わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

birdie さんへの返信:「明け渡し」について

記事「感謝とお知らせ」に、birdie さんという方から次のようなコメントをいただきました。

 birdie

今わたしは、かつての花岡さんと同じような状況にあります。でも、明け渡す、ということがどうしても実感としてつかめません。だから、いつまでたっても苦しみの中にあります。
誰か、助けてください・・・。

 このコメントを読んで、私は長いこと考え込んでしまいました。そして、返信を書き始めたのですが、あまりに長くなり、コメント欄のスペースに収まりません。そこで、記事という形で返信することにしました。

 

birdie さんへ

birdie さん、私もあなたの同類です。苦しみ、お察しいたします。とてもよくわかります。

私もかつて花岡さんの記事を読み、「明け渡し」をしようと何度も試みたことがあります。でも、上手くいきませんでした。 いくら、「神よ、あなたにすべてを委ねます。みこころのままに私をお運びください。」と宣言しようが、文言を変えて、えい!やあ!と一気に自我を捨て去った気になっても、何も変わらないんです。

で、花岡さんの「明け渡し」について書いてあるいくつかの記事を読み直してみました。 たとえば、記事「あなたへのメッセージ」では、次のように言っています:

 みなさん。 いい加減、このマインドの罠に気づいてください。 喜びも、愛も、命も、いりません!って宣言しないと受け取れません。 宣言して、真実そうなるのでなければ、与えられないのです。 これは完全に神からの恩寵です。 完全に明け渡せた事による、神からのご褒美なんです。 この実感が、そう知らせてくれます。 自分がこの愛の故に喜び泣くとき、神もいっしょに喜び泣いているのを、ほんとうにほんとうに感じるのです。 まったく神と自分は同一であって離れた存在ではない事を知らされるのです。 そうであるなら、裏切ってはいけません。 完全に神を信頼しきって、何も期待する事無く、愛も喜びも命も期待する事無く、全てを明け渡すのです。 明け渡した後でも、そのように裏切る事なく日常を生きるのです。 あなたが手放したくないもの、そんなチッポケなものよりも、この広大無辺な全てと同一化するほうがいいに決まっているじゃないですか。 なぜ、そのような幻を掴んでいるのでしょうか? 苦という毒を吐きだす幻を、いつまで握っているのですか? 神を信頼して、裏切らず、明け渡すだけで、苦悩から解放されるのですから、そうしたほうがいいに決まっています。 我々は、この同じ愛を共有するのです。 それが、神の分け御霊(わけみたま)である我々の喜ばしい姿なのです。 そうすれば、どこにでも、だれにでも、あらゆるものに神を見出せます。 その度に、このハートに喜びが溢れてきます。 どのような罪さえ救われて、どのような事さえ許してしまえます。 全て在るものは、神の臨在である事を知るのです。 それ以外に存在する物など無い事を、このように、こんなにも実感できるのです。 わたしは、同じ事を、何度も言い続けています。 耳を傾けてください。 自我も、マインドも、一切の期待も手放し、あなたの源泉に明け渡してください。 それはあなたを裏切りません。 けっして突き放したりはしません。 ただ、期待も一緒に明け渡してください。 全て、その御心に任せ、与えられるものだけを頂いてください。 そうするなら、この大きな愛と共に、全てが与えられるでしょう。 そして次第に、智慧による理解が起こっていくでしょう。 そうなってしまうんです。 そうなってしまいましたっていう報告を、待っています。 なにも要らない! なにも惜しくない! 静かな所で、そう宣言するのです。 そう宣言して、どこにもそのカケラを残していない事を確認してください。 ミラクルが起こります。

 。。。これ、ちょっとおかしくないですか? 期待も明け渡せ、つまり、手放せ、と言ってるわけですが、最後に、「ミラクルが起こります。」と言ってしまっています。してはいけない期待を再び花岡さん自身が持ち込んでしまっている。。。。

それから、 「なにも要らない!なにも惜しくない!静かな所で、そう宣言するのです。そう宣言して、どこにもそのカケラを残していない事を確認してください。」 と言ったって、その確認は困難です。

また、記事「結局最後は明け渡しです」では、次のように言っています:

 わたしはこの「明け渡し」という事すら知らないでいました。 知らないでいたのに、究極の苦悩、究極の困窮によって、自分の一切を諦め、後の一切を源泉が運んで行くそれに、ただ任せようと思いました。 それ以外に打つ手がもう無かったのです。 そう思った以上、何が起ころうが文句を言わず、起こる事、起こって行く事を全て受け入れようと思いました。 この自分に関わる一切と、自分以外の存在の一切を現している大いなる根本存在が在るのだという立場にあったから、それが出来たのです。 それは逃げる事ではなく、諦めて為すがままに受け入れるという、開き直り向き合う立場に立ったから出来たのです。

 。。。。源泉=神があるという立場を確立してない人はどうしたらいいんでしょうか?花岡さんは、25歳の時に、突然、「神はある!」という啓示を受けたそうです。そして、それは信じる事とは違うと言っていますが、ほとんどの人はそんな啓示を受けていないわけです。

また、記事「あの日の夜」では:

人生最大の困窮に陥り。 数日後の夜、わたしは打ちひしがれ、ふらふらと庭に出てたたずみ、深く深く内側の奥底を覗いていました。 万策尽きたわたしは、「もう捨ててしまおう。何とかしようという思いを離れ、そのように流している何かがあるのなら、流れに任せよう」 そのように思い、諦める事を選択したのです。 あたりは真っ暗で、静まり返り、夜とわたしだけがそこにありました。 その時、周囲の雰囲気に異変を感じました。 周りの波動が明らかに変わり、そして背後から近づく幾つかの存在を感じたのです。

。。。「そのように思い、諦める事を選択したのです。」とだけ述べていて、あまり参考になりません。

 

正直に告白しますが、「私の場合」、花岡さん自身が行った明け渡しの記述や、花岡さんが、明け渡しはこうやるんだ!と言っている記事は、有効ではありませんでした。上に引用した記事で言っていることは、みんな試しました。でも、何も変わりませんでした。苦しみも変わらず、状況も変わらずです。(もちろん、有効だった方々も多くいらっしゃると思いますが、私の場合です。)

そこで、私は、花岡さんが体験したような明け渡し、ハートのオープニング、援助者の出現といった奇跡への期待、これらすべてを諦めたのです。

「花岡さんのような明け渡しは、俺にはできない。覚醒も起こらない。奇跡的な状況の好転も無理だ。神もいてもいなくてもいい。否定も肯定もしない。ただ、全てを手放そう。花岡さんの言ったこともすべて手放そう。」 そう思い定め、大きくため息をつきました。その後、しばらく、頭がカラッポになり、ボーッとしていました。

で、ふと思ったのです。 「待てよ。このままでいいんじゃないか?このカラッポ頭の状態でいいんじゃないか?これが、このまま続けばいいだけのことじゃないか?今、なんの感情もないぞ。苦しみもないぞ。恐怖もないぞ。」

これは、ちょっとした発見でした。

そのカラッポでニュートラルな状態で、自分の部屋を見まわし、また、自分の生活状況をイメージの中で見まわしてみました。

すると、不思議なことに、「今、自分は変わることなく存在している。生活状況もそのまま変わらずある。しかし、以前よりもっとクリアに見える。恐怖感が抜け落ちている。」ことに気づいたのです。

来るべきものは、論理的にやってきます。支払いです。払うお金がありません。するとどうなるか?論理的結果がやってきます。それが、恐怖感なしに見えてきました。 恐怖や苦悩によってゆがめられると、このプロセスは速められたり、拡大されたりしますが、そのままの速度とサイズで見えてきたのです。

心が静まり、思考が湧いてきません。 じ~っとその静寂に聴き入っていると、時間の流れる感覚が変わってきました。遅くなってきています。 外に出て、自転車で周囲を走ってみました。

何か変なのです。 隙間=ギャップのようなものが感覚できるのです。 道路、人、家、車がいつも通り存在し、 いつも通り動いているのですが、 (うまく言葉で表現できませんが) それらは、「詰まって」いなくて、隙間がたくさん見えるのです。(意味不明だと思いますが) 自由に動ける感覚、あれらの隙間の彼方に見える可能性の感覚。

その感覚と一緒に自宅にもどり、もう一度部屋全体を見まわし、生活状況も見まわしてみました。

財布を開けて中身を見ます。

3,000円ありました。

全財産です。

。。。。。。

あのカラッポでニュートラルな状態+遅くなった時間の流れ+物事の間にある隙間が見える状態。 それで、しげしげと、この3,000円を見つめました。

「ああ、客観的に3,000円あるな。」 そう思いました。

それから、ある考えが浮かんできました。

「物事は、勝手にその論理で動いている。俺が止まっていても、物事は勝手に動く。俺は、あの隙間に入って待っていればいい。あそこは安全だ。」(意味不明ですね。)

「恐怖を持っていても、持っていなくても状況に変わりはない。なぜなら、それは客観的なもので、それ自身の論理で動くからだ。そうであるならば、恐怖を持っていない方が得だ。」(合理的ですね。)

「ただ、この状態にいて、すべてをじっと観ていればいい。時の流れは遅くなっている。だから、俺は人より速く動ける。『ここ』にいる俺には、誰も触ることができない。俺は安全だ。」(そんなに意味不明じゃないですね。)

「何をどうすればいいかは、この状態でじっと観ていれば、わかるようになっていると感じる。アイデアは、やってくる。行動のタイミングは、身体の衝動が教えてくれる。」(直感です。)

以上の状態と考えをもって、「隙間」に入り、身をかわしながら、ゆっくりと生活の危機をくぐり抜けていきました。(まあ、今も楽な生活じゃないですが。)

私が神の働きを実際に感じたのは、やってくるアイデアと、絶妙な行動のタイミングをもたらす身体の衝動、そして、小さな出来事のあり得ないほど霊妙な織り合わせによって、私が欲したことが実現されたときです。 花岡さんのように、全てを明け渡して諦めたら、神が動いて必要なもの=援助者が与えられたという形ではありません。神は、私を行動へと突き動かし、出来事の織物によって、私が必要とするものを与えてくださるのです。

私は花岡さんが言うような「明け渡し」は、できませんでした。しかし、それを手放すことによって、私用にカスタマイズされた「みこころ」の働き方を知ることが出来たのです。

 

。。。と、まあ、このように述べると花岡さんの言う「明け渡し」は、実際あまり有効ではないと思われるかもしれませんが、他の記事で、私のケースに近いと思われる「あるやり方」について、花岡さんは書いてるんですね。最近、気づきました。(笑)

最初の方で引用した花岡さんのいくつかの記事の「明け渡し」の方法は、花岡さん自身の体験に基づいた方式で、「宣言方式」とでも呼べるやり方でしたが、もう一つのやり方は、「観察者への移動方式」とでも呼べるやり方で、 記事「なんと!読者の方が目覚めはじめました」で述べられています。

その記事は、読者Tさんの変容を紹介する記事ですが、次のように述べられています:

 Tさんから、「恐れを手放すにはどうしたらいいか?」という質問を頂いたいのは、3月28日の事です。 それから、僅か2か月も経たないうちに、これほどの変容が、Tさんに起こりました。 自分を自我という囲いから連れ出し、自我を、思考を、離れた所から観察する。 その時、観察する自分は自我とは全く別の内側に座を置いていることになります。 その静寂に、自分を置くなら、思考のノイズも、うるさいマインドも、まるで他人事のように客観的に見ることができるのです。 ひと度その安らぎの静寂なる場所を得て、そこに留まるなら、つまり、 いかなる時でも、自己を内側に置いて外の世界や、思考の暴れに気付いているなら、マインドは驚くほど穏やかに、静かになるのです。 常にそのように内側に居るなら、あるいは、なるべく多くの時間を内側に居るように心掛けるなら、我々は誰でも、この神聖な場所、ハートを感覚するのです。 ハートは真実のわたし、自分の源泉に直結する場所であり、真実の愛と、智慧に導いてくれます。 Tさんは、それに疑うことなく向き合い、常に憧れ、それを全く信頼しきって、それに全てを明け渡した結果、なじみのある「わたし」ではなく、真我が人生を代行してくれるようになったのです。 わたしもそうでしたが、そうなる事で、思いもかけない内側からの助けがやってきます。 「わたし」が自我に支配されず、内なる真我に、まったく明け渡すなら、真我が責任をもってくれるのです。 「わたし」が真我に目覚め、真我と、もう絶対離れられない同化が起こるのです。

 。。。。これは、「自己観察」のことを言っていますね。 自分の心の中に生じてくる思考や感情などを観察することです。(また、明け渡しの対象は、神ではなく、真我になっています。)

通常我々は、思考や感情に巻き込まれていて、それらと一体になっています。たとえば、「お金がない」という思考が生じるとすぐに「恐怖」という感情が発生し、恐怖感で一杯になります。恐怖=自分の状態になっているわけです。しかし、この恐怖をひとつの物体のように観察しよう、この恐怖という感情はどういうものかもっとよく観てやろうという態度をとり、静かにしてジッとその恐怖感情を心に浮かばせたままで「注意力」=「気づきの力」をやわらかく包むような感じで注ぎます。そうすると、恐怖感と観察する意識=自己が分離し、距離感が生じてきます。もう、恐怖は自分ではなくなっています。ひとつの物体、あるいは、得体のしれない変な生き物のような感じです。自分は、この「それを観察している者」です。この観察者の位置に意識を置き続けるのです。一日24時間です。

そうして、自分の心の中に生じてくるすべてだけでなく、いわゆる「外の出来事」も同じ態度で観察します。なぜならば、「外の出来事」も結局、我々の感覚器官をとおして、心の中に生じている「現象」だからです。 ある自分にとってよくない「外の出来事」が生じると、それに反応して、ある感情や思考が生じます。このプロセスも観察します。「観察」とは、何か生じた時、条件反射的に反応せず、一歩引いて、その出来事全体のプロセスを「よく見る」ことに最大の興味をもつことであると言ってもいいでしょう。何とかしようとしないのです。出来事や状況をコントロールしようという習慣的になってしまっている傾向/欲求を手放すのです。

で、観察するとどうなるか?

1)まず、既に述べたように「観察する自分」が感情や思考や外部の出来事から分離されます。そうして、その自分は、非常に安全であることに気づきます。別の言い方で言うと、感情も思考も出来事もこの自分にタッチできないのです。この自分は揺るぎません。観察の初期の段階では、何度も感情や思考に巻き込まれます。でも、巻き込まれていると気づいたら、すぐに観察者の位置にもどるようにします。そうすると、次第にこの観察者の位置をキープできる時間が長くなってきます。実際にやってみればわかります。

2)次に、観察された対象が力を弱めるという現象が生じます。たとえば、恐怖という感情を観察していると、次第に弱く薄くなることに気づきます。時には、観察したとたんに消滅します。また戻ってきますが、何度でもそれに気づき、観察します。思考でも同じです。将来についての想像、非常に悪いシナリオが湧きおこってきたとき、それに気づき、観察します。たいていの場合、思考は気づかれた途端に力を失い消えていきます。それは、現実ではなくたんなる思考であったとわかるはずです。もっとも、この手の「自分の将来を想像する思考」は、インストールされたプログラムのようなもので、強い傾向性を持っています。自分の将来を考え始めると、すぐにこのプログラムが作動し、同じネガティブなストーリーになってしまいます。ポイントは、これが出来の良くないプログラム=強い傾向性であることを「見る=観察する」ことです。そして、何度作動し始めても、すぐにそれに気づき、それを手放すことです。

記事「なんと!読者の方が目覚めはじめました」の中では、花岡さん流の表現で(私から見ると)かなりロマンチックに書かれていますが、味もそっけもない説明的言葉で書くと、以上のようになります。(私は昔テーラワーダ仏教協会の瞑想会と瞑想教師の地橋秀雄さんの指導の下、ヴィパッサナ瞑想をしたことがあります。その時の経験を思い出しながら、自己観察について書きました。)

この記事の中での「内なる真我に、まったく明け渡すなら」という表現は、この「自己観察方式」においては、まず第一段階として、「観察者になりきる」ということ、「観察者のポジションに自分を置き続ける」ということを意味すると私は考えます。

ほんとうの「真我」は、この「観察者」の膜一枚外にいます。真我は、観察者をも観察しているのです。しかし、その「常に見ている」という性質において、「観察者」は「真我」の子供のようなものです。

観察者でい続ける。その間にこの「ほんとうの真我」に気づく、観察している自分をも見ている目に気づく、その時、「観察者であろうとする努力」を放棄し、この自分を常に見ている存在のたんなるパイプのようなものになろうという気持ちが生じてくる。「赤子のように手を開く」=「手放しする」=「その存在に対する警戒を一切捨て、自分を武装解除する」。その後は、努力する必要なくただ観察=見ることが、それ自体で遂行されていく。

そして、何かが生じる:

真我が人生を代行してくれるようになったのです。 わたしもそうでしたが、そうなる事で、思いもかけない内側からの助けがやってきます。「わたし」が自我に支配されず、内なる真我に、まったく明け渡すなら、真我が責任をもってくれるのです。

私の想像ですが、そういうことなのではないでしょうか。

この記事の読者Tさんの場合、自己観察は、かなりフンワリしたもののようです。あまり厳格な自己観察ではありません。Tさんは、次のように言っています:

 何もしてないのに、ただただ恋焦がれ、目覚めを夢見て、思考に気づくようになり、浮かんで来る思考を感じるようにしてただけなのに…やっぱり、嘘じゃなかった(涙) 信じられない事が起こっちゃいました。 信頼し明け渡したら、すべてがそこにあり、何一つ悪い事なんて起こりませんでした。 ここから、ここから、でも多分起こる事は起こると思うけど、もう怖くて縮こまり、エゴに手渡す事だけは無いと思います。 みなさんのお陰です。お世辞なんかじゃなく、今の私の心をどう説明していいかわかりません。 ありがとうございます。

 

この幼子ように信頼し、明け渡すが多分みんなの最後のピースなような気がします。 みなさん、自分の問題は人はそうでも自分は違うと思いがちですよね。 私だってまだまだ問題山ずみですよー。 でもね、自我にはまりそうになるけど、今は前とは違うのは自覚しています。 一人で背負ってるような、孤独感もないし、私の中に居る私を頼りに、問題(幻想)と向き合ってます。 私たちはみんな、より良い暮らし、願望実現、幸せになるために、戦って、神経擦り減らし、ひとつ願いが叶えばまた次の願いを…と際限がありませんよね。 でも幸せは探さなくても今ここにあります。 願望を叶えるためにエゴと戦い、苦しみながら叶えなくても、エゴを手放せば、全てはここにあります。 このエゴを手放すのが、できなくて、またエゴにはまり苦しむんですよね。 みんなこれができなくて苦しむんですよね。 全てを失うような、裏切られたような、不安や恐れが邪魔してすすめないんです。 私は、とにかく、エゴ(思考)に気付くようにして、苦しくても、泣き叫んでも、起こるがままにしているようにしています。 諦めず、何度でも、やります。 途中、自分を卑下するような言葉も浮かびますが、それも受け入れただ気付いてそのままにしておきます。 時間は問題じゃありません、すると、必ず安堵感でいっぱいになる時があります。たとえ僅かでも、かいま見えたら後は、続けて行けば、段々自分がエゴにコントロールされなくなります。 全てがここにあるとわかった時、向こうから、問題解決がやって来ます。 願望も自然と叶うんだと思います。エゴに惑わされて願望実現しようとすると、実現しないか、叶っても不幸と抱き合わせだったりする気がします。 私たちの本来の目的は、神のシナリオ通り、神じゃないものを経験しながら、神に還る、幻想の中を旅してるんだと私は思ってます。 だから本当はどこかでわかってるのかもしれないですね。 本当は全て叶ってる事を。だから、目覚めると不思議と願望が無くなるんですよね。 幼子は全てわかってるんですよね、見てるとわかります。 私もずいぶんと子供たちに自分の理想を押し付けてしまいました(反省) 私も幼子のようになって明け渡します。

 どうやら、「宣言方式」より「自己観察方式」の方が時間はかかるけど、ソフトで穏やかで効果が高いようですね。

 

長々と書いてしまいましたが、私は、この「自己観察方式」をbirdie さんにお薦めします。

まず、花岡さんと同じようなことが起きると期待しないでください。実際、起きる保証はどこにもありません。

ただ、自分に起きるすべてを観察する「観察者」の位置に移動してください。

最初は難しいかもしれません。何度も感情や思考に巻き込まれます。でも、諦めずに「観察」してください。 やっていれば、自然にいろいろとわかってきます。自分で発見します。

最低限、恐怖や苦しみの感情が減少していくことは保証できます。

「明け渡し」という言葉は、とりあえず忘れてください。できなくてもいいじゃないですか。

そんな言葉は忘れて、ひたすら「ただ見る人」になりきってください。

そうすれば、やがて、birdie さん用にカスタマイズされた形で「みこころ」が動き始めるでしょう。

 

ブログ管理人より