わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】夢のあとさき

めったに夢を見る事などないのに、夢を見ました。
月に2度、3度見れば、見た方です。
それほど、わたしにとって眠りの時間は短く、夢に貴重な時間を割きたくないのでしょう。

さて、夢の内容についてではなく、
おもしろい事に、夢を見ながら、わたしは夢を観察していたのです。
登場人物の顔、体型、髪、動作、そして、周囲の壁や、インテリア、言葉、表情、ストーリー。
なんと、ありとあらゆる物を、夢を見ているわたしが、作り出していたのを見ていたのです。
それは、あそこに世界地図の文字盤の掛け時計を、あそこにポトスの観葉植物を、その時彼がこう言い、それに彼女がこう応え、
そして、自分はこう行動するだろうと、それにまた、彼らがこう反応するだろうと、

そのいちいちを、全てを、自分が・・・
自分が登場するその夢の場面を、見ている自分がまず想像して、それが瞬間にそのように夢に反映されてしまっていたのです。
そして、さらに夢見ている自分を含めて観察する自分に気づいていたのです。
目覚めている自分です。

夢を冷静に観察する。
このような事ができるのです。

瞬間の想像と、瞬間の意味づけの連鎖が、一続きの夢を作り出していたのです。
極短い時間の先を予知しているように、実は、自分で想像していた創造であることを、はっきりと見て取ったのです。

夢の中の自分役のキャラクターは、その中では明らかに自分ですが、それは夢を見ている側の自分の想像です。
子供が、フィギュアを使ってナンチャラマン遊びをしているのと同じです。
これは自分の役、これは悪人の役、と、想定して、その世界に入り込んでいる子供の遊びと同じです。

その夢と、その夢が現れる想像そのものと、その夢が現れる瞬間と、それらを見ている意識と、
その意識を見ている自分とを、同時にわたしは見ていたのです。

つまり、夢のわたし、夢を作るわたし、それを観察するわたし、その三者が同時に存在していたのです。

これは、まったく現実の世界の現れ方と同じです。
夢は、現実世界の現れ方の縮図です。
自我意識の癖が、眠りにおいても、世界を創造し続けようとしている癖です。

世界の現れ方とはそういうものです。

自分と言うキャラクターも、世界も、自分の意識が展開する世界です。
欲と恐れと執着という意味づけが、想像のエネルギーです。

この身体をもって脳を働かせ、主体と思って疑わないわたしは、
自我意識というわたしの想像の産物です。
しかし、自我意識というわたしも、真我というわたしが、体験する場に送り出したものです。

ある意味、三位一体です。

自我が、自らの欲と恐れと執着によって、身体のわたしを誘導しているのです。
身体のわたしという主体と、世界という客体を、自我の意識の中に創り出しているのです。
それを、真我のわたしは、ただ見ています。

自我のわたしが体験する事を、真我のわたしも同時に見て、自我の心に湧き起る様々な変化を、
感情を、願望を、恐怖を、苦悩を、楽しみを、悦楽を、悲哀を、見ているのです。

わたしがいつも感じていた、まなざしです。
彼はわたしでした。

体験を見ることで、自らも豊かになっていく真我。
リーラの仕組みです。
マーヤのちからです。
そのように身体の自分を運んでいるのです。

自我意識が消えるとき、身体のわたしも消え、残るのは真我のわたしです。

真実在るのは、それだけです。

「わたしが在る」と「神が在る」との明確な境が消え去るのです。
もはや、区別できなくなるのです。
なんという事でしょう。
神が在るのは、わたしが在るからであって、
わたしが無ければ、神さえ無いのです。

25歳の時に頂いた啓示が、
今繋がったのです。

わたしの世界とはそういものです。
あなたの世界もそうなのです。
わたしの世界をたどり、根本にたどり着けば、
それはあなたの世界の根本です。

それが瞬間瞬間活動の只中にあって、瞬間瞬間の今が、わたしに生まれています。
ほんとうは瞬間瞬間の崩壊と構築の連鎖です。
消え去り現れます。

常に、新しい今であり、新しいわたしです。

それを生きていると感覚しているのは、記憶に住むわたしです。
ほんとうは生まれても、生きてもいないのだけれど、
記憶に住むわたしが、生きていると感覚するとき、
一連の流れの中に、神の大意、みこころを見て取れるのです。

ほんとうは何も無い、ただ在るなのだけれど、
ほんとうは、みこころの愛なのです。
それだから、何も無いのだけれど、すべてに意味があるのです。
このような矛盾した表現しかできません。
とてもシンプルなのに、言葉で言えばとても難解です。

 

  2012-04-25

  

 

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