わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】悟ったのかと聞かれても

あなたは悟ったのですか? 直球勝負で来る人は、とことん直球の質問を投げてきます。

わたしはいつもこう聞かれて、正直に言うと、どう答えていいか、なかなか言葉が出てきません。

それは、「悟った」という状態がどういうものなのか、実は知らないからです。

ただ、以前の自分とは明らかに違うという事は言えます。
なにが違うのかといえば、

まったく願望がありません。
欲しいものがありません。
何にも執着しません。

だから「悟り」さえ、欲しいとも思いません。
そのようなものは、どうでもいいのです。

ただ、今までの価値観は完全に消滅して、知らなかった真実がわたしの中を占めています。

あの日、この胸の「ここ」に、言葉では言い尽くせない至福が溢れてきてから、
条件なしの、理由なしの、わけ隔てのない愛に包まれてから、
わからなかった事が次々わかっていって、

今までの自我に支配されていた自分が、
あれやこれや、思い悩んでいた自分が、苦しんでいた自分が、惨めな自分が、
人を恨む自分が、嫌悪する自分が、逃避する自分が、他を羨む自分が、

完全に吹っ飛んでしまって、

ああ、このまんまで、いいんだと、心底思えて、

完全に自由になった感覚と、
なによりも、この内側に源泉を、神を感覚できる幸せと、
溢れる感謝の想いと、

全ては源泉と自分との関係から現れているこの世界を感覚して、
全ては自分そのものだと感覚できる解放感と、

こうなってしまった以上、「悟り」とか「覚醒」とか、
もうそんなもの、どうだっていいじゃないかって思えるのです。

あの日、わたしは自分の一切を神に明け渡しました。
明け渡した自分は、もう、神が好きなようにすればいい。
後は、なんでも受け入れる。

スッタニパータで仏陀が言う、雨を降らせるなら降らせよ・・・っていう状態です。

どのような雨でも、わたしは微笑んで受け取りましょう。
そう、「ここ」から溢れ出る至福で、わたしの口角はいつも上がりっぱなしです。
微笑んで日常を生きていられます。

今までと同じように、明日はどうなるかわからない身の上でも、
明日食べるお米が有ろうが無かろうが、わからない身の上でも、
(実際にそうなんです)

空中を飛び回る夥しい光の粒子たち
闇を漂う霧
虹色に輝く雲

正体がつかめぬものも見えたりするけれど、
わからないものはわからないままでいい。
わからなくてもいいものもあるのでしょう。

なにも持っていない事が、なんと幸せな事でしょう。

第四のチャクラと、第七のチャクラが開きました。

神と共に在る事の喜びも、おそらく伝えきる事など出来ないでしょう。

それだから、わたしは悟ったかどうかなど、どうでもいいし、
そんなこと、知りません。

わたしは思うのです。
「わたしは悟った」などと言う聖者は、きっと悟ってなどいないのでしょう。
それは他者が、どのようにでも判断していい事なのでしょう。

金剛般若経にあるように、
悟った悟ったというのは、悟っているのではない、それだから悟りと言われるのだ・・・と。

全くそのとおりだと、全く全く、そのとおりだと、わかるのです。

悟ったと言い切れるのは、悟りに執着があるのでしょう。
心のどこかに、虚栄を隠しているのでしょう。
ほんとうは、悟りなどと言うものは無いのです。
それだから、「悟り」と言われるのです。

あるがまま。
それでいい。

それで何も間違っていない。



2012-03-22

 

 

shikoutoshi.hatenablog.jp

 

*「自分は悟ったのか」ということに関しての花岡さんの言説(コメント欄でのやりとりを含む)を時系列で丹念に追っていくと様々に揺れ動いているのがわかります。興味のある方は、その点に注目して今後の記事を読んでみてください。

結論を言うと、直接的に「自分は悟った」とは言っていませんが、間接的に「自分は悟った」と受け取れる発言を何回もしています。

 

また、「チャクラが開いた」ということに関しての言説も同様に揺れ動いています。「エピソード(3)クンダリーニ」からチャクラ関連の事柄への言及が始まりますが、すべて自己流の行によって生じた現象を自己流に解釈しています。その点に注意して、今後のチャクラ関連の記述を読んでみてください。

 

(ブログ管理人より)