わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

感謝とお知らせ

2019-06-03記

●今回の大量掲載によって、花岡さんのブログ「真我が目覚める時」のすべての記事を収録することができました。今まで記事を送ってくださった多くの方々、また、貴重な情報を提供してくださった方々に深く感謝申し上げます。

本ブログ「わたしの終わり」は、2015年10月19日に開始され、わたしは最初の記事を次のように書きました:

数年前、「真我が目覚める時」というブログに出会った。

自らの覚醒と悟りの体験を綴ったブログで、作者の名は花岡修平。

 

一読して本物だとわかる稀有なオーラを放ち、真摯に覚醒を求める

人たちのコメントで溢れていた。

 

しかし、今年の夏に訪問したら、すでにブログは閉鎖されていた。

 

私は時々訪問しては、彼の言葉から放射されるこの世を超えた光の

ようなものを浴びることを楽しみにしていたので、この閉鎖はかなり

の衝撃だった。

 

しかし、花岡さんがブログを閉鎖したのは必然だったようにも思える。

語るべきことはすべて語り尽くしたのだ、と私は感じたのだ。

 

本来、花岡さんはブログを開設すべきではなかった、とも思う。

なぜなら、あのような体験を言語化し公表することには、ある危険性が伴うからだ。

 

ブッタは真理を悟った後、ひとり黙しているべきか、それとも人々に説くべきか迷った。話しても理解されないだろうという思いがあったからだ。

 

言語というものは伝えると同時に伝えることを妨げる性質をもっている。

真理の誤解はその無理解よりもずっと危険だ。

 

しかし、言葉というものは不思議なもので、ひとたび発せられると

作者から分離し、それ自身の存在と生命を獲得するようになる。

 

昔の日本人は「言霊」と言ったが、ルドルフシュタイナーが理解するところのヘーゲルはそれを「概念」と言った。

 

花岡修平の言葉たちは今やほとんどネット上から消え去っているが、

私はいくつか気に入った記事を保存しておいた。

 

その言葉たちをこれから何回かに分けアップしていこう。

 

花岡さんは許してくれると思う。

彼の言葉たちはすでに彼と分離し、独自の生き物になってしまっているからだ。

 

さらに、彼に「所有権」なるものはない。なぜなら、彼には所有の主体である「我=エゴ」がないからだ。

 

すべては神のなさることであり、神の手に委ねられている。

花岡さんはいつもそう言っていた。

 

それからおよそ3年半の時を経て、奇跡的にそのミッションを完遂することができたのは、ひとえに「みこころ」の故でしょう。花岡さんがブログを閉鎖されたのも「みこころ」。今こうして異なる形で復活したのも「みこころ」。そこには、わたしたち個々人の意思を超えた神の意思が働いているように感じられてなりません。

●読者の皆様へ:今後は、「花岡修平図書館」=カテゴリー「花岡修平」としてご利用ください。

 

 ブログ管理人より