わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】善い人・悪い人

どんな極道でも、心のどこかには、人のために善い事をしようとする、
「あがき」のような、神性、仏性を持っているに違いありません。
また、どんなに善人に見える人でも、心のどこかには、醜悪なものを潜めているかもしれません。

どんな人であっても、極と極の間にあり、そこを漂っているだけです。
そうであるなら、彼は極悪人だと、どうして断言できるでしょうか。
自らの心に、その種を抱えていながら、どうして彼を断定できるのでしょうか。

また、どうして自分は善人であるとか、彼は善人であると断言できるのでしょうか。

二元の世界で、これら二つの素因を誰もが持ち合わせているのであれば、
その断言こそが偏りです。

今までも、今でも、これからも、わたしは悪い事を一切しないと言い切ったとしても、
対極の種を持ちながら、それが芽を出さないだろうと、どうして言えるのでしょうか。

そのように両極の種を抱えているのであれば、どのような善い行いも、偽善です。

善い、悪い、と断定する分離線を、自分の意識の中に引いてるだけです。

本当の善い事は、善い事を為そうとせずに、為すそれらが結局善い結果を招く事、それが善い事です。
彼は善い事をしようと思う事無く、善い事だけをして、しかも善い事をしたという思いも起こりません。

何か人に対して、善により施したとか、救ったとか、してやったのだと思いなすなら、
それは偽善者でしょう。

行為は、人のために為すのではなく、自らの糧(成長)として為されるのです。

そうであるなら、いかなる見返りをも受け取るべきではありません。
為した事に対して、贖いを受けるのであれば、神との契約による贖いを放棄したことになるのです。

それだから、優しい人でいても、優しい人と思わせる優しさを見せてはいけません。
気づかれる優しさは、どこかに気づいて欲しいという期待を隠し持っているからです。
ただ、優しくしようとせず、為すそれらが結果的に、人の心に響くなら、それは真実優しいのです。
彼は優しくしようとする事無く、優しくあって、しかも自分は優しいという思いも起こしません。

人が見ている前で、神に祈るような事をしないでください。
人は褒め、敬おうとも、そうであるなら、神は見ないでしょう。

人が見ている前で、公共の場所を掃除しないでください。
人は賞賛しようとも、そうであるなら、神は見ないでしょう。

そのように作為する事無く、ただ為す事が、善く、優しく、また、善いと思い為す事も、優しいと思い為す事も無いのであれば、
極も対極も無く、それは尊い中道に在るのです。

そのような人は、自分を断定する事がないように、誰をも断定しません。

断定されるべき万象など無い事を知っているからです。

それが、あるがまま、すなわち、中道です。

あの人は悪い人だと断定するから、あなたにとってのあの人は悪い人です。
そのようなラベルを貼ってしまうから、あなたにとっての虚像のあの人が悪い人になるのです。
断定によって価値を決めているのです。

本当は断定されるべき根拠などありません。

自分はだめな奴だと、あなたが断定するから、あなたはだめな奴なのです。
そのようなプライスシールを貼ってしまうから、だめな奴という虚像の自分を見るのです。

そのような断定すべき思い込みを止めなければいけません。
自分を責める自分の断定を解き放してください。
他人を咎める自分の断定を見直してみてください。

ねばならない。であるべきだ。・・・まちがった当たり前に疑問をもってください。

ほんとうは、あなたにとっての悪いあの人は、悪くはない事に気づきます。
ほんとうは、自分にとっての自分は、だめな奴でもなんでもない事に気づきます。

二極の中を、どちらかに偏って考えていただけなのです。

断定は、極だけを見ているのです。
あるがままは、いつだって中道です。

幻が消え去ると、あの人は結構、いい人なのです。
幻が消え去ると、自分は結構、素敵な奴なのです。

 

2012-04-20

 

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