、この世的な意味の事ではなく、つまり何かをする為のものでもなく、何かになる為のものでもなく、それはただそうであるのであって、そうであるだけでありながら、言葉によらず明らかに知る事になり、それだから明知と言われ、真実の愛も至福も明らかに知る事となり、満たされた在り方に在る事になってしまうのです。
いいですか。
なるのではなく、なってしまうのです。
自分(自我・マインド)が神なのではなく、神がこの自分を具現せしめているのです。
また、この自分の中に全てを具現せしめているのです。
悟りも神も、自分の持っているイメージを適用しているうちは、わかりようがないのです。
そのマインド、思考を超えて行かない事には、最初のとっかかりにさえ届きません。
さて、空中浮揚、テレポーション、テレキネシス、いわゆる超能力についての質問ですが、そのようなものに憧れを抱く心理はわかります。
しかしながら、それが何の役に立つのでしょう。
かつて空中浮揚と称して座ったままジャンプする、ある方の痛々しい映像を見た事があります。
ご本人が楽しめているのなら、それでいいのですが、そこにはマインド、自我に翻弄された哀しい姿しかありませんでした。
そのような事は、現実という夢の中で、更に非日常という妄想の中に陥っているようなものです。
そのような人が、最も悟りに遠いのです。
それは人が作り出した気づきへのトラップでしかありません。
つまり、現実を逃避する誘導なのです。
仏陀が八大神通について言及したのは、あくまでも深遠世界に入った状態での洞察を意味しているのであって、それは洞察の加速に役立つからそう言ったのであって、この現実という自我が見る夢の世界、物質世界での物理的現象を言っているのではないのです。
スプーンは、スプーンとして使って役に立つのです。
スプーンを曲げたからと言って、曲げた事が何かの役に立つわけでも無く、スプーンとしても使えないのです。
そしてまた、サイババが手から、ビブーティを出した、指輪を出した、何かを出した、としても、それが何なのでしょう。
そのような眼に見える現象が悟りや神を知る事に役立つ訳でもなく、人の真実の幸せに寄与する事でもありません。
それは「信じる」事に人々を釘づけにする事はあっても、「信じる」状態であれば、他の人の理解を知識として溜め込んだだけで、自己の完全な澄み渡るような理解を味わう事にはならないのです。
悟りや神について、あなたが知りたいのであれば、この現実世界に現れ来るこの今の、意味を学ばなければならないのではないでしょうか。
なぜなら、これはそのために現れ来るからです。
現れは、過去の原因と結果の継続によって生まれてくるのではなく、最初に意味があって、そのために現れ来るからです。
これは教えられるものではなく、自ら解かなければならないあなたの為に用意された現れです。
悟りや神を誰かに教えてもらえると思っていては、いつまでも自ら知ろうとする事はありません。
それは教えてもらえる事ではありません。
もしも教えてもらえる事であれば、過去の賢者の弟子はみんな悟ったに違いないのです。
自ら知らなければなりません。
師は、そのための手法を提示しているに過ぎないのです。
興味をそそる超能力、娯楽としては面白そうですけど、あろうがなかろうが、どうでもいい事です。
かまけていてどうしますか。
幽霊やUFO、UMA、不可思議な事は、マインドが作り出そうとすれば、いくらでも作り出せますが、娯楽ネタに過ぎません。
かまけていてどうしますか。
この「今」に戻って来て、大切な事を洞察するべきではないでしょうか。
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さて、頂いた質問はこれで全部お答えしました。
お待たせした方には、最早質問した事さえ覚えておられないかも知れませんが、こちらも色々忙しくもあり容赦願いたいと思います。
そしてさて、畑を耕さないといけません。
楽しみながら、神を想いながら、それをしたいと思います。
わたしの経済力は既に破綻しておりますが、意に介しません。
いつ死んでも、受容しきっているからです。
神と共に在る、この喜びだけで、もうおなか一杯です。
ただただ、有難い。
これで、一杯です。
2014-05-06
[読者Y]ありがとうございます。
花岡さん、お忙しい中お返事を本当にありがとうございました。
畑…はお野菜でしょうか?
これからの時期、お野菜や果物が美味しい季節ですね。
お母さまもで元気でしょうか?
花岡さんから頂いた言葉の中で、一つのものしか
観ていないのなら、それは観ていないのと同じだというものがありました。
とても大切なことだと感じ、感情やあるひとつの物事に捉われそうになったら、思い出します。
まだまだ、思考や感情に巻き込まれてしまうこともありますが、それでもふと、思い出すのです。
畑仕事、楽しんでくださいね。
いつもありがとうございます。
[読者SS]ありがとうございます。
お忙しい中、色々とありがとうございます。
また、ふと気づいたのでちょっとコメントを(^^;
花岡さんのこの文章を読みまして
> また、この自分の中に全てを具現せしめているのです。
…つまり「私」の持ってる観念や概念を通して、神というか全体意識というか大自然エネルギーというか、何か知りませんが、それの中に内在する色んなものが、「現象」として現れてくるのかなぁ、と思いました。
すると「私」ってのは、ただの土管か何かなんだなぁと。
なんか大きな全体から流れてくるもの、意識の波を、思考や感情や…「世界」として表現する為の、媒体。
土管は土管らしく、流れてくるものを流してればいいのかなぁと思いました。
もし「あんな水嫌だ、こんな水嫌だ、キレイな水だけがいいー!!」とか言ってたら、土管の役目は果たせません。
「明け渡ししないと、水が流れない」
花岡さんのおかげで、やっと「私 (自我)」というものの役目が分かった気がします(^^)
そうか、私は土管だったんだ!(笑)
[質問者S]質問お答え頂きありがとうございます。
今をより知覚できるよう、より今の中で可能性について思い巡らしていこうと思います。愛が可能性を支えてくれているから、私はただ選択し、それを味わいたいと思います。