花岡さんの記事を読むことの難しさ:「明け渡し」について(2)
最近、私のパソコンの古いファイルを調べていたら、花岡さんの記事が2つ出てきました。それを見て驚いたのは、コメント欄ごとコピペしたものだったことです。今までまったく気づきませんでした。Hさんからいただいた記事にもこのコメント欄はありませんでした。
その中の一つ、記事「学び知るために体験は現れる」
のコメント欄での読者との問答で、花岡さんは、「明け渡し」について語っています。しかし、この内容は、花岡さん自身の体験に基づいた「宣言方式」で読者に「明け渡し」を薦める他の記事とは、かなり違うのです。
他の記事の基本的トーンは、「みんなできる!やってみてください!でも、マインドのトラップに気を付けてね。期待とか持ち込まないでね。そうすりゃ、みんなできるよ。」というものだったのですが、このコメント欄の問答で言っていることは、そうじゃないのです。
花岡さんの記事を大量に読み、ある事柄について複数の記事でどういっているか比較調査してみると、花岡さんは、非常に矛盾したことを言っている場合がとても多いことに気づきます。半分ずれるくらいならまだしも、時には真逆のことを言っているケースもあります。読者は、この点に注意すべきでしょう。
つまり、一つの記事で花岡さんが、ある事柄について自分の見解を示していても(しかも、『~なのです。』といういつもの断定口調で)、それを、花岡さんの首尾一貫した見解だと受け取ってはいけないということです。他の記事では、別様に述べている可能性があります。
読者は、(花岡さん自身が、『私の言うことを信じてはいけません。』と言っているように)自分の健全な「批判的知性」を用いて「花岡修平」を読むべきでしょう。
以下に、その記事「学び知るために体験は現れる」のコメント欄の問答を示し、私の批判的コメントをつけ加えてみます。
問答は2つあります。最初のものは、「明け渡し」に関するものではありませんが、興味深く、また、批判的検討のいい材料になるので、載せてみました。
【読者N】花岡様
いつも質問に答えていただきありがとうございます。
花岡さんは学びということを強調されます。
苦悩を経ても学ぶ必要があると。
私はここで疑問に思います。
そもそも「何を」学ぶ必要があるのか?
「なぜ」苦悩を強制されてまで学ばなければいけないのか?
そもそも「学ぶ」とはどういうことか?
教えていただけますか?
この質問に対して、花岡さんは次のように応えます。
【花岡】
学ぶというのは知るという事です。
学ぶから知る事ができるのです。
そもそも何を学ぶ必要があるのか?のその、何を?も必要があるのか?も疑問な訳です。
どんな事でも、知りたいという欲求が人にはあるから疑問が湧いて来ます。
「なぜ」、その理由と意味を知って行く、それが人生であって、誰であろうがそのような指向性を持っています。
知る事で人は、完成されていき、恐れや苦悩を手放す事ができるのです。
もちろん学びたくなければ学ばなくてもいいのです。
苦悩を抱えながら、その理由も意味も知る事も無く、最後まで苦悩し続ける事もできるかも知れません。
そのように、知りたくないという望みを持つ事も出来て、それはそのように与えられます。
苦悩を強制した何かが有る訳では無く、望んだから現れた、と言っても、思考しているのはエゴでしかないので、「そんなものは知らない」と言うでしょう。
エゴの中に閉じこもっている事が「知らない」状況を保持していて、それから解放された真実の自分を知らないから、なぜ学ぶ必要があるのか?苦悩など強制されたくないと言いたくなる訳です。
知らなければ進歩は無く、恒久にそのままではないでしょうか。
苦悩を強制した者がいるとしたら、それは何者でしょうか。
強制している者などどこにもいません。
わたしはここで言い直します。
あなたが苦悩を望んだから与えられるというのは、苦悩でもなんでもない起こり来る事を、苦悩として意味づけるその価値観があり、起こり来る事を苦悩と位置付けるように望んでいるという事です。
苦悩でもなんでもなかったのだと知る事が、学ぶという事です。
そうでなかったら、どのようにして苦悩の終焉が訪れるでしょうか。
自分が望んだのではない、誰かが強制してるのだと言う事が、どういう事を言っているのかを、言っているその人が知らなければ、いつまでも実体の無い誰かのせいにし続けてしまい、終わることの無い苦悩を味わい続ける事になります。
それだから知る必要があり、その学びは人生そのものの中に潜在されていると言う事です。
あなたが苦悩でもなんでも無かったのだと気づく事を拒否して、苦悩であると意味づけ続けるなら、その望みも与えられます。
この回答、「わかった」でしょうか?
花岡さん特有の、花岡節とでもいいたくなる語り口で、読む者にとっては、非常に理解しがたい文章になっています。
苦悩を強制した何かが有る訳では無く、望んだから現れた、と言っても、思考しているのはエゴでしかないので、「そんなものは知らない」と言うでしょう。
エゴの中に閉じこもっている事が「知らない」状況を保持していて、それから解放された真実の自分を知らないから、なぜ学ぶ必要があるのか?苦悩など強制されたくないと言いたくなる訳です。
この部分は、要するに「悟らなければ、わからない。」と言ってるわけです。いわば「結果論」です。自我からの解放=悟り。そうなって初めて、自我がしていたことが見えてくるわけですね。ということは、「学び知るために体験が現れる」ことも、悟る前は、本当の意味では「わからない」ことになります。
わたしはここで言い直します。
あなたが苦悩を望んだから与えられるというのは、苦悩でもなんでもない起こり来る事を、苦悩として意味づけるその価値観があり、起こり来る事を苦悩と位置付けるように望んでいるという事です。
苦悩でもなんでもなかったのだと知る事が、学ぶという事です。
そうでなかったら、どのようにして苦悩の終焉が訪れるでしょうか。
自分が望んだのではない、誰かが強制してるのだと言う事が、どういう事を言っているのかを、言っているその人が知らなければ、いつまでも実体の無い誰かのせいにし続けてしまい、終わることの無い苦悩を味わい続ける事になります。
それだから知る必要があり、その学びは人生そのものの中に潜在されていると言う事です。
あなたが苦悩でもなんでも無かったのだと気づく事を拒否して、苦悩であると意味づけ続けるなら、その望みも与えられます。
この部分は、「悟った人が見た『自我世界の光景』」です。悟る前には、見えない「光景」です。
しかし、花岡さんの表現にはおかしな点があると私は思います。「苦悩でもなんでも無かったのだと気づく事を拒否して」という表現、ちょっとおかしい。気づくことを「拒否」なんかしていません。気づけないだけです。
「苦悩であると意味づけ続けるなら、その望みも与えられます。」この部分も、おかしい。苦悩であると意図的に意味づけているわけではなく、そうなってしまうのです。つまり、非常に強い習慣的傾向に巻き込まれているのです。これは「望み」などではなく、強い固着です。なぜ、「自我が望んでいる」などという表現をするのか、私には理解できません。
次の読者の質問です。問題の「明け渡し」についての花岡さんの見解がある問答です。
【読者J】
花岡さん、はじめまして。
どうか教えて下さい。
私はいかなる宗教にも属しておりませんし、一般でいうところの宗教というものの教えに関しても詳しい知識は持っていません。
でも、自分が神からいただいたと思っている自由意志も自我も何もかも主なる神の手に委ねてしまうことが出来れば、どんなに良いかと思っています。
しかし、頭ではわかっているつもりでも、いざやろうと思うとわからない点があるのです。
例えば、「全てを主なる神に全託します。主よ、どうか私をあなたの御意志どおりにお使い下さい。」と神に祈ったとします。
そして、今、解決しなければならない問題をいくつか抱えている場合、やはり今までどおり、問題解決のために最善と思う事を精一杯やっていけばよいのですか?
私は諸問題と向き合っているうちに、どうしてもこの世界に巻き込まれてしまいます。見る者の立場でい続ける事もまだ未熟な私には無理なようです。
しかし、ただただ全てを受け入れ、最善と思うことをやっていけば良いのでしょうか?
それとも、全てを神に任せたのだから、私は何もしないで問題もほおっておけば良いのだと考えるべきなのでしょうか?
あと、もう一つ教えて下さい。
「本当の自分が誰なのか?」。本当の自分をチラリとでも、ほんの一瞬でも垣間見る事が出来て、自分は身体ではない、心ではない、ましてや自我でもない、と、わかったあとでなければ、神への全託は難しいでしょうか?
すみません。私の質問がちょっと曖昧で、お聞きしたい事がわかりづらい文章かもしれませんが、花岡さんのご意見をお聞き出来れば本当に嬉しく思います。
どうぞよろしくお願いします。
これに対して、花岡さんは次のように答えます。
【花岡】
自分を明け渡して神に全託するというのは、何もバイアスがない場合難しい事です。
そのために人は苦悩を味わうシステムが出来ているのだと思うのです。
生半可ではない、極限の苦悩を味わい続けるとき、誰でも「もうどうでもいい、なるようになれ、後は神様の好きなようにお任せしよう」みたいなホールドアップ状態になると思うのです。
そこで苦悩と戦う事を放棄するなら、心底神に差出し、神の為すまま受け入れようと言う完全委託が為されるのではないかと思うのです。
苦悩と戦う事を放棄しないのは、極限の苦悩を味わっているのではないと言う事ではないかと思うのです。
それだから自我は諦めないのだと思うのです。
諦めず苦の要因と、苦そのものとも戦い続けるから、苦悩は消滅せず、現れ来るのでしょう。
しかし苦と位置付けているそれら問題は、自分の都合によって自分が意味づけている場合が多いのではないでしょうか。
世間の一般式に当てはまる苦悩を言っているのではありません。
あなた自身についての苦悩を言っているのです。
あなたが導かれるためには、あなたの問題を解決するだけで事足ります。
決して世間では、周囲では、知り合いは、と言う自分以外の苦悩の事ではなく、あなたにとっての苦悩について言っているのです。
では、苦悩を誘発剤として自我を差出し神に全託する以外無いのかと言えば、そうではなく、自己、あるいは自己以外を深く洞察し、見える世界、現れ来る現象、それらが真実実在であるかどうかを見抜く事によって真実の唯一実体を知る事も出来るのです。
しかし、その手法は難易度が高く、日常に浸りきっている我々には敷居が高すぎるのです。
そうであっても、そのほうが自分に向いているという人も居るのです。
どちらにしても、「さあて、やるか・・・」みたいに、やろうとしてやるというのは、そこに対象への執着が在る訳です。
執着は常に気付きに専心する事を妨げます。
そしてまた、その執着が苦の要因でもあるのです。
いずれにしても、神のみこころ、導きに頼らなければ、自分の明け渡しすら思うとおりになりません。
それはまた、神は必ずそのように導いてくださるのだ、と言う事でもあります。
人は誰でも、やろうと思ったらすぐ出来るかと言えば、そんなことは無いのです。
そのチャンスは、やがて巡って来るのだと思うのです。
人生の順番を飛び越えて、そこには行けないのだと思うのです。
さてそこで2番目の質問です。
神を悟るから明け渡せるというのではありません。
明け渡すから、神を悟れるのです。
そして、1番目の質問です。
問題解決のために、それを問題視しているのは何であるかを見極めてから、為せる事を無理の無いように為すのがいいのではないでしょうか。
つまり、
それは事実問題なのでしょうか。
自分の都合が意味づけているのではないのでしょうか。
事実問題なのであれば、為せる事を為せばいい。
それは戦いであってはなりません。
最善を尽くすというのは、頑張ると言う事ですか?
落ち着いて、エゴが頑張らせているのか(自己保身とか)、それとも自分の奥底の気持ちなのか、見極めてから為せる事を為すのがいいと思うのです。
さて、「わかった」でしょうか?
最大の問題点は:
どちらにしても、「さあて、やるか・・・」みたいに、やろうとしてやるというのは、そこに対象への執着が在る訳です。
執着は常に気付きに専心する事を妨げます。
そしてまた、その執着が苦の要因でもあるのです。
いずれにしても、神のみこころ、導きに頼らなければ、自分の明け渡しすら思うとおりになりません。
それはまた、神は必ずそのように導いてくださるのだ、と言う事でもあります。
人は誰でも、やろうと思ったらすぐ出来るかと言えば、そんなことは無いのです。
そのチャンスは、やがて巡って来るのだと思うのです。
人生の順番を飛び越えて、そこには行けないのだと思うのです。
という部分。
結局、自分で「明け渡し」しようと思って、試みても無理。「みこころ」が導く「その時」が来なければできないよ。そう言っている訳です。
。。。。では、なぜ、花岡さんは他の記事で「明け渡し」を積極的に読者に薦めたのでしょうか?
たとえば、「あなたへのメッセージ」では、次のように言っています。
わたしは、同じ事を、何度も言い続けています。
耳を傾けてください。
自我も、マインドも、一切の期待も手放し、あなたの源泉に明け渡してください。
それはあなたを裏切りません。
けっして突き放したりはしません。
ただ、期待も一緒に明け渡してください。
全て、その御心に任せ、与えられるものだけを頂いてください。
そうするなら、この大きな愛と共に、全てが与えられるでしょう。
そして次第に、智慧による理解が起こっていくでしょう。
そうなってしまうんです。
そうなってしまいましたっていう報告を、待っています。
なにも要らない!
なにも惜しくない!
静かな所で、そう宣言するのです。
そう宣言して、どこにもそのカケラを残していない事を確認してください。
ミラクルが起こります。
。。。。何なんでしょう、この「矛盾」は?
我々は、どちらの見解を信用したらいいんでしょうか?
現時点での私の個人的見解は、次のようなものになります。
●花岡さん自身の経験に基づいた「明け渡し」のやり方を、いくら読者に薦めても、それは出来ない。
花岡さん自身が言っているように、悟った人の真似をしてもだめで、各人には、各人固有の人生の歩み中でもたらされる方法というものがある。
それは、その人用にカスタマイズされたもので、他の人が真似しても効果は薄い。
●苦悩の極限で、全てを手放すことによって生じる事態は、まさに花岡さんがコメント欄で言っているように、「みこころ」が主導するもので、自我がやろうと思ってもできるものではない。自我を手放すことは、自我にはできない。
●前記事で述べた「自己観察方式」は、時間はかかるが、より普遍性が高い。なぜならば、期待など自我の欲するすべてが観察され=見抜かれ、自動的に力を失い、消滅していくからだ。
真我への明け渡しは、決断によってではなく、徐々に生じる「抵抗の消滅」によって自動的になされる。決定的瞬間の訪れは、「みこころ」次第だが、それまでに自我は、昼間の月のように薄くなっている。
●現実の個々人のケースでは、様々な要因がミックスされた形でそれは起こる。たとえば、自己観察と神への憧れ、そして極度の苦悩の中でのすべての手放しの混合。
ブログ管理人より