わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】悟りを阻むもの

目覚めにグル(師)は、必ずしも必要ではありません。
しかし、グルに師事したほうがシックリくる人もいます。

どちらにせよ、最終的には、拠り所は自らの内にあります。
それを疑う事無く、気づきへの憧れを捨てず、自己浄化に励むなら、
人は悟りへと運ばれていきます。

しかし、悟りは簡単にはいきません。
世の中に、悟った人は確かに居るのだけれど、希なのです。
史実を見ても、それは納得できると思います。

それじゃ、誰もが悟れるのだというのは、嘘かといえば、そうではありません。
確かに誰でも悟れるのだけれど、体験しなければならない事をクリアしなければいけないのです。
そのために生まれてくるのですから。

人生という道の途中で、あるいは、何度目かの物語の途中で、悟りがあるのだという事を知らされます。
そうすると、自分も悟りたい、自分も、自分も、と、誰でも思います。
それは、悟りへの憧れを呼び起こすために、そのようにデザインされています。

欲望とは違う、悟りへの純粋な憧れ無くして、その方向を向く事はできません。

しかし、悟りは、数多くの物語の最終章にしか用意されていません。
そうであるのに、道の途中で悟りと聞き、悟りへの憧れが起こり、なんと次には、悟りへの執着に変わってしまいます。
掴むため、手に入れるため、戦う事になってしまうのです。
近道をしたいがため、焦るのです。人より抜きん出たいがために自ら壁をつくります。
まず、戦うのを止めない事には、どうにもなりません。

人とは、体験する者であり、最終章において、悟ってしまえば、もはや、体験する物語はなく、
人として生まれてくる意味が消滅します。
もう、生まれてくるという物語をさがす必要もありません。

そうなるまでは、どうしたって悟れないようにできているのです。
体験させられるように出来ているのです。

人生の目的のメインは、体験し、学ぶ事ですから。
それを受け入れて謙虚に生きていくなら、あとは心配しなくても、悟る事になるのです。
体験と学びが終わる時、悟りが具現すると言う事です。

マーヤ(幻想)が、そのように全てを現し、全てを運び、全てを終焉に導きます。
悟れないようにする働きもマーヤです。
悟りに導く働きもマーヤです。
生きていると感覚するのもマーヤによって幻想が現れているのです。
そのようなリーラ(神の戯れ)の意図です。

もちろん神の戯れというのは、方便です。
それを言い表す言葉が無いから、そう言ってるだけです。

マーヤによって執着し、執着によって捉われ、捉われによって断定し、断定によって不自由になります。

できないできないという不自由さは、マーヤの力によるのです。
であれば、その事に気づかなくてはいけません。
マーヤの幻想を見抜けばいいのです。

マーヤが気づきを阻止しているのです。
それが、マーヤの使命なのです。
執着によって捉われていたのだと、気づけばいいのです。
捉われによって断定していたのだと、気づけばいいのです。
断定によって、不自由になっていたのだと、気づけばいいのです。

現象世界のあらゆるものがマーヤであり、幻想であり、イリュージョンです。

マインドはどうしてもマーヤの幻想を追い、「わたし」を自我に縛り付けます。
マーヤによって、信じ、疑い、拒否し、マーヤによって無明(無知)に陥ります。
そうして、疑心が生まれます。

それだから人は、グル(師)を信頼しきれません。
信頼しきれないから、彼の指導が花を開かないのです。

そのように、あっちのグル、こっちのグルと、さ迷います。
そのような姿勢で、どうして砂の中の蜜を吸うことができましょうか。

蟻は、砂の中から、ほんのわずかな蜜を吸い、喜び、楽しみます。
蜜の匂いを嗅ぎ分け、そこに蜜があるのだと疑わず、ひたすら探すからです。
そうであるなら、あなたも嗅ぎ分けなければいけません。

嗅ぎ分けて、もしも、そのグルが、確かに悟っていると観るならば、ただ彼にだけ師事し、尊敬し、頼り、
彼の波動と同期するまで、彼と共にいなければいけません。
そこに蜜があるのですから。

たとえグルが、自分の思う尺度とちがう行動、発言をしたとしても、それは断定という尺度です。
彼が確実に悟っているなら、彼は間違った行動や発言をする事は無いのです。

高慢に見えても、イジワルに見えても、リトリートの参加費が高いんじゃないの?って思っても、
それは、自分で作り上げた計りで測っているのです。
そうやって、自分で作り上げた物差しで測って、グルを信頼しきれないのです。

偽物ではなく、本物を確信するなら、絶対的にグルを信頼してみてください。
そういう選択をしてみてください。
結果は、変わります。

選択するなら、マーヤがデザインを瞬時に書き換え、悟りに運ぶのです。
ほんとうの事を言えば、デザインは、絶え間ない取り消しと書き換えによって、全てを整合させているのです。
そうして、結果的に、デザインは決まっていたとなるのです。

真実は、そのように入り組んだ、断定できないものなのです。

断定できないものを、人は、意味づけようとするのです。
真実は、とてもシンプルであるにも関わらず、人の意味づけが、事を深刻にしているのに気づきません。

もしも、あなたが、信頼するに足るグルに出会ったなら、ひたすら信頼し、頼り、誠を捧げなさい。
そうすれば、そこで、あなたは恩寵を頂けることになるのです。
あなたの内なるグル、サットグルが恩寵を賜るのです。

それでも、わたしはグルは無くても恩寵は受け取れると言う立場です。
しかし、人は様々で、グルによってある程度準備を整える人もいるわけです。
グルに師事するのは、すでに決まっているデザインであり、それを縁(えにし)と言います。
生きているものも、そうでないものも、現象の運行も、それで相互に繋がっています。
偉大なるインドラの網です。
人が、ひとつの選択をする時、それは全てに影響を及ぼすのです。
今選択すれば、今、宇宙の果てまでそれが及ぶのです。

わたしはグルの立場ではないから、体験と知り得た事だけを言うだけです。
わたしにはグルの適正がありません。
たぶん、グルに師事した人だけが、グルとしての資質を継承するのでしょう。

わたしは、すでに何をも得なくてもいいと結論づけたからには、
いかなる質のものであれ、与えるもの(真理)の見返り、代価も、代償も、受け取れない体質になってしまったのです。
それは事の初めから、すでにみんなのものであるのに、どうして見返りなど要求できましょう。
それがわたしの立場です。

わたしはただ、全ての人に悟りあれと願うだけです。
わたしの内なる神が、そうわたしに伝えてくるからです。

 

2012-05-15

 

 

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